日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

エリヤの外套

2011-01-30 07:43:31 | メッセージ
宣教 列王記下2章1~14節  

今日はは「エリヤの外套」と題し、み言葉に聴いていきます。先ほど列王記下2章が読まれました。ここには「エリヤの召天とエリシャの奇跡」について記されていますが。この今日新たに登場したエリシャについてちょっと先週お読みした列王記上19章のところを確認したいと思います。そこをまずお開き戴けますでしょうか。
その列王記上19章16節のところに、主がエリヤに「アベル・メホラの地に住むシャハトの子エリシャに油を注ぎ、あなたの後継者とせよ」と命じておられます。エリヤはそのみ言葉に従い、エリシャに会い、自分の外套を彼に投げかけた」(19)のであります。

それは「神がエリシャをエリヤの後継者として選ばれた」ことを象徴的に表している訳ですが、ここで私はこの、「投げかけた」という言葉にどうもひっかかりを感じました。それはエリヤがエリシャに外套を「着せた」とか「手渡した」とかじゃなく、「投げかけた」んですね。そんなエリヤの文字通りどこか投げやりな態度。それは私の勝手な読み込みであるのかもしれませんが、エリヤ自身はまだまだ後継者のことなど考えてもいなかったのかも知れませんね。スポーツや文化芸術の世界でも、「わたしゃ弟子をとらない」「一代で結構」などと言う方もおられるようですが。まあエリヤはそのようなことを言ったのかどうか定かではありませんが。彼はどこか一匹狼的な人、孤高の人といった感があります。しかし、彼は主の言葉としてそれに聴き従い、「投げかけた」という言葉に表されるように、自分の思いを放棄して、主の言葉通りに「エリシャを後継者にした」のであります。

このエリシャですが、エリヤについてはただテシュべ人とだけ紹介され、その人となりについては全くといっていいほど不明であり、一匹狼のような人でしたが。エリシャはそのエリヤとは対照的に、どこの出身で、誰の子で、12くびきの牛や畑を所有するほどのかなりの資産家で、両親は健在であったのです。しかしそのエリシャもまた、これら世の財産、生計の術、生活の拠り所、家族など持っているもの一切を放棄し、まあなげうって最愛の両親とも別れて、エリヤに従い、仕えたのですね。

ただ、それが「はい。そうです」とたやすく出来たかといえば、そうではなく、ここに「両親のところに行って別れの接吻をしてから、従います」とエリヤに告げているように、エリシャにも心の揺れといいますか、まだ未練があったのでありましょう。

しかし21節「エリシャはエリヤを残して帰ると、一くびきの牛を取ってほふり、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた」とありますように、ここに彼の決意が表されています。そして、エリシャはエリヤに従い、仕えるのであります。エリシャは安定した生活、自分の将来を保証するような立場、又様々な願望をもそこで放棄し、主にすべてを委ねて従ったのです。イエスさまの12弟子であるペトロやアンデレら漁師であった者は、イエスさまの呼びかけに応え、生活の術である舟と網をその場において従っていきました。私たちはそれぞれに自分の歩調やペースというものがあり、それぞれに大切にしているものがあります。様々な願望だってあるでしょう。けれども時として主の呼びかけがそれら自分の思いと異なる場合があります。たとえば日常の人との関わりの中でも、御言葉の迫りがあり、葛藤が起こることがあるでしょう。又、自分の計画と神の招きの時が異なることも起こり得るでしょう。しかしそれら自分の考えや立場、計画といったものをひとまず置いて、まず主に従っていくことで世にはない平安を受けるのであります。

さて、本日の「エリヤの召天とエリシャの奇跡」の個所でありますが、ここにも興味深いことに「エリヤの外套」のことが出てくるのです。エリヤとエリヤが話をしながら歩いていると、「火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分け、エリヤは嵐の中を天に上って行った」というのであります。主なる神がエリヤを天に引き上げられたのです。この火の戦車、火の馬、嵐が何を意味するのかはよく分かりませんが、それはこのエリヤが万軍の主の預言者として仕えたその勇ましくも忠実な活動を彷彿とさせます。

エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかったので、自分の衣をつかんで二つに引き裂いた」(12)とあります。最愛の師を失ったエリシャの憤りと悲しみはいかばかりであったでしょう。

