宣教 列王記下2章1~14節
今日はは「エリヤの外套」と題し、み言葉に聴いていきます。先ほど列王記下2章が読まれました。ここには「エリヤの召天とエリシャの奇跡」について記されていますが。この今日新たに登場したエリシャについてちょっと先週お読みした列王記上19章のところを確認したいと思います。そこをまずお開き戴けますでしょうか。
その列王記上19章16節のところに、主がエリヤに「アベル・メホラの地に住むシャハトの子エリシャに油を注ぎ、あなたの後継者とせよ」と命じておられます。エリヤはそのみ言葉に従い、エリシャに会い、自分の外套を彼に投げかけた」(19)のであります。
それは「神がエリシャをエリヤの後継者として選ばれた」ことを象徴的に表している訳ですが、ここで私はこの、「投げかけた」という言葉にどうもひっかかりを感じました。それはエリヤがエリシャに外套を「着せた」とか「手渡した」とかじゃなく、「投げかけた」んですね。そんなエリヤの文字通りどこか投げやりな態度。それは私の勝手な読み込みであるのかもしれませんが、エリヤ自身はまだまだ後継者のことなど考えてもいなかったのかも知れませんね。スポーツや文化芸術の世界でも、「わたしゃ弟子をとらない」「一代で結構」などと言う方もおられるようですが。まあエリヤはそのようなことを言ったのかどうか定かではありませんが。彼はどこか一匹狼的な人、孤高の人といった感があります。しかし、彼は主の言葉としてそれに聴き従い、「投げかけた」という言葉に表されるように、自分の思いを放棄して、主の言葉通りに「エリシャを後継者にした」のであります。
このエリシャですが、エリヤについてはただテシュべ人とだけ紹介され、その人となりについては全くといっていいほど不明であり、一匹狼のような人でしたが。エリシャはそのエリヤとは対照的に、どこの出身で、誰の子で、12くびきの牛や畑を所有するほどのかなりの資産家で、両親は健在であったのです。しかしそのエリシャもまた、これら世の財産、生計の術、生活の拠り所、家族など持っているもの一切を放棄し、まあなげうって最愛の両親とも別れて、エリヤに従い、仕えたのですね。
ただ、それが「はい。そうです」とたやすく出来たかといえば、そうではなく、ここに「両親のところに行って別れの接吻をしてから、従います」とエリヤに告げているように、エリシャにも心の揺れといいますか、まだ未練があったのでありましょう。
しかし21節「エリシャはエリヤを残して帰ると、一くびきの牛を取ってほふり、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた」とありますように、ここに彼の決意が表されています。そして、エリシャはエリヤに従い、仕えるのであります。エリシャは安定した生活、自分の将来を保証するような立場、又様々な願望をもそこで放棄し、主にすべてを委ねて従ったのです。イエスさまの12弟子であるペトロやアンデレら漁師であった者は、イエスさまの呼びかけに応え、生活の術である舟と網をその場において従っていきました。私たちはそれぞれに自分の歩調やペースというものがあり、それぞれに大切にしているものがあります。様々な願望だってあるでしょう。けれども時として主の呼びかけがそれら自分の思いと異なる場合があります。たとえば日常の人との関わりの中でも、御言葉の迫りがあり、葛藤が起こることがあるでしょう。又、自分の計画と神の招きの時が異なることも起こり得るでしょう。しかしそれら自分の考えや立場、計画といったものをひとまず置いて、まず主に従っていくことで世にはない平安を受けるのであります。
さて、本日の「エリヤの召天とエリシャの奇跡」の個所でありますが、ここにも興味深いことに「エリヤの外套」のことが出てくるのです。エリヤとエリヤが話をしながら歩いていると、「火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分け、エリヤは嵐の中を天に上って行った」というのであります。主なる神がエリヤを天に引き上げられたのです。この火の戦車、火の馬、嵐が何を意味するのかはよく分かりませんが、それはこのエリヤが万軍の主の預言者として仕えたその勇ましくも忠実な活動を彷彿とさせます。
エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかったので、自分の衣をつかんで二つに引き裂いた」(12)とあります。最愛の師を失ったエリシャの憤りと悲しみはいかばかりであったでしょう。
しかしどのような人であろうと、人は別れの時を迎えなければなりません。そしてそれは又、新たな旅立ち、あるいは新たな出発の時でもあるのです。
