宣 教 Ⅰコリント10:23-11:1
パウロは、偶像に供えられた肉の問題を取りあげながらキリスト者としての基本的ありかたをまず示します。それは、「すべてのことが許されている」、だから「人から招かれ、それに応じる場合、自分のまえに出されるものは良心の問題として一々詮索せず、何でも食べなさい」(27)と原則を述べます。
その一方で、「しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うのなら、その人のため、また良心のために食べてはいけません」(28)とも述べます。
パウロは本日個所の冒頭で、「すべてのことが許されている」と2度も述べていますが、実はこの言葉は、当時一部の偏った考え方をしていた自称クリスチャンらがこのようなスローガンを掲げて、したい放題、傍若無人にふるまっていたということが実際あったのです。
「罪を犯してもキリストによってすべて許される」。それは神の子が十字架で無残に死ななければならなかった。そんな尊い犠牲の上に与えられた恩寵であります。ですから本当にその恵みを知る者は、必然的に罪から遠ざかった生活を心がけるようになるでしょう。
おのずとその人の生き方は、すべて神の栄光を現わす生き方へとシフトされていくのです。
その彼らの言葉をパウロは逆手に取って、「あなたたちがすべてのことが許されているとほんとうにいうのなら、その恵みに応えて他人の良心を思いやることができるはずではないか」と言っているのです。偶像に供えられた肉を食べるのに良心の呵責や迷いがある人が目の前にいるのなら、「その人のためにそれを食べないという自由を持つべきではないか」。又、自分の知識によって「食べても罪にならないと思ったとしても、良心が責められる人に「食べるべきだ」と説いて無理強いするようなことをしても、それは相手の良心を傷つけるだけでなく、キリストに対して罪を犯すことになる、とパウロは言っているのです。
パウロは、偶像に供えられた肉の問題を取りあげながらキリスト者としての基本的ありかたをまず示します。それは、「すべてのことが許されている」、だから「人から招かれ、それに応じる場合、自分のまえに出されるものは良心の問題として一々詮索せず、何でも食べなさい」(27)と原則を述べます。
その一方で、「しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うのなら、その人のため、また良心のために食べてはいけません」(28)とも述べます。
パウロは本日個所の冒頭で、「すべてのことが許されている」と2度も述べていますが、実はこの言葉は、当時一部の偏った考え方をしていた自称クリスチャンらがこのようなスローガンを掲げて、したい放題、傍若無人にふるまっていたということが実際あったのです。
「罪を犯してもキリストによってすべて許される」。それは神の子が十字架で無残に死ななければならなかった。そんな尊い犠牲の上に与えられた恩寵であります。ですから本当にその恵みを知る者は、必然的に罪から遠ざかった生活を心がけるようになるでしょう。
おのずとその人の生き方は、すべて神の栄光を現わす生き方へとシフトされていくのです。
その彼らの言葉をパウロは逆手に取って、「あなたたちがすべてのことが許されているとほんとうにいうのなら、その恵みに応えて他人の良心を思いやることができるはずではないか」と言っているのです。偶像に供えられた肉を食べるのに良心の呵責や迷いがある人が目の前にいるのなら、「その人のためにそれを食べないという自由を持つべきではないか」。又、自分の知識によって「食べても罪にならないと思ったとしても、良心が責められる人に「食べるべきだ」と説いて無理強いするようなことをしても、それは相手の良心を傷つけるだけでなく、キリストに対して罪を犯すことになる、とパウロは言っているのです。