しかしどのような人であろうと、人は別れの時を迎えなければなりません。そしてそれは又、新たな旅立ち、あるいは新たな出発の時でもあるのです。
エリヤとてイスラエルの民の行く末を案じ、まだまだ預言者として働きたいというおもいを持っていたかもしれません。或いはもっとエリシャに伝えたいことがあったかも知れません。一方エリシャにしてみれば、もっとエリヤと共にいて、神の人、神に仕える者として生き、働くすべを学びたかったかも知れません。しかしすべて「人の歩む道は御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる」(箴言5:21)のです。

エリヤが天に召された後、「エリヤの着ていた外套が落ちてきたのを、エリシャが拾う」のでありますが。それはまさにエリヤの霊をエリシャに継承させたことを示すものです。
エリシャが外套を取って、それで水を打つと、かつてエリヤがなしたとおり、ヨルダン川の「水は左右に分かれ、彼はそこを渡ることができた」というのです。師の約束通り、エリシャの願いは聞き届けられたのです。

はじめに、私は「エリヤが外套をエリシャにかける」行為は、主の言葉通り「エリシャが後継者となった」ことを象徴していると言いました。それは「天から落ちて来たエリヤの着ていた外套をエリシャが拾った」ということもまた、エリヤ自身の思いというよりも、主なる神さまがそのようにお計りになられたことであります。
祈祷会の時に、牧師は一体ここからどのような礼拝メッセージをされるのでしょう?というお声を聴きました。そうですね、私自身がこの個所から示されたこと。それは、エリヤの外套にまつわる「自己放棄」或いは「断念」についてであります。しかしそれは決して消極的な意味ではありません。まず自分の思いや願いを優先させるのではなく、何よりも主にゆだね切って、示される道にまっすぐに従っていく。そこに万事を益としてくださる主が新しい事を起こしてくださるという励ましを戴くのです。

エリシャはある意味エリヤをもはや頼りとすることが出来なくなったのでありますが、しかしそれによって自らが神の前に立つものとされてゆきます。それは信仰的自立の物語でありましょう。自分がこだわり固執してきたものを「手放す」ことによって、神さまから「与えられる」新たな可能性の物語でありましょう。このエピソードをどう自分のこととして読んでゆくか。それはお一人お一人違うでありましょう。しかしただ一つ言えることは、私たちもまた自分がぎゅっと握りしめているものを手放し、投げかけるものであり、又受け取って、継承して行く者であるということです。
「今この時にしか出来ないことを大切に生きる」ということが、今日み言葉を通して語られているのだと思います。明け渡す側も、又新しく受けとる側も、主が先立ってくださり、助けてくださることを信じて、主に信頼し、従ってまいりましょう。
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静かにささやく声

2011-01-23 07:53:13 | メッセージ
宣教 列王記上19章1~18節

先週は預言者エリヤが生ける真の神の栄光を現すためにバアルの偶像を拝む450人の預言者と対決するエピソードを読みました。主の火が降りその御力が顕わされるとイスラエルの民は「主こそ神です。主こそ神です」と真の神にひれ伏したのでした。
この19章1節には「アハブ王は、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた」とありますが。それは先週読みました18章40節に記されているとおり、エリヤが「バアルの預言者どもを捕らえよ。一人も逃してはならない」と民に命じて、彼らをキション川に連れて行って殺した」ということであります。それを聞いた王女イゼベルは、エリヤに使者を送り、エリヤを殺す決意を告げるのです。この時北イスラエルの実権はアハブ王よりも女王イゼベルが掌握し、イゼベルの勢力は脅威となっていたようであります。その言葉を聞いたエリヤは「恐れ、直ちに逃げた」とありますね。あの御名のために勇ましく戦ったエリヤはどこに行ったのでしょう。刺客が自分を追って来ていつこの命が奪われるかという恐れ。敗北したバアルの預言者たち全員を虐殺したことが報復を招き、自分のもとに跳ね返ってきたのです。
敗北したバアルの預言者を皆殺しにしたエリヤの行為は主のもとから出たものかどうかここでは明らかになっていませんが、生ける神の預言者たち、いわば同胞を殺された恨みといいましょうか、そういったエリヤの感情的判断が入り混じっていたと言えなくはないでしょう。ですから、彼はイゼベルから恐れ逃げたのでありますが、実はそれは主の御前から逃げていることであったのです。
古今東西、宗教戦争が何度も歴史上繰り返され、争いが絶えませんが。こうした血で血を洗うような殺し合いによって何ら問題は解決せず、かえって報復の連鎖を生むだけであります。それは本日のところにありますように聖なる戦いだと虐殺をなしたエリヤ自身の心に禍根を残し、死への恐怖が絶えずつきまとい、どこにいても怯え、さいなまれ続けなければならなかったということであります。