エリヤとてイスラエルの民の行く末を案じ、まだまだ預言者として働きたいというおもいを持っていたかもしれません。或いはもっとエリシャに伝えたいことがあったかも知れません。一方エリシャにしてみれば、もっとエリヤと共にいて、神の人、神に仕える者として生き、働くすべを学びたかったかも知れません。しかしすべて「人の歩む道は御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる」(箴言5:21)のです。
エリヤが天に召された後、「エリヤの着ていた外套が落ちてきたのを、エリシャが拾う」のでありますが。それはまさにエリヤの霊をエリシャに継承させたことを示すものです。
エリシャが外套を取って、それで水を打つと、かつてエリヤがなしたとおり、ヨルダン川の「水は左右に分かれ、彼はそこを渡ることができた」というのです。師の約束通り、エリシャの願いは聞き届けられたのです。
はじめに、私は「エリヤが外套をエリシャにかける」行為は、主の言葉通り「エリシャが後継者となった」ことを象徴していると言いました。それは「天から落ちて来たエリヤの着ていた外套をエリシャが拾った」ということもまた、エリヤ自身の思いというよりも、主なる神さまがそのようにお計りになられたことであります。
祈祷会の時に、牧師は一体ここからどのような礼拝メッセージをされるのでしょう?というお声を聴きました。そうですね、私自身がこの個所から示されたこと。それは、エリヤの外套にまつわる「自己放棄」或いは「断念」についてであります。しかしそれは決して消極的な意味ではありません。まず自分の思いや願いを優先させるのではなく、何よりも主にゆだね切って、示される道にまっすぐに従っていく。そこに万事を益としてくださる主が新しい事を起こしてくださるという励ましを戴くのです。
エリシャはある意味エリヤをもはや頼りとすることが出来なくなったのでありますが、しかしそれによって自らが神の前に立つものとされてゆきます。それは信仰的自立の物語でありましょう。自分がこだわり固執してきたものを「手放す」ことによって、神さまから「与えられる」新たな可能性の物語でありましょう。このエピソードをどう自分のこととして読んでゆくか。それはお一人お一人違うでありましょう。しかしただ一つ言えることは、私たちもまた自分がぎゅっと握りしめているものを手放し、投げかけるものであり、又受け取って、継承して行く者であるということです。
「今この時にしか出来ないことを大切に生きる」ということが、今日み言葉を通して語られているのだと思います。明け渡す側も、又新しく受けとる側も、主が先立ってくださり、助けてくださることを信じて、主に信頼し、従ってまいりましょう。
今日はは「エリヤの外套」と題し、み言葉に聴いていきます。先ほど列王記下2章が読まれました。ここには「エリヤの召天とエリシャの奇跡」について記されていますが。この今日新たに登場したエリシャについてちょっと先週お読みした列王記上19章のところを確認したいと思います。そこをまずお開き戴けますでしょうか。
その列王記上19章16節のところに、主がエリヤに「アベル・メホラの地に住むシャハトの子エリシャに油を注ぎ、あなたの後継者とせよ」と命じておられます。エリヤはそのみ言葉に従い、エリシャに会い、自分の外套を彼に投げかけた」(19)のであります。
それは「神がエリシャをエリヤの後継者として選ばれた」ことを象徴的に表している訳ですが、ここで私はこの、「投げかけた」という言葉にどうもひっかかりを感じました。それはエリヤがエリシャに外套を「着せた」とか「手渡した」とかじゃなく、「投げかけた」んですね。そんなエリヤの文字通りどこか投げやりな態度。それは私の勝手な読み込みであるのかもしれませんが、エリヤ自身はまだまだ後継者のことなど考えてもいなかったのかも知れませんね。スポーツや文化芸術の世界でも、「わたしゃ弟子をとらない」「一代で結構」などと言う方もおられるようですが。まあエリヤはそのようなことを言ったのかどうか定かではありませんが。彼はどこか一匹狼的な人、孤高の人といった感があります。しかし、彼は主の言葉としてそれに聴き従い、「投げかけた」という言葉に表されるように、自分の思いを放棄して、主の言葉通りに「エリシャを後継者にした」のであります。
このエリシャですが、エリヤについてはただテシュべ人とだけ紹介され、その人となりについては全くといっていいほど不明であり、一匹狼のような人でしたが。エリシャはそのエリヤとは対照的に、どこの出身で、誰の子で、12くびきの牛や畑を所有するほどのかなりの資産家で、両親は健在であったのです。しかしそのエリシャもまた、これら世の財産、生計の術、生活の拠り所、家族など持っているもの一切を放棄し、まあなげうって最愛の両親とも別れて、エリヤに従い、仕えたのですね。
ただ、それが「はい。そうです」とたやすく出来たかといえば、そうではなく、ここに「両親のところに行って別れの接吻をしてから、従います」とエリヤに告げているように、エリシャにも心の揺れといいますか、まだ未練があったのでありましょう。
