日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

真理とは何か

2020-03-29 20:08:24 | メッセージ

礼拝宣教  ヨハネ18章28~38節前半 受難節(レント)5     

          

先週は、イエスさまがイスカリオテのユダに裏切られ、ユダヤ指導者たちとローマ兵の物々しい一隊によって捕えられてしまう箇所でしたが。その後、イエスさまはユダヤ教の大祭司カイアファから尋問を受け、さらにユダヤ指導者たちはイエスさまを大祭司のところからローマの総督ピラトの官邸に連れていきます。

「過越しの小羊」

ここでその指導者ユダヤ人ら、祭司長、律法学者、ファリサイ派の人たちは「自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越しの食事をするためである」(28節)と記されています。

過越祭というのは、ご存じのとおり、イスラエルの民が神によってエジプトから救い出された時のことを記念として祝う、ユダヤ教の三大祭りの一つです。その過越しについては出エジプト記12章に記されているとおり、神の使いはエジプト人の長子と家畜の初子を打たれるのでありますが。家の鴨居に小羊の犠牲の血を塗ったイスラエルの民は「過ぎ越し」、民は守られるのです。

イスラエルの民はそれ以来、自分たちのルーツをこの過越しにおける救いの出来事にあるとして、毎年この事を記念としておぼえる「過越し祭」を行うのです。特にそのする祭りの初日は、出エジプトの際、神に命じられたものと同様、小羊を屠り、パン種の入っていないパンを焼いて共に食べる「除酵祭」として、現代にいたるまでユダヤ教の人たちは守っているのです。

2000年前イエスさまご自身も、十字架の受難と死の前夜にこれを祝われたということでありますが。そこには特別な意味があったのです。

バプテスマのヨハネはイエスさまのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と、紹介しています。それはまさに私たちが罪に囚われ、奴隷の状態とその滅びから救い出されるために、主イエスが屠られたのです。

 

さらに、使徒パウロは除酵祭と過越しの小羊との関係について次のように記しています。

Ⅰコリント1章7節「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越しの小羊として屠られたからです」。

古いパン種とは、人が手を加えた規定や言い伝えまでも厳格に守ろうとして、自他ともに裁いたり、高慢になって、神の御心から離れてしまうような思いのことです。すでに主イエスによって成し遂げられた、その救いの信仰によって生かされている私たちは、律法主義的古い生き方、その古いパン種を取り除いて、キリストによる新しい救いの人生を歩むよう招かれているのです。

 

「権限を巡って」

イエスさまを捕えて訴えたユダヤ教の指導者たちは、ローマの総督ピラトの官邸に入りませんでした。それは、異邦人は汚れた人であるから、祭りの前にその住居に入ると、自分の身にも汚れを受けると考えていたからです。

先ほど使徒パウロが「古いパン種」と記したことは、そういった人の内側にある偏見や差別であるのです。

 

そして何よりもイエスさまが指摘なさったように、彼らは儀式的なきよめについては細心の注意を払っていながら、きよめを司っておられる神とその教えについては、全くといっていいほど無知であったのです。

形では過越しの祭りを守っていると思っていた彼らでしたが、世の罪を取り除く神の小羊である過越しの主が目の前に来られたのに、彼らはその頑なさと高慢のために何ら気づくことができなかったのです。それどころか神の御子である主イエスを十字架へ引き渡していくのです。

 

さて、彼らが官邸に入ってこないので総督ピラト自ら彼らのところへ出向いたとあります。それは、ある意味ローマ総督でさえ、ユダヤ教の指導者たちに対してそのやっかいさや対応に手を焼いていたことが、そのやり取りから読み取れます。

ピラトは彼らに「どういう罪でこの男を訴えるのか」と、イエス告発の理由を尋ねると、彼らは「この男が悪いことをしていなかったなら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と、尊大に言い返します。

 

さらにピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言います。

はっきりと法的に裁ける理由が言えないのですから、もっともでピラトはユダヤ人の律法や宗教的問題で自分が担ぎ出されることはやっかいだと拒んだのです。

 

すると彼らは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えます。

ユダヤの宗教的指導者たちは、イエスが自分たちの現状を批判し、しかもこのガリラヤ出身の貧しい男を民衆がもてはやしていることをひどく妬んで、このままでは自分たちの威厳は失せ、その地位が揺らぎかねないと考えました。そしてこう思ったのでしょう。「自分たちがイエスを石打にすれば、民衆が黙っていない。ならばローマがかわりにイエスを処刑するなら自分たちは手を汚さずにすむ」と。

まあ、そのようなユダヤの指導者たちの思惑とローマ総督ピラトのやり取りがなされるわけです。

 

ところが、このイエスを死刑にする権限をめぐるやり取りの中、突然32節にこのような解説が出てきます。

「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」。これが大変重要なのです。

それはつまり、すべての出来事が誰の権威によって起こされたかを示しているからです。

 

このイエスの言われた言葉とは、ヨハネ3章14節にあります、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられねばならない」とのお言葉です。

それは、神の民とされた人々の中に、神への不平不満のつぶやきと反逆が起こった時、その多くの人々が毒蛇にかまれて亡くなるのですが。その民が神に悔い改めた時に青銅で作った蛇を掲げ、それを仰ぎ見た人たちは助かった、救われたということがあったわけです。ちょうどそのように、人の子、イエスさまも挙げられなければならないと、ご自身自が十字架にかけられることを示されたのです。

さらに12章32節で、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と、仰せになりました。

それらは、まさに主にこそ一切の権威があることを表しています。

 