さて、エリヤは逃げてベエル・シェバに行き、そこから熱く乾いた荒れ野に入り、一日の道のりを歩き続けて、一本のえにしだの木(日差しよけになる全長2メートル位の観葉植物・木)の下に座って、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と、神に自分の命が絶えることを願うのであります。
そこで彼は余りの疲れからか横になって寝入ってしまいますが、そこに主のみ使いがパンと水をエリヤの枕元に届けて下さいます。彼はその食べ物に力づけられたとありますね。
自分の命が絶えるのを願って「主よ、わたしの命を取ってください」と訴えたエリヤに対し、主は「生きよ」と、パンと水を与えられるのです。主は生ける者すべての神、すべての命をすべ治めておられるお方であります。殺すこと、又自ら命を絶つことは人の側の判断です。しかし命の主権は主にのみあるのです。

私たちもこの時のエリヤのように神を信じていながらも、「主よ、私はもうだめです」と訴えざるを得ないようなことがないでしょうか。もう私にはどうすることもできない、万策尽きた、疲れ果てた、もうお手上げだといったような時。しかしそのような時、不思議と向こうの方から出来事がやってきて、難を逃れることができた。あるいは思わぬところから助けや支えの手が与えられたという体験をされた事もおありでしょう。主はあらゆる手段で救いの手を差し伸べておられます。
もし身近に元気がないな、疲れているようだな、そんな方がおられたら、声をかけたり、食事を共にしてくださるといいと思います。一緒に祈ってくださることも大切です。
私たちは生身の人間ですからちょっと気にかけてもらったり、愛情と共に美味しいものを戴くとあんがい元気の出る者なのです。私たちも神の使いとして用いられましょう。

さて、そうしてエリヤは「四十日歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」とあります。
なぜ彼がそこに向かったのか分かりませんが、ついに着いたとありますから、恐らく彼は偉大なモーセがホレブの山で神とお会いしイスラエルと契約を結んだことを思い出し、かの地へ向かったのでしょう。
エリヤはそのホレブの山で主と出会い、彼の信仰が刷新されるのでありますが、しかしそのことも実は主の導き、御取り計らいによるものであります。
私たちが人生のピンチだと考える時も、実は主が私たちを高い山に登らせご自身を示して下さる、そんな信仰の刷新のチャンスでもあるということです。

この聖書の個所から私たちが聞いていきたいのは、まず11節。「主は、そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」とエリヤにおっしゃったみ言葉であります。「そこを出て」とは何を指しているのでしょうか。それは洞穴、人目を避けた隠れ場であります。それはまたエリヤ自身の心境でもあります。「脱出口のないエリヤ自身の心のトンネル」を意味しています。エリヤは主から二度「エリヤよ、ここで何をしているのか」と問いかけられますが、彼は同じ事を2度も繰り返し答えますね。10節、14節ですが。それを要約すると、「わたしはこれまであなたに熱心に仕えてきたのに、どうしてこのような目に(命を奪われる)遭わなければならないのですか」との訴えであります。確かにエリヤの情熱や忠誠心は素晴らしいものです。けれども、その彼の心の中に自分はまったく正しく、間違った事はしていないと自己正当化するかたくなな思いがひそんでいました。彼は「主よ」といいながら、自分のことばかりに心が向いて、その暗いトンネルから出ることができないでいるのです。
私たちが主への奉仕をなすことは主の目に麗しいことです。しかし、主のため、主のためと言いながら自己満足に浸って、「ただ自分だけが一人残って」と文句や不平をいって自己正当化することに終始するなら、それは残念なことです。実際エリヤ以外にもバアルにひざまずかなかった者が7千人いたのですね。主はちゃんとその人たちのことを見て数えて知っておられるのです。教会も目立ちませんが小さい事に忠実に奉仕されておられる方の存在は実に尊いといえます。