しかし21節「エリシャはエリヤを残して帰ると、一くびきの牛を取ってほふり、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた」とありますように、ここに彼の決意が表されています。そして、エリシャはエリヤに従い、仕えるのであります。エリシャは安定した生活、自分の将来を保証するような立場、又様々な願望をもそこで放棄し、主にすべてを委ねて従ったのです。イエスさまの12弟子であるペトロやアンデレら漁師であった者は、イエスさまの呼びかけに応え、生活の術である舟と網をその場において従っていきました。私たちはそれぞれに自分の歩調やペースというものがあり、それぞれに大切にしているものがあります。様々な願望だってあるでしょう。けれども時として主の呼びかけがそれら自分の思いと異なる場合があります。たとえば日常の人との関わりの中でも、御言葉の迫りがあり、葛藤が起こることがあるでしょう。又、自分の計画と神の招きの時が異なることも起こり得るでしょう。しかしそれら自分の考えや立場、計画といったものをひとまず置いて、まず主に従っていくことで世にはない平安を受けるのであります。
さて、本日の「エリヤの召天とエリシャの奇跡」の個所でありますが、ここにも興味深いことに「エリヤの外套」のことが出てくるのです。エリヤとエリヤが話をしながら歩いていると、「火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分け、エリヤは嵐の中を天に上って行った」というのであります。主なる神がエリヤを天に引き上げられたのです。この火の戦車、火の馬、嵐が何を意味するのかはよく分かりませんが、それはこのエリヤが万軍の主の預言者として仕えたその勇ましくも忠実な活動を彷彿とさせます。
エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかったので、自分の衣をつかんで二つに引き裂いた」(12)とあります。最愛の師を失ったエリシャの憤りと悲しみはいかばかりであったでしょう。
しかしどのような人であろうと、人は別れの時を迎えなければなりません。そしてそれは又、新たな旅立ち、あるいは新たな出発の時でもあるのです。
エリヤとてイスラエルの民の行く末を案じ、まだまだ預言者として働きたいというおもいを持っていたかもしれません。或いはもっとエリシャに伝えたいことがあったかも知れません。一方エリシャにしてみれば、もっとエリヤと共にいて、神の人、神に仕える者として生き、働くすべを学びたかったかも知れません。しかしすべて「人の歩む道は御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる」(箴言5:21)のです。
エリヤが天に召された後、「エリヤの着ていた外套が落ちてきたのを、エリシャが拾う」のでありますが。それはまさにエリヤの霊をエリシャに継承させたことを示すものです。
エリシャが外套を取って、それで水を打つと、かつてエリヤがなしたとおり、ヨルダン川の「水は左右に分かれ、彼はそこを渡ることができた」というのです。師の約束通り、エリシャの願いは聞き届けられたのです。
はじめに、私は「エリヤが外套をエリシャにかける」行為は、主の言葉通り「エリシャが後継者となった」ことを象徴していると言いました。それは「天から落ちて来たエリヤの着ていた外套をエリシャが拾った」ということもまた、エリヤ自身の思いというよりも、主なる神さまがそのようにお計りになられたことであります。
祈祷会の時に、牧師は一体ここからどのような礼拝メッセージをされるのでしょう?というお声を聴きました。そうですね、私自身がこの個所から示されたこと。それは、エリヤの外套にまつわる「自己放棄」或いは「断念」についてであります。しかしそれは決して消極的な意味ではありません。まず自分の思いや願いを優先させるのではなく、何よりも主にゆだね切って、示される道にまっすぐに従っていく。そこに万事を益としてくださる主が新しい事を起こしてくださるという励ましを戴くのです。
エリシャはある意味エリヤをもはや頼りとすることが出来なくなったのでありますが、しかしそれによって自らが神の前に立つものとされてゆきます。それは信仰的自立の物語でありましょう。自分がこだわり固執してきたものを「手放す」ことによって、神さまから「与えられる」新たな可能性の物語でありましょう。このエピソードをどう自分のこととして読んでゆくか。それはお一人お一人違うでありましょう。しかしただ一つ言えることは、私たちもまた自分がぎゅっと握りしめているものを手放し、投げかけるものであり、又受け取って、継承して行く者であるということです。
「今この時にしか出来ないことを大切に生きる」ということが、今日み言葉を通して語られているのだと思います。明け渡す側も、又新しく受けとる側も、主が先立ってくださり、助けてくださることを信じて、主に信頼し、従ってまいりましょう。