神の御心に気づこうとせず自らを正当化し、絶対化するユダヤ教の指導者たちは、イエスを亡き者にしようと、ローマの権力をかりてその権限を得ようしますが。その権限はローマの総督ピラトにもないのです。この世界の如何なる者もその権威を有してはいないのです。唯、父の御神とその御独り子イエスさまのみがその権威を有しているのです。

 

父の御神が、罪に滅ぶほかない人間の救いのために、御独り子イエスさまを世人の罪を取り除く贖いの小羊としてこの世界にお遣わしになられたのです。すべての人はこの罪の滅びから救い出される道が開かれたのです。罪ある人間と御神との関係が回復されるために、十字架の出来事が起こされたのです。それら一切が、主の権威によって成し遂げられます。

私たちも又、すべての事象の中に、この神の権能を仰ぎ見るものでありたいと思います。

 

「王国を巡って」

さて、33節以降はピラトが直接イエスさまを尋問する場面であります。

ここには「王国」についての問答がなされています。

 

イエスさまは次のようにピラトにお答えになりました。

「わたしの国は、この世に属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」。

 

イエスさまはユダヤの王として民衆に大歓迎されながらエルサレムに入城されました。

しかしイエスさまの王国はローマの支配に対抗するような政治的・軍事的なものではありませんでした。もしそうであれば、イエスさまはピラトに答えたように、自分のもとに集まった天の軍勢を武装させて、ユダヤ奪回の軍事行動を起こされたかも知れません。

けれども主イエスが王として支配する国、主イエスの王国は、この世にその起源をもっていないのです。

これは私たちの生活全般に向けた考え方、又、エクレシアである教会のあり方についても常に心に留めておく必要があるでしょう。私たちの考えの根本、基がどこにあり、どこにおいていくことが大事かということを、このイエスさまとピラトの問答は明示します。

 

「真理とは何か」

ピラトはイエスさまの言葉に対して、「それでは、あなたはやはり王なのか」と尋ねます。

イエスさまはピラトの「あなたはやはり王なのか」の問いについては直接お答えにならず、ご自身「真理について証しするために生まれ、このために来た。真理に属する人は皆、わたしの声に聞く」と、仰せになります。

 

ヨハネの福音書1章にはこう記されています。

14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

17-18節「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない、父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。

私どもも又、この恵みと真理なる真の権威を持たれる主イエスに属し、いつもこの王なる主の声に聞き、信頼し、従うものでありたいものです。

さて、ピラトはイエスが無罪であることを認めていましたが、イエスさまに「真理とは何か」と聞き返して、答えがないまま今日の箇所が終わっています。

 

先ほどの1章17節の、イエス・キリストを通して「恵みと真理」は現れたの、「恵み」とは、神さまが価無き罪人、それどころか神に背を向け、逆らい続けるような者までも招こうとしてくださる救いの愛といえましょう。

真理」は、ギリシャ語でアレセイア、ヘブライ語でエメトという原語です。それはアーメンと同じ原語で、まことにという、信じる、信という意味をもっております。

それは、神の聖なること、神の正しさ・義は決して変わることはなく、同時に天地万物の造り主である父なる神の慈愛といつくしみも又、世にある生きとし生ける者に対し決して変わることはありません。それゆえに、その神の決して変わることのない真理を、世にあるすべての人が信実な信仰をもって受けとるとき、救われるのです。

この神の救いの真理は、ユダヤの指導者たちが異邦人は汚れているから除外するといった偏狭的なものではありません。それは信仰による救いですから、異邦人であろうが、どんな罪人であろうが、立場であろうが、血筋であろうが、信じる人すべてに開かれた寛大な神の救いの真理であります。

ですからここでイエスさまは、ローマの総督ピラトに対しても、その救いが開かれていることを示されたのだと思います。

 

「真理とは何か」。それは私どもにとりまして、正に「この神の子イエス・キリストの十字架の贖いのみ業を信じ、み言葉に聞き従って生きる」。そのところに、神の真理が実現されるということであります。

「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」コリントⅡ12・8

今日の箇所を通して、私たちはもう一度、イエスさまのみ前に、聖霊によってみ心を示して戴きましょう。自分のうちに働いている様々な思いを吟味し、ここからまたそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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剣をさやに納めなさい

2020-03-22 15:09:06 | メッセージ

礼拝宣教    ヨハネ18:1-11 受難節・ レントⅣ

 

アメリカでは昨今の新型コロナウイルス蔓延により、銃を購入するアジア系の人たちが急増しているとのことです。「ウイルスと銃」、一体何の関係があるのかと思いましたが。そのウイルスが当初中国から拡まったことや、日本のクルーズ客船への対応の不信感などもあるようです。そして、その背後にはアジア系の人々に対する根強い偏見と差別に加え、近年のアメリカ国内の分断の構造があるでしょう。そういった中で起こって来た「コロナヘイトクライム」によって、既に暴力や嫌がらせ、こどものいじめなども日常化してきており、社会状況の急激な変化から暴徒化した人たちがアジア系の人の店舗や家を襲って来る可能性が高まって来ているということです。銃の購入はそういった恐れや危機感の表れととれます。

又、イギリス在住の日本人ライターの女性は、地元の中学校に通う息子さんが、「今日、教室を移動していたら、階段ですれ違いざまに同級生の男子から『コロナを広めるな』って言われた」と聞いて記事を書かれていました。そこには「コロナウイルスの感染がヨーロッパでも広がり、政治家やメディアの発信も恐れや不安が増幅している。『真の危機はウイルスではなく恐れ』」と、ありました。ほんとうにそうだと思います。