主はそのエリヤにおっしゃいます。「そこを出て、主の前に立ちなさい」と。
自分の思いに囚われるというような暗い洞穴から出て、「主の前に立つ」。そこで、主のみ心が何であるかということを聞きわけていくことが、この時エリヤには不可欠であったのです。しかしエリヤはなかなか主の「そこを出て、主の前に立ちなさい」とのみ言葉を理解することができず、洞穴から出る事ができないでいるのです。
この事は私たちにとっても同じことです。私たちが自分の思い(自己正当化や、反対に自己憐憫など)に囚われている間は、闇の中から出ることは難しいのです。そんな闇の中では自分の立ち位置さえ見えません。自分の方からしか物事を見、考えようとしないなら、その囚われの洞穴から抜け出すことはできません。しかしそこにたとえば自分を映し出すことのできる鏡が前にあったとしたならどうでしょうか。人はその鏡の前に立つことによって自分の姿がよくわかります。そのように、私ども主によって生かされていると信じる者は、主の前に立つことによって初めて「自分とは何ものなのか」を知ることができますし、その置かれた状況を正しく判断する道も開かれてゆくのです。

わたしはこの19章から「静かにささやく声」(12節)という宣教題をつけさせて頂きました。エリヤは洞穴の中で「そこを出て、主の前に立ちなさい」とのみ声を聞きますが、それは何か「風」や「地震」「火」の中に主がおられてそのしるしをもってエリヤの前に現われるというようなものではなかったのです。反対に耳を澄まさなければ聴き逃してしまうような小さな細きみ声、「静かにささやく声」を聞くなかで、主の臨在を確信するのです。
エリヤが聞いたこの「静かにささやく声」とはどういうものだったのでしょうか。これは聖書教育の青年成人科テキストに書かれていたことですが、「私たちが例えば、人と対話をしたり、話し合いをするときに、自分のことばかりを主張し、無我夢中でしゃべっていると相手が語ろうとすることは聞こえないものです。同じように、祈りも、自分の要求ばかり並べ立てている時には、主のみ声が聞こえないのかも知れません。」
そうですね。祈りといえば何かお願いをすることと思いがちです。そして願いが叶ったらあたかも神に出会い特別な恵みに与ったように考えるかも知れません。しかしもし本当に神の御声を聴き、主の御心に生きることを願うならば、主の前にまず静まることが大事です。自らの状況や願いを主のみ前におくと共に、聖書を通して主が行われた事、又語られたみ言葉から聴きつつ、祈るのです。

つい先日、韓国のバプテスト教会の大学生・生年による4名の伝道チ―ムが大阪中央バプテスト教会のご紹介で大阪教会を訪問され、一泊してゆかれました。彼らとしばし主にある交わりの時が与えられました。翌日は大阪教会の教会案内500部をこの地域に配布してくださいました。その彼らを通して与えられた「祈りの恵みと力」を少しお証しして宣教を閉じます。
彼らは泊る所が与えられたという安心感もあってか、礼拝堂を案内するなり1番前のイスに座って、ある人はひざまずいて涙声で各々感謝の祈りを始めました。翌朝5時に早天祈祷をするというので私と連れ合いも参加したのですが、少人数で少しさみしそうでした。何しろ彼らの属する教会は1万人いるそうです。考えられますか。メガチャーチ。このような教会は韓国やアメリカには沢山あるのですよね。しかしそのチ―ムのリーダーでこの4月から牧師として巣立っていくという人が、「大阪教会の将来はさらに主に祝福されて大きな教会になります」と、そういう預言ともいえる言葉を戴きました。彼らには大阪教会の将来のビジョンを一切話していないのです。又、帰りがけに咳がひどくて体調がすぐれなかった連れ合いのために4人で本当に心を込めて祈ってくださったのが印象的でした。韓国のクリスチャンは本当によく祈られます。韓国においていまも信仰復興の火は消えることなく燃え続けていると言われていますが、教会で祈り、祈祷院で祈り、毎朝早天で祈り、断食までして祈る。それは「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」とおっしゃったとおりに祈り続けているからだと思いました。私たちも又、益々祈り続けていきましょう。その中で、主の静かなるみ声を確かに聴き分け、主に従いゆく者とされてまいりましょう。必ずそこに主のみ業、主のみ心が示されるはずです。そしてその主の恵みと祝福を自分のためだけでなく、他者と分かち合っていくものとされてまいりましょう。
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あなたは誰を拝んでいるのか?

