日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神のみを畏れ、信頼せよ

2009-07-26 07:07:02 | メッセージ
本日の宣教 イザヤ37章1~7節より

 ヒゼキヤ王が南ユダ王国を統治してから14年目のことでありました。
彼は信仰のあつい王で、アッシリアの外国から持ち込まれた偶像を焼き払うなど、まことの主なる神への信仰を打ちたてる宗教改革を行いました。が、しかしアッシリアからの侵攻が激しくなると、恐れと不安に襲われ、近隣諸国に安全保障の同盟関係を結ぼうと呼びかけます。そしてアッシリア帝国が一時弱体化した折、ヒゼキヤ王はバビロニア、次いでエジプトと密約の同盟関係を結び、アッシリア帝国に対抗する布石を敷いていったのです。
 その折でありますが、預言者イザヤは主のみ言葉を次のように語っています。
30章15節「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力があると。しかし、お前たちはそれを望まなかった」。
 このイザヤの預言の後、エジプトは何の助けにもならず、36章にあるようにアッシリア軍がユダに攻め上ると、ユダのとりでの町はことごとく占領され、遂にエルサレムは包囲され陥落寸前までに至ります。そこからが37章の箇所であります。ここには、ヒゼキヤ王の悔い改めと祈り、預言者イザヤの「神のみを畏れ、信頼せよ」とのメッセージーが語られています。小国ユダは大国アッシリアの前に無力に等しく、エルサレムは陥落寸前でした。しかしユダは武器も戦力や武力も一切持たず、「ただ主のみを畏れ、主に信頼する」信仰と祈りを最大の武器として、平和のうちに勝利を収めることができたのです。
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平和をつくるには・・・

2009-07-19 06:48:40 | 巻頭言
「平和をつくるには・・・」 

 先週、ゴスペルシンガーの文屋範奈さんの歌とメッセージを聞く機会があった。文屋さんは戦争がなぜ起こるのかということを考えると、戦争が起こる種が大きく3つあるおっしゃっていました。1つの種は、「違いを認め合う」ことができない不寛容さにある。お互い違いがあることを受け容れられないところにある。戦争は異なる民族や宗教の間で互いに「違う」ことが認められないで起きるということです。2つ目の種は、「自己中心:自分のことしか考えない」ところにある。資源の争奪や侵略的な戦争は、そこから起こっているということです。そして3つ目の種は、愛のない「無関心」であり、それは「自己満足」とおっしゃっていましたが。無関心が一部の人を社会の片隅に追いやっているということです。
 そして、平和を作るには「この3つの戦争の種」とさかさまのことを行っていくようにすればよい。つまり、「違いを認め合うことを喜び」「自己中心に陥らず分かち合い」「関心をもってつながっていく」ようにすると戦争の種は摘み取られ減っていくとおっしゃいました。
自分が愛される存在であることを自覚できなければ人はフラストレーションを起こします。違いを異物とみなして排除しようとします。ねたんだり支配したりしようとします。愛される喜びが乏しいので愛する喜びが乏しいのです。それが自己中心や無関心となって表れます。神はご自身の作品であるすべての人を、掛け値無しに100%愛し、そのひとり子をたもうほどに愛し、「高価で貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)といっておられます。そして愛する私たち一人一人の違いを楽しみたいと願っておられます。心新たにこの主の愛を受け取り、告げ知らせる者とされていきましょう。(俊)
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イザヤの召命

2009-07-12 07:30:41 | メッセージ
「イザヤの召命」 イザヤ書6章より

ここでイザヤは「わたしはここにおります。わたしを遣わしてください」と答えていますが、皆さんは如何にこの言葉を聞き取られましたか。大きな集会や信徒大会の時などによくイザヤの召命のこの箇所が読まれたりもするわけですが。
いかにもイザヤは「勇ましく自信に満ち溢れて、わたしがここにおります、わたしを遣わしてください」と、そのように答えたようにも思えますけれども、そうでしょうか。
今日の箇所を読み直して改めて思います事は、イザヤ自身は「自分自身の弱さ、小ささ、罪深さをこれでもかこれでもかというほど思い知らされ、ただ頼れるお方は主以外にいない、罪に汚れたわたしをどうかあわれんでください」と祈らずにはいれなかった。そういう思いの中で「主よ、このようなわたしでもよいのなら、あなたのご用のために遣わしてください」と、心砕かれて謙虚に「はい」と、主の召しに答えるしかたなかったのではないでしょうか。
イザヤはこのまことの王であり、地のすべてのものを治めたもう神と出会うことによって、ウジヤ王のみに仕え、この世の権力や繁栄に心奪われていた自らの生き方に終止符を打ち、まことの王である神にのみ仕え、従う預言者として召され、遣わされるのです。
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聖書の言葉というのは、

2009-07-05 07:40:57 | 巻頭言
巻頭言

聖書の言葉というのは、ほんとに不思議なもので、一度心の中に留まると、その人のうちに刻まれるように残っていきます。それは暗記したとか勉強したつもりはなくとも、いつのまにか蓄積されていき、それがほんとうに自分にとって必要なときに思い起こされ、力になるのです。私は特に暗誦を心がけたことはないのですが、中学生から「少年会」という会に入り、毎週土曜日の夕方に少年たち5,6人が集まってきて、リーダーのY先生(西南女学院中高教師)のもとで、新約聖書を読んでリーダーから話を聞いたり、その後卓球やゲームを楽しんだりして過ごし、それが高校3年までの6年間続きました。そのような中でいつのまにか自分の心のうちに聖書の言葉が蓄えられていったのだと思います。
一人で聖書を読むことは霊的な養いとして大事ですが、兄弟姉妹と聖書を読むということによって、広く豊かにみ言葉が蓄えられてまいります。大阪教会では礼拝の宣教後に持たれます応答のとき(分級クラス)においてみ言葉の分かち合いをいたしますが、大変豊かな時間だと思っております。テモテの第二の手紙3章16節に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」と記されているとおりです。
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