人間は不安や恐れから、まったく根拠のない偏見や差別をもち、それが苛立ちや怒り、そして憎しみの感情、その延長線上に暴力、大虐殺にもエスカレートしていくことを認識しておく必要があります。自分の内にも、外にもそういった負のスパイラルを増幅させないよう祈り、心していなければなりません。

 

本日は「剣をさやに納めなさい」との主イエスの御言葉に聞いてまいりましょう。

この箇所は、14章~16章までの長い告別説教を終えられたイエスさまが、弟子たちを連れてギデロンの谷の向こうにある園、これはゲッセマネと呼ばれていた園に行かれた時の記述であります。

今日の礼拝の招詞で、イエスさまがゲッセマネの園で祈られたマルコ福音書の記述が読まれました。そこには「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』。進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』」(マルコ14:33-36)。そのように父の神に祈られたとございます。

このヨハネの福音書には、ゲッセマネの園で血の汗をしたたらせるばかりにして父の神に祈られた記述はございません。しかし12章27-28節にこう記されています。

「今、わたしは心騒ぐ。何を言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう』」。

ここにはイエスさまが父の神の御心を全身全霊で受け入れ、そのときに臨まれる並々ならぬ決意が示されています。

そのようにイエスさまが立ち上がられたときイエスを裏切ったユダが、3節「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、やって来た。彼らは松明やともし火や武器を手にしていた」とあります。マタイやマルコの福音書にはその武器について「剣」と「棒」となっています。

この一隊の兵士とはローマの軍隊のことで、その一隊は600人で構成されていたと言われていますが。さすがにそこまではいなかったと思われますが、相当な人数がやって来たに違いありません。

神の国を説く、まあローマ人から見れば一人の宗教家に過ぎないというような人物にこれほどの軍隊で対応していこうというのは、どういうことなのかと思います。

軍隊を遣わした律法学者やファリサイ派の人たちがそれ程までに、ナザレのイエスに対して不安と恐れをもって警戒していたということでしょう。

民衆は「ホサナ、ホサナ、主の名によって来られた方に祝福があるようにホサナ」と、熱狂的にイエスさまのエルサレム入城を祝いました。「この人こそメシア、イスラエルの民を体制の抑圧から救い出す王ではないか」と、多くの民衆は期待していました。そういった状況に対してもユダヤの当局者、指導者たちは恐れ不安であったのでしょう。

現体制や自分たちの立場が揺らぐ恐れと不安。虎の威を借りてというような形で、多勢の、それも軍隊を送り込んで来たことの中に、ユダヤ指導者たちの心理が見てとれます。

 

一方、このような剣を帯びた軍隊と対面なさったイエスさまはどうだったでしょう。

4節「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『誰を捜しているのか』と言われた」と、あります。

先にも見ましたように、イエスさまはゲッセマネの祈りにおいて父の神さまの御心にご自身を従わせ、その父の苦き杯をお受けになる決意のもと、ご自分が何者であるかを示されるのです。

彼らは「ナザレのイエスを捜している」と言うのですが、ナザレとは田舎者、何の良い者も出ないといわれる村で、そのところから出たイエスという男という意味です。まあ彼らは、そんなふうに差別し見下すことで、少しでも安心感を得ようとしたようにも思えます。

それに対してイエスさまは、毅然として「わたしである」と言われた、とあります。

 

他のマルコやマタイ福音書では、裏切り者のユダがイエスに接吻し、仲間の者たちにこれがイエスだという合図をして、イエスさまを捕えるのですが。この福音書では、イエスさまが自ら進み出て「わたしである」と、名乗られるのです。

 

これまで、ヨハネの福音書の中でイエスさまが「わたしは・・・である」、エゴーエイミという用語が何度も出てまいりましたけれども。

今日の5節で、イエスは「わたしである」とおっしゃった言葉は、エジプト記3章14節の、主なる神さまの御名を表す「わたしはある」という70人訳ギリシャア語の「エゴー エイミ」と同じ言葉なのです。まさにイエスさまの御名は「主なる神さまの御名、父の神とご自身が一体」である。そのことが示されているのです。

そうしてイエスさまご自身が、何ものかであるということが言い表されますと、イエスさまを捕えようとしていた者たち一同は、「後ずさりして、地に倒れた」とあります。

軍隊と剣を手にした世の力をもつ者たちが後ずさりし、地に倒れた。この世のどんな権力、武力も神の権威、権能の前に立ち得ません。主であられる神こそが、一切の支配者であられるのです。

箴言9章10節に「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め」との御言葉があります。

私たちはあらゆる出来事の中にも、主なる神こそ真の支配者であられ、どんな世の権威もこの主なる神の権威、権能に勝るものはないことを信じ、主を畏れ敬い続けていきたいと願います。

 

そして、イエスさまはこうもおっしゃいます。

8節「わたしを捜しているのなら、この人々(イエスの弟子たち)は去らせなさい」。

イエスさまはご自分一人が捕らえられる覚悟でいらっしゃったのです。

それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』といわれたイエスの言葉が実現するためであった」とも記しています。

これは前の17章12節で、イエスさまが父の神との祈りの中で語られた「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした」とのお言葉のことです。

ここでもし、弟子たちも一緒に捕えられてしまうようなことになれば、誰が福音を伝えたでしょうか。イエスさまの十字架による罪のあがないと解放が、世の人々の救いとされていく神の御心とご計画は実現されなければなりません。

他のマルコやマタイの福音書のこのイエスさまが捕らえられる箇所には、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と記されています。しかしこのヨハネの福音書は、イエスさまご自身が敵対し、危機を及ぼそうとする勢力から、弟子たちを最後まで深く愛し、守りぬかれる。その主の愛の姿を伝えているのです。