2011-01-16 07:40:29 | メッセージ
宣 教   列王記上18章20~40節

 20節以降はエリヤが一人でバアルの預言者450人と対決する場面であります。
その対決の前に、エリヤがカルメル山に集まったイスラエルのすべての民に近づいてこう言いました。21節「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」。すると民はひと言も答えなかったというのです。何かポカーンと口を開いたままのイスラエルの民たちの様相が思い浮かんでくるようですが。
宣教メッセージはこのエリヤの問いかけから、「あなたは誰を拝んでいるのか?」という題を敢えてつけさせて頂きました。かつて主なる神さまは、イスラエルをエジプトの奴隷のような状態から導き出し、親鳥がそのひなを抱くように慈しみをもってその民を守り、育くんで来られたのです。しかしここを見ますと、そのイスラエルの民らは、一体誰を神として拝んでいるのかということがもはや全くといっていいほど分かっていなかったということですね。

ちょっと話が跳びますが、お正月のテレビ番組で、「あなたは「誰を」だったか「何を」だったか忘れましたが、拝んでいるのか知っていますか?」というテーマでビートたけしさんが司会をなさっていましたが。「日本人が神社仏閣で拝んでいる神や仏は一つではなく、それぞれ違う神仏が祀られてあるということを解説していくんです。観られた方もおられるかも知れません。日本人の大概の方は、誰を拝んでいるのか分からないまま参拝しているんですよね。これはある意味においてこのイスラエルの民と共通していると言えなくもありません。イスラエルの民は主なる神もバアルの神も聖書の神も変わりなく同じようなものだとしか思っていなかったのではないでしょうか。まあ日本の場合は、確かに八百万の神々を拝むといった風習や慣習はありますけれども、その一方で誰を拝んでいるのか分からずに拝んでいる、逆に誰を拝んでも、何を拝んでも信心であって、その入り口は異なってはいても辿りつくところはみな同じだというような甚だあいまいなものであったのではないでしょうか。
イスラエルの民は誰を神として拝んでいるか分からないまでも、アハブ王、つまりお上の申しつけだと人の見よう見まねでバアル拝んでいたにすぎず、主なる神についても理解できていなかった。ですから、「バアルに従うか、主に従うか」と尋ねられてもピンとこないと言いますか、エリヤの言葉を理解できなかったのであります。

「エリヤとバアルの預言者のたたかい」
そこでいよいよエリヤは主の預言者として一人で、バアルの預言者450人と戦うのでありますが。それは犠牲の雄牛をエリヤとバアルの預言者双方の薪の上に載せておいて、そこに火が降った方が、真の神を拝んでいることを証明するというものでした。
旧約聖書では一方で、「あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6:16)と記されていますが。この「どちらが真の神であるか」という対決は、肉的な名誉や満足のためになすものではなく、真の神であられるお方が証明されていく点において異なっていました。

さて、バアルの預言者たち450名は朝から真昼まで、祭壇の周りを廻りながらバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈るのですが、声も無く答える者もなかったのです。エリヤが嘲笑って「神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう」と挑発すると、バアルの預言者たちはさらに大声を張り上げ、剣や槍で体を傷つけ、血を流してまで必死にバアルの神に叫んだというのです。が、薪には火はつきません。

次はエリヤの番です。まず彼がイスラエルの民に向かって「わたしの近くに来なさい」と呼びかけると、に、すべての民が彼に近寄って来ました。
エリヤがそこでまず何をなしたでしょうか。それは、壊された主の祭壇、バアルの神々を祀るため、さらに政治的策略のため壊された生ける主の祭壇を彼は修復したのです。
私どもは今新年を迎え、心新たにこの一年を歩み出しましたが。ここでまずなすべき事、それは心の内にある祭壇を築き直すという事であります。神ならざるもの拝んでいないか? 神のように奉られ、拝されているものはないか? 信仰の基なる主イエス・キリストを、その福音を確かに戴いているか否か。それはまず私どもが、主のみ前にその姿勢を整えられ、正されていくことはとても大事なことであります。身も心もそのようにありたいものであります。
それから、エリヤは先祖ヤコブの子孫の部族の数に従って12の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築いたということです。そこに献げものの雄牛を薪の上において、4つのカメの水を3回、合計これも12回という数ですが水を注いだというのです。
かつては同じ一つの民であった12の部族。それが北と南に分裂してしまったのですが、そのイスラエルの12の部族を主が再び集めて一つとされるという預言がここに示されているように思えます。この光景はその場に集まった人々にどう映ったことでしょう。生ける主なる神のみ恵みと慈しみを思い起こさせたのではないでしょうか。
 
