日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

すべて神の栄光を現すために

2010-02-28 08:17:14 | メッセージ
宣 教 Ⅰコリント10:23-11:1

パウロは、偶像に供えられた肉の問題を取りあげながらキリスト者としての基本的ありかたをまず示します。それは、「すべてのことが許されている」、だから「人から招かれ、それに応じる場合、自分のまえに出されるものは良心の問題として一々詮索せず、何でも食べなさい」(27)と原則を述べます。
その一方で、「しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うのなら、その人のため、また良心のために食べてはいけません」(28)とも述べます。
パウロは本日個所の冒頭で、「すべてのことが許されている」と2度も述べていますが、実はこの言葉は、当時一部の偏った考え方をしていた自称クリスチャンらがこのようなスローガンを掲げて、したい放題、傍若無人にふるまっていたということが実際あったのです。
「罪を犯してもキリストによってすべて許される」。それは神の子が十字架で無残に死ななければならなかった。そんな尊い犠牲の上に与えられた恩寵であります。ですから本当にその恵みを知る者は、必然的に罪から遠ざかった生活を心がけるようになるでしょう。
おのずとその人の生き方は、すべて神の栄光を現わす生き方へとシフトされていくのです。
その彼らの言葉をパウロは逆手に取って、「あなたたちがすべてのことが許されているとほんとうにいうのなら、その恵みに応えて他人の良心を思いやることができるはずではないか」と言っているのです。偶像に供えられた肉を食べるのに良心の呵責や迷いがある人が目の前にいるのなら、「その人のためにそれを食べないという自由を持つべきではないか」。又、自分の知識によって「食べても罪にならないと思ったとしても、良心が責められる人に「食べるべきだ」と説いて無理強いするようなことをしても、それは相手の良心を傷つけるだけでなく、キリストに対して罪を犯すことになる、とパウロは言っているのです。 
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共に生き、生かされて

2010-02-21 08:35:09 | メッセージ
宣 教 Ⅰコリント9・19~23

パウロは、19節で「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と述べています。パウロは一人でも多くの人がキリストにある真実な解放を得るようにと、先週読みましたが、自らはキリストの奴隷として仕え、又福音のためには「すべての人の奴隷になりました。すべての人に対してすべてのものになりました」と言うのです。それはひとえに「何とかして何人かでも救われるため」と言うのであります。
このパウロの福音伝道における情熱・パッションは、20節以降にあるように「ユダヤに対しては、ユダヤ人のようになりました。律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになりました。又律法を持たない人(異邦人)に対しては、律法を持たない人のようになりました。弱い人(偶像にささげられたものに抵抗があり食べない人)に対しては、弱い人のようになりました」と、そのように同胞や隣人だけでなく立場の異なる他者に対する熱い関心でもあるのです。
パウロは23節のところで、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」という心からの願いを吐露していますけれども、そこにはパウロが「福音」というものをどのように理解していたかを読み取ることができるでしょう。つまり、「福音とは決して自分一人だけで受け、満足に浸って終るものではない。その恵みは隣人や他者と共にあずかってこそ、その深さ豊かさ、尊さが分かる」ということであります。
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キリストの奴隷

2010-02-14 07:48:15 | メッセージ
宣 教   Ⅰコリント7章17節~24節

パウロは独身であったようですが、結婚するのも、結婚しないのも自由だが「結婚に縛られてはいけません」(15)と説きます。つまり結婚も、葬儀や、又日常の仕事や商取引と同ように世の生活の一つに過ぎない事だからというのです。結婚や家庭生活のことだけに、心を使い尽くし、神のことに心が向かなくなるのなら、むしろ独身でいた方がよいという持論を述べます。
パウロが「割礼や奴隷」に関して述べている共通の主張は、「主に召された(救われた)時の状態を保ち、主に仕えなさい」ということであります。この当時、ユダヤ人とギリシャ人、奴隷と自由人、男と女というふうに人々を分ける基準があったのです。しかしイエス・キリストと結ばれて一つとなるためのバプテスマを受ける時、このような違いや区別は何の意味もなくなります。すべての者がキリストと一つになるのです。キリストの教会にあっては皆一つです。そのような天の次元で見る時、「世の中の身分に縛られて人に優劣をつけ、あたかもそれが人生の成功か否か、又すべてであるかのように決めてはならない」というのがパウロの考えです。
教会というところを思います時、まか不思議な集まりですよね。性差、性格や特性、年齢、生まれ育った環境、そして今日の個所と関連しますが、社会的な身分、職業や仕事とそれぞれ違います。教会はそういったいろんな人たちが主のご計画によって呼び集められた集りであるのです。そこにもし地上的な身分などで区別や分け隔てがなされてしまうのなら、キリストの教会とは言えません。それは神の力ではなく依然として世の力、人の力が頭(かしら)になるわけです。主のご計画によって召されたというのですから、クリスチャンは、どんな出身や身分、立場や職業も賜物であり、すべての人が主の栄光をあかししていく、主の目に価値ある人々です。神がキリストのいのちを代価として、贖われた一人ひとり。神さまは、そして私たちは、賜物としてその違いを喜び、楽しみ、共有します。
人に属する者でなくキリストに属する者として、それぞれ神に召された(救われた)ときの自分を大事に、それはまた同じように神に召された者同士、お互いを大事にしながら、主の救い、すなわちキリストに生き、仕えていくものとされていきましょう。
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わたしはあなたを決して忘れない

2010-02-07 08:03:21 | メッセージ
宣 教 イザヤ49章14-16節 

先日訪問しました止揚学園には、それぞれがハンディを背負って生きておられるにも拘わらず、その場を訪れた人たちを温かく、ほっこりとした気持ちにさせるような空気が満ちています。職員の方をはじめ、そこを訪れる多くの人たちに祈られ、覚えられている喜びや安心感からかもし出されるものではないかと訪問して思わされました。逆に、すべてが整っていたとしても見捨てられ、忘れられるのなら、どれほど生きる力が損なわれることでしょう。
親が子を思う愛情は本当に尊いものですが、現代はその親自身が愛情や絆の希薄な中に生きてきたために、わが子とよい関わりを持つことができないということが起こっています。敗戦後の貧しい時代より豊かになった今日ですが、かえって貧しい時代の方が愛情や絆がしっかりと結ばれていたと言われます。経済や物質が豊かになった日本において、凶悪でまことにいたたまれないような事件や犯罪が毎日のように起こっています。残念なことに自ら命を絶たざるを得ない人が毎年3万人以上もいます。戦場になっているのではないのに、人が生きていけないような状況があります。へブル語で平和をシャロームと呼びますが、この平和は単に戦争がない状態のことではなく、神に造られたすべての命が保たれていることを指します。
「わたしは見捨てられた、わたしは忘れられた。もう必要ないんだ。生きる価値などない」。我々を取り巻く社会にも、こういった嘆きやうめき声があふれています。夜回りをしていると野宿せざるを得ないホームレスの人に、石や空き缶を投げつけてくる少年たちがいまだにいるのです。けれどもこうした少年たちもまた心のバランスを崩しているのも確かです。
そのような現実のただ中で、主なる神さまはこうおっしゃいます。「わたしがあなたを忘れることは決してない。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」。
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