私たちも又、この時の弟子たちのように人間的弱さや欠けを抱える者ですが、それでもなお主イエスは私たちを深く愛し、神に執り成し、祈っていてくださるお方であることに、心から感謝を捧げます。

 

さて、この緊急事態に「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった」と、10節に記されています。

この時のペトロの心情を想像すると、彼は大変動揺し、彼も又、恐れと不安に襲われていたのだと思います。相手は世に聞こえたローマ兵です。いくら弟子たちが束になってかかってもどうすることもできないことなど一目瞭然でした。

その一団が目の前に迫り来る恐怖の状況下で、ペトロはもはや冷静に事態を判断できる心の状態ではなかったのです。それでもペトロにはイエスさまを愛する熱意が強かったのです。何とかイエスさまを守りたかった。イエスさまに手をかけて捕らえようとしたのであろう、大祭司の手下マルコスに切りかかったのですね。

 

イエスさまは、そこでペトロに2つのことを言われます。

1つは「剣をさやに納めなさい」ということです。

イエスさまがペトロの衝動的行為をお留めにならなかったら、更に剣による応酬の連鎖によって他の弟子たちもろとも命が損なわれることになっていたでしょう。結局、ペトロは守ろうとしたイエスさまの非暴力によってその命を守っていただくことになるのです。他の弟子たちの命も守られるのです。

興味深いのは、他の福音書にはイエスさまが、その剣で切り下ろされた人の耳をもとにして治されたという記述があります。それは剣による応酬の連鎖をイエスさま御自身が断たれたことを示しているように思います。

 

しかし、その剣を持つことに対してルカの福音書では、イエスさまご自身が剣を所持することを弟子たちに勧めている個所(ルカ22:35-38)があり、これはどういうことなのだろうと考えさせられます。イエスさまご自身は剣を帯びていらっしゃらなかったのですが。弟子たちには危険が及ぶ折にその場を逃れるために所持させたと考えられるでしょう。

それでもマタイ福音書では、イエスさまは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ22:52)と、剣の使用に関する警告を語られます。それは防御に出ようとするような者に対しても、いつ衝動的行動に走り、剣の応酬によって命が損なわれることがあってはならいことを、強くお教えになられたのではないでしょうか。

主なる神は預言者イザヤやミカを通してこう語られています。

「剣を打ち直して鋤としなさい」(イザヤ2:4,ミカ4:3)。そのように努めていくように主は今も私たちを招いておられます。

 

このところに次いでイエスさまはこう言われます。

「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。

この「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」、岩波訳聖書では「父が私に与えて下さっているこの杯は、それを飲まずにすまされようか」と訳されており、そこには更にその必然性、それは必ず実現されなければならないという決定的な主イエスのご意志がこの言葉から感じ取れます。

 

このヨハネの福音書は他の福音書とは異なっている点があることを先ほども見てきました。それはとりわけイエスさまが捕らえられる今日のこの箇所において、他の福音書はユダの裏切りやユダヤの指導者やローマの官憲によってイエスさまが捕らえられてしまうという受け身の仕方で描かれます。しかしこの福音書は、父の神の御心と向き合いつつ、十字架の道をイエスさま自ら積極的に進み出て、辿っていかれる姿を描いているのです。

まさに、ここには父の神からの杯を、イエスさまご自身が積極的に飲み干そうとなさるその強いご意志が表されているのであります。

 

この後、応答の賛美歌として、495「主よ 御手もて」を賛美しますが。その3節に、「主よ、飲むべきわが盃 選びとりて 授けたまえ 喜びをも悲しみをも 満たしたもうままにぞ 受けん」とあります。

主イエスご自身が選び取って下さった、その杯によって今私たちが主との和解と平安を賜っているこの尊い恵みを覚えつつ、私たちの飲むべき杯を、日々受け取り、主に従いゆくものとされてまいりましょう。

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主イエスはまことのぶどうの木

2020-03-15 13:14:43 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ15:1-12  レント(受難節)Ⅲ

 

5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」は、毎月第一週の礼拝の中でもたれます主の晩餐の最後に読まれる大変馴染み深い御言葉であります。

今日はこの1-12節までの文脈全体から御言葉に聞いていきたいと思います。

主イエスは、ご自身をぶどうの木の幹に、そして信仰者たちをぶどうの枝にたとえられます。それは、主イエスと救いにあずかる者の関係性を表しています。枝は、木が地中から吸い上げる養分によって果実を実らせます。当然ながら枝だけでは果実は実りません。

ぶどうの枝が、木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、信仰者も、主イエス・キリストにつながっていなければ実を結ぶことができない。真に神さまに祝福された歩みを送ることはできない、ということです。しかし、枝が木にしっかりとつながっていれば、その枝は木の幹から来る養分によって豊かに実を結ぶのです。

その「つながる」という言葉ですが。実は「とどまる」とも訳せる原語の「メノー」という言葉で、それがなんと今日の箇所の中に何と11回も使われております。先週読んだ14章2節でも「わたしの父の家には住む所がたくさんある」の「住む所」も同じ「とどまる」という言葉であったのです。

言うならば、この「主イエスにつながる」「主イエスの愛にとどまる」というイエスさまの告別説教の中で重要なキーワードになっているのですね。

イエスさまはこの後十字架にかけられる苦難の道を辿られることとなります。弟子たちはつまずき、散り散りに逃げ出します。彼らがそのまま切り取られた枝のようになってしまえば、その枝はもはや実を結ぶことはできません。たとえつまずき、倒れることがあったとして、そこでなお主イエスにつながり、とどまって生きる。そのように「主イエスにつながり」「主の愛に留まる」ことよって、主イエスの弟子として豊かに実を結ぶ者とされるのです。