「エリヤの祈り」
そしてエリヤは次のように祈りました。36節「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらのことをあなたの御言葉によって行なったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よわたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返した(立ちかえらせた)のは、あなたであることを知るでしょう」。
エリヤは騒々しく自虐的なバアルの預言者たちとは対照的に神によって与えられる知恵と理性、さらに霊性をもって、又イスラエルに働かれる主に対する確信をもって呼びかけ、祈ります。すると、そこに主の火が降って、牛と薪は焼き尽くされたのであります。
これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言ったというのです。もはやイスラエルの民らはそれぞれに、人に強いられてではなく、又人がしているからという事でもなく、主体的に「主こそ神、主こそ神です」と自らの信仰を言い表したのであります。自らのルーツ、依って立つ処、存在の源はアブラハム、イサク、イスラエル(ヤコブ)の神、囚われの地より導き出したる主であることを再び見出し、立ち返る者となったのです。

「主体的な信仰告白」
ここが今日のみ言葉のメッセージの締めくくりであります。彼らはもはや、あなたは誰を拝んでいるのか?と問われるようなことがあっても、確信をもって「生ける主こそ真の神です」と自分が信じている神についてはっきりと言い表せるようになったのですね。
新約聖書・ローマ10章10節に「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」とあるとおりです。

最後に、昨年来より60周年記念誌の作成段階で座談会が数回持たれました。大阪教会の宣教の歴史、収益事業ひかり駐車場のことについて、さらにこれからの大阪教会の将来・ヴィジョンについて語り合いました。その中で、わたしども日本バプテスト大阪教会としての「信仰告白」について、今一度確認をし、その信仰告白をもって教会を築いていくことの必要性に気づかされました。まず私たちクリスチャンは、主のみ前にあって一人ひとりの主体的な「信仰告白」がありますが、その個々人はまたキリストのからだなる教会の一部として礼拝を捧げ、奉仕や献金、伝道や教育の働きや交わりをもってその主のみ体を建てあげているのであります。そしてその主のからだの集大成が私たち教会の「信仰告白」であります。
今年は新年度の始まりにあたって、主にあって共に今一度、大阪教会の祭壇を築き直す、内なる祭壇の修復ことから始めたいと願っています。「あなたは誰を拝んでいるのか?」 もはやこの問いかけに、私どもははっきりと各々、そして教会の信仰告白を掲げてイエス・キリストなる神、生きて共に働きたもう主と、答えることができますように祈ります。
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カラスとエリヤ

2011-01-09 08:20:09 | メッセージ
宣教  列王記上17章 

序 「背景」
神の導きによってイスラエル王国を築きあげたダビデ王、神殿建設を成し遂げたソロモン王の後、唯一真の神への背信の結果、イスラエル王国は北イスラエルと南ユダの二つの王国に分断されるという事態を招きます。今日登場しますエリヤはその北イスラエル王国に遣わされた預言者であり、当時悪名高いアハブ王に神の言葉を伝えます。このアハブ王はシドン人の王の娘イゼべルとの結婚により、異教のバアル神の礼拝所を設置します。それだけでなく、北イスラエルの都サマリヤにまでバアルの神殿や祭壇を建て、その民に偶像礼拝を推奨し、自ら進んでそれを行ったということであります。一人の王によってもたらされた偶像礼拝が、その民全体にも広がって国家全体として罪を犯していくことへの怖ろしさ。王や政治の指導者のありようで民全体が困窮していくということは、これは今日の時代にも当てはまることです。とりわけ一国が神ならざるものを神として祀りあげ、政争の具、政治に利用していくことが、どのような悲劇を作り出してしまうのか。それは今日の世界情勢、独裁的な国家で起こっていることでありますし、古今東西歴史の証言するところです。

① 「み言葉に従う人の幸い」
この記事は、神のお言葉に聞き従う人の幸いについて教えています。
主であられる神は、わたしたちがどこにいようが、どのようなことがあろうが。日夜呼び求める私たちの必要を満たし、よき道へと導かれるお方であられます。つまり、主であられる神は、嫌われもののカラスであっても養ってくださるように、ましてや私たち一人ひとりのことをよくご存じであり、よく知っておられ、必要なことすべてをご存じであるお方なのであります。