先々週は、イエスさまが12人の弟子たちの足を自ら洗われ、十字架の受難と死を前にその弟子たちと最後の晩餐を共にされたところを読みましたが。

イエスさまはすでにご自分を裏切るユダのことを知りながらも、その彼の足も洗い、晩餐を共になさいました。けれども遂にユダはイエスさまと神さまの愛にとどまることなく離れていってしまいました。言うならば実を結ぶことはありませんでした。主の愛にとどまることが大切です。

 

さて、本日の冒頭の1節でイエスさまは言われます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。

聖書の中には、ぶどう、ぶどうの木、ぶどう園や畑に関しての記述がほんとうにたくさん記されています。

旧約聖書を読みますと、イザヤ書5章にはぶどうの畑に関する次のような記述があります。「わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを堀り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」。

これは、当時うたわれていた「ぶどう畑の愛の歌」を替え歌にして、イスラエルの民の姿を歌ったものだそうです。

ここには、ぶどう畑が造られ、丁寧に世話をされたにもかかわらず、そこで実ったのは、酸っぱいぶどうであった。この酸っぱいとは腐っているという意味だそうですが。

このたとえにおいて、ぶどうは、イスラエルの民、旧約における神の民のことで、その神の民が主なる神さまの祝福の内にありながらも、そこで実らせるべき実を実らせていない、ということが指摘されているのです。

囚われのエジプトから救い出して下さった主なる神さまを畏れ敬わず、与えられた繁栄におごり高ぶって、正義と公平を行わず、不正と搾取にまみれた腐ったぶどう。

その24節には、「そのようになったのは彼らが万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なるお方の言葉を侮ったからだ」と語られています。

主なる神さまはイスラエルの民が神の民にふさわしい豊かな実をつけることを期待されて祝福をお与えになったのです。しかしその期待に反して腐った実しかならなかったことを悲しまれ、その木は切り倒されてしまい、ユダと北イスラエルは崩壊し再び囚われの身となってしまうのです。

けれども農夫である神さまはこの世界に対する愛をあきらめません。この世界に、本当によい実を結ぶ実りがもたらされるために、御ひとり子イエスさまを「まことのぶどうの木」として植えられたのです。

ぶどうの木を植え、実を期待しておられる農夫は神さまご自身なのです。農夫はよいぶどうを実らせるためには沢山の労働が必要です。水を注ぎ肥料をやり、雑草を抜いて余分な枝を剪定し、収穫が近づけば垣根を巡らして盗まれないように見張りをします。大変面倒なことですし、忍耐も必要です。農夫である父なる神さまは、そのように守り育てまことのぶどうの木に実るであろうよい実の収穫のときを待ち望んでおられるのですね。

主イエスは、ここで、ご自身を、ただ「ぶどうの木」ではなく「まことのぶどうの木」、農夫である父なる神が植えられたまことのぶどうの木なのだ、とおっしゃっています。つまりそれは、その枝として「つながる」「留まり」続ける者に、豊かに実を結ばせ、農夫である父の神が栄光をお受けになるからです。私たち自身、しっかりと主イエスにつながり、その愛にとどまり続け、神さまが栄光をお受けになるような弟子とされたいものです。

ここでちょっと気になることがあります。2節でイエスさまが「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と、言われたお言葉です。留意したいことは、手入れをされる対象が「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」と言われていることです。

もし「キリスト教に入信した」とか「家の宗教はキリスト教で、、、」ということが、よい実を結ぶ枝で、そうでない枝が取り除かれるなら、実を結ぶほとんどの人はキリスト教国の欧米の人かもしれませんね?しかし、ここではっきりと語られていることは、主イエスにつながり、キリスト者とされていながら、実を結ばないという事態こそが問題だ、ということです。

先ほどイザヤ書のぶどう畑の歌から、旧約の民たちの罪と滅びの歴史を聞きましたが。ただイスラエルの神の選びの民だということがよい実を結ぶ民だとか、又神の救いの条件とはならないのです。私たちキリスト者も同様でありましょう。実を結ばない枝は農夫である父なる神さまが、その枝を取り除かれるのです。つまり、父なる神さまは、ぶどうの枝の良いものと悪いものを見分け、選定し、悪いものを取り除きつつ、実を結ぶ枝がより一層豊かに実を結ぶようにされるのです。

「取り除く」というと非常に厳しい裁きの言葉のように思います。自分は、取り除かれる枝なのか、そうではないのかと考えて恐ろしくなってしまいます。確かに、この言葉には、罪を罰せずにはおかれない、聖であられる神さまの義しさが現されています。ただここでは、何か善いことをするとか、人の称賛するようなことをすることが実のなる枝で、逆に人間的な欠けや失敗が多いと不要な枝とは一切おっしゃっていないんですね。ここは注意しないといけません。興味深いのは、岩波訳聖書が「実を結ばないもの」ではなく「実を結ぼうとしないもの」と訳している点です。そこでの重点は、実を結ぶ意思の無いもの、あるいは実を結ぼうなどと考えもしないもの、それが父が取り除かれる枝だということになります。一方、実を結ぼうとする枝は、いよいよ豊かに実を結ぶように父なる神さまが手入れなさるわけですが。実はこの「手入れする」という言葉と3節の「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」というこの「清くする」という言葉は同じ原語の言葉なのです。すなわち、イエスさまが語られる御言葉を聞くこと、それを願い求めて生きて行くことを通して神さまの手入れがなされていき、豊かな実を結ぶことになるというのです。 

私たち個々人も、御言葉によってより良い実のある枝となるには、剪定がいると思うんですね。御言葉によってよけいな小枝を取り除いて頂いて、良い実が実るものとされたいものです。

主イエスにつながっていることによって、御言葉により清められ、父なる神さまの手入れを頂きながら、豊かな実を結んで行くものとされていく。それは主イエスの弟子としての歩みであります。多くの人は耳障りのよい言葉のみを受け入れ、自分にとって不都合となる、都合の悪い言葉は切り捨てて行こうとする傾向があるのではないでしょうか。しかし、御言葉によって清くされるということは、その言葉によって自らが新しくされる、変えられていくということです。それを自分の都合で拒んでしまったとしたら、それは厳しいですが、真に主の救いにあずかっていると言えるかどうか分かりません。主イエスの御言葉は、罪の中にとどまろうとする人間に対して、いつも悔い改めを迫って来るのです。                         

イエスさまはさらに7節にありますように「あなたがたは、わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたのうちにあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と、おっしゃいます。その人たちとは、自分のためではなく主の栄光が現わされることを願う人たち、農夫であられる父なる神さまの喜びとなる実を結ぶ人たちであるのです。私たちの信仰の姿とこの御言葉とを照らし合わせてみましょう。

最後に、このイエスさまの告別説教に一貫して流れている最も重要なメッセージを確認したいと思います。

9-10節にこう記されています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛に留まっていることになる」。

イエスさまの掟とは何でしょうか。それは13章34-35節で語られた「互いに愛し合う」ということです。そこをお読みします。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。実にこの掟を生きることがキリスト者、キリストの弟子とされ、父なる神さまが栄光をお受けになるのです。 

イエスさまが弟子たちの足を洗われた後で、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とお命じになり、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃったのも、「主の愛にとどまる」ということを目に見える形で自ら示されたのですね。

ぶどうの木がその枝をのばしてその実を実らせようとしているところを下から見上げたことのある方、いらっしゃるでしょうか。それは、まるでネットが張りめぐらされていくように見える、とある方がおっしゃっていましたが。主イエスにつながる弟子たちは又、主にあって互いにつながり合い、互いの実りを喜びます。

11-12節「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。

父なる神さまと主イエスとがその愛によって1つであられるように、主イエスの愛によって救われ、主イエスの弟子とされて生きる私たちは、共に主の愛にとどまるようにと日々招かれているのです。折しも今、主イエスの十字架の苦難と死を憶えて過ごす受難節であります。私たちも又、主イエスさまから十字架を通して頂いた尊いその愛とゆるしをもって、互いに愛し、仕え合う。それが「つながる」「とどまる」という事の根本にあるのだということを今日再確認したいと思います。

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主イエスこそが真理、命の道

2020-03-08 17:34:21 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ14:1-6 レントⅡ(受難節)

今週も主の平安とともに、主の弟子として生きる歩みを続けるべく御言葉に聴き従ってまいりたいと願います。
先週は13章から弟子たちをこの上なく愛し抜かれたイエスさまが弟子たちの足を洗われ、最後の晩餐を持たれるという場面でした。つのですが。そのような主の愛に背を向けたイスカリオテのユダは「パン切れを受け取ると、すぐに出ていった」のです。イエスさまを裏切るためでした。
この時21節にありますように、イエスさま御自身「心を騒がせる」のですが。きっぱりと31節、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と宣言なさるのであります。
またイエスさまは弟子たちに「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』」とおっしゃるのです。
それはご自身が十字架にかけられて死に、墓に葬られることを指しておっしゃったわけですが。
それに対して筆頭弟子のシモン・ペトロがイエスさまに「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねますと、イエスさまは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と、お答えになったのですね。
それを聞いたペトロが「あなたのためなら命を捨てます」と答えると、イエスさまは「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、あなたはわたしを見捨てて逃げるだろうというような予告をなさるのであります。
まあ、この時のシモン・ペトロをはじめ、他の弟子たちは、イエスさまが去って「自分たちはそこに来ることはできない」と語られたことに、大変心騒いだのです。     
彼らは曲がりなりにもイエスさまを信じ、頼りにして歩んできたわけですから、そのイエスさまがどこへ行かれるのか分からない、もしいなくなってしまったらと考えると、心騒がずにはいられなかったわけです。
実にこのところから今日の14章、さらに16章の終わりまでがイエスさまの告別説教と言われる箇所であります。
イエスさまはその動揺する弟子たちに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われます。
この「心を騒がせるな」というところを原語に近い岩波訳聖書では、「あなたがたの心がかき乱されてはならない」と訳しておりまして、そうしますとちょっと意味が違ってきます。
単に「心を騒がせるな」というのは命令ですから、自分で感情をコントロールしなさい、まあそういうことになります。けれど「あなたがたの心がかき乱されてはならないから神を信じなさい」と言われると、ああ神に信頼していることが大切なんだなあと思えます。
今全世界で起っていることを考えますと、私たちも又心騒がせずにおれないような状況というのがあるわけですが。主はそんな私たちに、心を騒がせるな、と命じられるのではなく、心がかき乱されてはいけないから、まず神に、そしてわたしに信頼していなさい、とおっしゃるんですね。