② 「神のお言葉こそ、いのちの源」
この17章は、主がカラスに命じてエリヤを養われるとの物語以外にも、主がエリヤを一人のやもめもとに遣わし、エリヤとやもめの家の者を養うエピソードが記されています。さらに、主がエリヤの祈りに応えてやもめの息子を生き返らせる物語が収められています。
そこには、やもめとしての生活の困難や危機、さらに、死に対する絶望といった問題が取り扱われています。聖書はそれらの世に頼ることのできないような危機や困難、絶望といった問題に対して解決の道を示しています。それはエリヤがなしたように、又やもめがなしたように、理屈ではありません。世の処世術によるものでもありません。又、人の知恵や知識、常識で判断するのではなく、ただ「主のお言葉どおりに行なう」。そこに解決の道があり、助けがあります。主のみ言葉こそ真実であり、いのちの源であることを教えているのです。

③ 「祈り求め続ける」
それと最後にもう一つ、エリヤがやもめの息子のために、必死になって主に何度も何度も、嘆願をしていく中で、主が「エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった」。生き返ったのですね。主はすべての命あるものをすべ治めたもう神であられるのです。
むろん私たちは預言者エリヤのような偉大な者ではないでしょう。しかし今や救い主イエスさまを通してこのまことの生ける主なる神に、心から祈り、嘆願する道、聞き入れて戴く道が開かれているのであります。私たちは主のみ名によって祈ること、執り成すことが許されている、どんなに素晴らしい賜物と希望ではないでしょうか。
かの預言者エリヤでさえ幾度も幾度も嘆願したのです。私たちも、もっともっと主に期待していいのです。主に期待し、なおさらのことうみつかれることなく祈り続ける者とされてゆきましょう。

申命記8章3節に「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけでなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである。」と記されています。
2011年のわたしたちの歩みも、生きた神のみ言葉に聞き、そのとおりに行なう者とされていきたいものです。主は生きておられます。主は祈りつつみ言葉を聞き、行っていくあなたの道を守り、導き、祝福を与えてくださいます。主にあって信仰の確信を堅く持ち、またここから新たに歩み出してまいりましょう。
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教会を共に建てる

2011-01-02 08:38:42 | メッセージ
2011元旦礼拝宣教   エフェソ2・14~22  

「新年あけましておめでとうございます」。主のみ名を崇め、賛美いたします。
この元旦を聖別して主にささげる礼拝から2011年をスタートできますことは、真に幸いなことであります。1年の計は元旦にあり、との言葉にもありますように、今年のあゆみをここから始めてまいりたいと願うものであります。
今日から始まりました皆様方のすべての歩みのうえに主が伴ってくださり、恵みと祝福を溢れんばかりに満たしてくださいますようにと、この年初にあってお祈り申しあげます。

皆様、大阪教会にとってこの1月はどういう日かご存じでしょうか? 今から50年前の1月にこの大阪教会が誕生した記念日であるのです。昨年9月で1950 年の宣教開始から60周年となりましたが、大阪教会はその4カ月後に教会組織(18名)しているのです。ちなみにその翌年の1952年1月には教会の献堂式(旧)が行われたということです。まあ、そこから大阪教会の本格的な教会形成、11教会以上を生みだしていくという熱心な開拓伝道が始まったということであります。

私は大阪教会創立60周年に当たる今年、もう一度60年前の原点に立ち帰っていくことがとても大事だの思いに導かれ、今年の年間標語案として、「教会を共に建てる」というその使命を主より戴きました。現代の状況は確かに60年前とは大きく異なっていますが、しかし教会を愛し、建てあげていく熱い思いによる教会形成と、又その開拓伝道へのスピリットは変わるものではないし、変わってはならないとそう信じています。

今年の大阪教会の年間標語案でありまます「教会を共に建てる」という標語は、先ほど読んで戴きましたエフェソ2章の21~22節のみ言葉から与えられたものであります。
この2011年初頭の元旦礼拝は、このみ言葉から一年を始めていきたいと願っておりますが。