「真の居場所」
イエスさまは続けてその「信頼の根拠」といって差し支えないと思うのですが、次のようにおっしゃいます。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
イエスさまは、これまでご自分が世を去るべく十字架にかからねばならないということを告知されてこられました。けれどそれがどうしてなのか。何のためにということをはっきりとお語りになりませんでした。
しかしここに来て、イエスさまはそのことについてはっきりとお話になられ、「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われたのです。そうしてイエスさまが弟子であるものたちのために、「場所を用意したら、戻って来てあなたがたをわたしのもとに迎える」と語られるのです。
まあ、この迎えに来るとはいつのことかとも思うわけです。このことについては神学的にもいろいろな議論がなされております。それはイエスさまの復活後弟子たちに姿を現わされた時のことではないかとか。あるいは、13章16節で言われた、聖霊をお遣わしになってからのこと、主が信じる者たちと共にいてくださるとのことを差しているのではないかとか。さらには、世の終わりの時、主の再臨の時のことではないか?それらについては、そのどれもが正しいといえましょう。
先の、主イエスの復活と聖霊降臨はすでに起こりました。それは過去で終わったものではなく、今も変わらず主を信じる私たちと共に主は生き続け、共にいてくださっているのであります。
ただ、聖書には主の再臨が世の終わりの時に訪れるということが記されており、それは必然的に神が起こされることであって、その時はまだ訪れておりません。

まあ、この14章のところから、私は告別式や納骨式で御言葉を語らせて頂くことがあるわけですが。この個所はイエスさまご自身、十字架の苦難と死が間近に迫り来るなか、万感の思いで残されたいわば遺言であります。
人は誰も生まれる時、地上を去る時を自分で決められるものではありません。神さまの大いなる摂理のもとで一人ひとりは生かされ、それを終える時を迎えるのであります。
しかし主は死を打ち破り復活なさった。いずれ経験する死さえも、終わりではない。
昨年特別集会にいらっしゃった岸先生の大阪府民イースターのポスターに目が留まり、そのタイトルにこう書かれていました。「死は終わりではなく、通過地点である」。アーメン。素晴しい表現、その通りです。そういう中で、世の終わりの時、主の再臨の時が訪れ、主を信じるものすべてのものが愛する主と共に顔と顔を合わせて住む、真の居場所へと主が迎えに来てくださる。その大いなる希望を頂いているのであります。

もう一つ、この「住む所」というのは元来「留まる」という動詞から来ているということです。3章23節の「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」も、この「留まる」ということであるのです。父の神と主イエスが私と一緒に住んで下さる。一緒に留まり続けておられる。それは真の平安であり、素晴しい霊的交わりのことなのです。
この礼拝もそうでしょう。ですから、主が用意して下さる場所というのは死んだ後どこへ行くかということよりも今もうすでにある神との、主との霊的交わりの内にすでにあるということなのです。
天の国は、家のようなハウスというような場所ではなく、父の神、御子イエス、聖霊による交わりのホームを表しているのです。建物がいくら立派かというよりも、そこでだれがどのように住んでいるのか。又、その霊的つながり、交わり、関係性が大事なのです。
天国というのは何かほんわかで、居心地の良い所というよりも、父なる神、救い主イエスさま、ご聖霊と共に、又主にある兄弟姉妹と留まる霊的交わりは永遠で、それは今すでにあるということなのです。
来週は「主イエスはまことのぶどうの木」の15章からみ言葉を聞く予定ですが、そこには主イエスのからだなる教会の姿が指し示されているのです。たとえ欠けの多い不完全な人間の交わりであったとしても、主にある交わり、主を信じ共に神の救いに生き、共に祈り、賛美をもって仕え合う霊的交わりのある真の居場所。
その居場所を、イエスさまが十字架の苦難と死を通って用意して下さったということに私たちはほんとうに感謝するばかりですね。
今、目に見える主にある兄弟姉妹、すでに天の父のもとに帰ってゆかれた兄弟姉妹とは、今この時も、同じ主イエスにある居場所に共に与っているという、慰め以上の平安と喜びであります。

「主の復活につながる希望」
話は変わりますが。今週の3月11日は15899人が亡くなられ、2529人が行方不明となったあの未曾有の東日本大震災・原発事故から9年目を迎えます。コロナウイルス感染症の影響で公的な式典が中止になったことは誠に残念でありますが。風化させることなく今もなお被災者として生きていくほかない方々を忘れず、私たちはバプテスト連盟の震災現地委員の働きを通してですが細々でも祈り関わり続けたいと願っております。
又、今年の1月17日は、6434人が亡くなられ、3人が行方不明となった阪神淡路大震災が起ってから今年で25年。今年も関西地方教会連合の『1.17祈念礼拝』が被災教会の一つである浜甲子園教会で持たれました。
説教者として立たれた浜甲子園教会のMさんは、震災当時から現場の対応にあたりつつ、又連盟の震災現地委員のお一人として関わって来られました。Mさんは『未だ被災の中』と題し、コリント一2章2節の「十字架につけられ給いしままなるキリスト」を切り口に、「震災は過去のことで終っていない。被災したということは今も、そして未来に続く。それが祈念するという意味だと思う」と語られました。
実はMさんには第2子を生後2週間で病死されるという辛い体験をもっておられたのですが。いろんな問題にもぶちあたり、この先どうしていったらいいのかと悩み苦しみを抱える折、「その自分にとって辛く、しんどいときに、その子が病院の保育器の中で一生懸命に息をする姿が現れて、自分を後押しし、励ましてくれた」と、自らの体験を振り返って、披歴してくださったんですね。
Mさんはこうもおっしゃいました。「阪神淡路大震災を祈念するとは、震災で亡くした家族との復活が起っていることを祈る、その証言が聴ける、そういった出来事でもある」と。
私どもにとりまして、主の復活を祈念する時というのは礼拝であるのでしょう。そこで主イエスが私たちの日常において語りかけ、共にいてくださっていることを祈る、又その証言、あかしが聴ける、そこに礼拝の礼拝たる意味があるということです。主の晩餐もそうです。このことのため、この喜びと希望のために、時間を聖別し、主にある交わりを共にしているのです。今の状況の中で、コーヒーブレイクも愛さん昼食もできなくなっていますが。まさに、このような時だからこそ、私たちの喜びと希望の原点を再確認する機会となっているようにも思います。もちろん諸事情のために礼拝に来ることのできない方々もいらっしゃいます。
しかし、イエスさまは3節で「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と、おっしゃいました。
主と私たちがつながるように、時空を超えて主にある祈りと執り成しのうちに私たちはどこにいても同じ場所、主のもとに留まっているのです。
イエスさまはおっしゃいました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」アーメン、ほんとうに感謝です。