このエフェソ2章には、キリストによって「造られた」とか「造りあげて」というみ言葉や「建てられて」というみ言葉が出てまいります。ここにはキリストの教会が建てられて
いくということが述べられているのですが、具体的には18節にあるように異邦人とユダヤ人がキリストにおいて一つにされるということでありました。いわゆる異質の文化をもち敵対するような者同士がキリストにあって和解し、15節「一人の新しい人」に造りあげられ、平和を実現していく。ここにキリストの十字架、教会の本質があります。もちろんこれは今日の教会にも当てはまります。教会の様々な違いをもった信徒が互いに和解し、平和を実現しようとするところに教会が建てられていきます。しかしそれとは逆にねたみや悪意、恨みや党派心といった縄目から解放されないのなら、それは平和を実現するものとはならない、聖書的な教会は決して建てあげられないということです。主のみ前に謙虚にされ、互いに一つになろうと祈り、努めるとき、教会はキリストの救いが受肉した一つのからだとして本来の目的を果たし得るのです。

さて、「共に建てあげられる」ということについて、先ほど読んで戴いた21節、22節をもう一度読んでみましょう。21節「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」22節「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」
ここの個所のキーワードは「キリストにおいて」という事であります。それも「キリストの十字架」を通していうことであります。たとえ人の側の努力で一致や和解が困難に思えたとしても、キリストが十字架の上でその肉と血を流してまでも、与えてくださった「平和」。どこまでもそのキリストの十字架による和解を通して、私どもの教会は建物全体が組み合わされて成長し、主の聖なる神殿となるのです。キリストの十字架の血による和解と平和(平安)を通して、共に建てられ、ご聖霊が充満する神の住まいとなるのであります。

教会を建てるといいますと、何かそれは教会堂の外面を建てていくことばかりに目が向きがちですが。実はそういうことよりもまず、私たち自身が、主の十字架のもとにあってキリストのみ言葉に生き、整えられていくことが不可欠であります。そして、キリストがお命じになったとおり、私たちが互いを主に愛されている兄弟姉妹を大切にし、主のみ体である教会として建てあげていく必要があります。

2011年が今日からスタートしました。今年も主のみ心を絶えず尋ね求めて進む私たちでありたいと願います。大阪教会創立60周年という節目の年、主の教会を共に建てていくことに祈りを注ぎこみ、私たちに与えられている様々の賜物を主のために心からささげ、力を合わせ、喜びをもって主に仕えていく悔いのない1年を歩んでまいりたいものです。

最後に、預言者イザヤは「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」と主のみ言葉を告げていますが。このみ言葉はカイロス:「神のとき」として、今を生きている私たちに対して語られる「真理の言葉」であります。
「見よ、新しいことをわたしは行なう。今や、それは芽生えている。」

祈ります。主よ、新しい年もいつも、どんなときも、どこにいてもあなたの御名を崇めて生きることができるようにして下さい。あなたが今も生きて働かれるお方であることを示し、主の栄光を拝することができるようにしてください。どうか主イエスの福音を伝え、証しする私たちを病魔や災いから守り、身も心も魂もすこやかであらせてください。
すべての必要をあなたが満たしてください。ご家族やご家庭のうえに、又お仕事や生活の上に平安と祝福をお与えください。また私たちの生きる社会や世界のいたる所において、いまだ平和を脅かすような紛争や収奪が起こっています。又貧困や経済や政治的な事情で住み場を失い、難民生活を余儀なくされている人達がいます。又厳寒のもと野宿生活を余儀なくされている孤独な人たちがおります。主よ、助けてください。身近なところから成し得ることを導き示しくださり、あなたの平和の使者として用いてください。世界のいたるところで起こっている紛争が平和的に解決していきますように。又この日本という国があなたの御心にかなう歩みをなすことができますように、この国の指導者が整えられていきますように。平和の主イエスの御名によって祈ります。
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主の年・2011年・ご挨拶

2011-01-01 22:58:47 | お知らせ
新年あけましておめでとうございます。

旧年来、この大阪教会のブログをご覧いただきました皆さま、ありがとうございました。

今年も聖書からのメッセージを中心に発信をしてまいりたいと願っています。

どうぞよろしくお願いします。


なお、教会・聖書・キリスト教についてのお尋ねがありましたら、下記にメールをお送りください。

できる限り応答したいと思います。

obcs@nifty.com


今年の皆さまのうえに、神さまの恵み豊かな導きと平安がありますように。

主にありて。


2011年 元日
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