「主イエスこそが真理、命の道」
話を戻しますが。
イエスさまはこれまでお話になられた後、4節で弟子たちに「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と、言われます。
「どこへ行くのか」について、イエスさまが予め弟子たちに何度もご自分の十字架の受難と死について語られてきたからです。けれども弟子たちはまだそれがどういうことなのか理解できません。
ここで、トマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と、イエスさまに尋ねます。
それはトマスにしてみれば、行き先も分からないのにどうして道が分かりますかということでありましょうが。ほんとうにこの先どうなるのかわからない不安と動揺するトマスがいます。
目的地、行き先がわからなかったら、道の進みようがないわけで、目的地があるからこそ、そこへ辿る道を見出すこともできるわけです。けれどもトマスは、イエスさまが父の神の御心に従って、救いの道が切り拓かれるため十字架の苦難と死へと向かわれることが分かっていなかった。他の弟子たちも同じでした。

そこで、イエスさまは言われます。「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
また、ここで「エゴー エイミ」という「わたしこそが~である」という言葉が出てきました。ここでは、主イエスご自身こそが道そのものである、と答えられています。
先ほど申しましたように、目的地、行く先があるからこそ、そこに至る道が必要なのであって、その目的地こそ父なる神さま、天地万物の創造主に至ることであります。そしてイエスさまは「わたしこそ父の神に至る道である」とおっしゃっているんですね。それは又、主イエスこそが真理、命:ゾエー、永遠の命の道なのです。
まあ古今東西、いろいろと素晴らしい教え、人生の処世訓を説く人はたくさんいましても、「わたしこそが父なる神に至る真理・命・道」と宣言されたのは、人となられた神のひとり子イエス・キリストただお一人です。
罪のために父の神の家に帰ることが出来ない私たちのために、身代わりとなって裁きを負って十字架に罰せられ死なれた主イエス。その贖いの業によって父の神さまの家に私たちの真の居場所が用意されているのです。
まさにイエスさまはその何ものにも替え難い祝福の場、天の神の霊の交わりの場へと至る道であり、真理であり、命なるお方なのです。
先行きが見えなく不安な今の時代、心が掻き乱されることの多い地上の日々にあって、「神を信じなさい、わたしをも信じなさい」と語りかけられる主イエスの御言葉に堅く信頼し、この確かな祝福の道を共に歩んでいきましょう。

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諸集会について休会のお知らせ

2020-03-08 14:23:25 | お知らせ

新型コロナウイルス感染症の対応として、以下の集会を当分の間、休会といたします。

 

教会学校成人・幼小クラス (毎週日曜 午前9:30-10:25)

祈祷会(毎週水曜 午前10:30-12:00  午後7:00-8:00)

夕礼拝(毎月第2、第4日曜日午後6時開始)

こども広場(毎月第2水曜日午後3時半開始)

 

なお、主日礼拝(毎週日曜 午前10:30-12:00)はについては通常どおり行われます。

※体調の悪い方は、無理をされることのないようご自宅で十分にご静養され、回復されてから礼拝へお越しください。

※受付設置のエタノール液による消毒、又、マスクをお持ちの方は着用にご協力お願いいたします。

 

なお、今後の状勢により、集会においてさらなる対応が必要な場合は、追ってお知らせいたします。

よろしくお願いいたします。

平安 2020/3/8

 

日本バプテスト大阪教会

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夕礼拝、親子広場の当分の期間休会について

2020-03-04 08:24:24 | お知らせ

新型コロナウイルス感染症の対応として、以下の集会は当分の間、休会となります。

夕礼拝(毎月第2、第4日曜日午後6時開始)

こども広場(毎月第2水曜日午後3時半開始)

 

なお、今後の状勢により、集会においてさらなる対応が必要な場合は、追ってお知らせいたします。

よろしくお願いいたします。

日本バプテスト大阪教会

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キリストに呼び集められた群の使命

2020-03-01 15:20:02 | メッセージ

礼拝宣教  ヨハネ13章1-20節
 
本日はヨハネ福音書13章のイエスさまが弟子たちの足を洗った記事より「キリストに呼び集められた群の使命」と題し、御言葉に聴いていきたいと思います。

「主イエスの洗足」
この記事はヨハネ福音書だけに記されているものですが、主イエス・キリストによって救われその弟子として生きる私たちが、その関係性において如何にあるべきかを示す重要なエピソードであります。
今日の箇所13章の冒頭には、「イエスさまがご自分の時(十字架の受難と死)の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。
自分を見捨て、試み、裏切ってしまうような者さえも、変わることなく注ぎ続けた主の愛がここに示されているのであります。

それは、イエスさまが過越祭の前に弟子たちと共に食事をとられている最中に起こりました。
突然、「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」のです。
通常、人の足を洗うことは、奴隷の仕事でした。しかもこれは異邦人の中から奴隷として売られて来た者のすることであったということです。同胞のユダヤ人で奴隷になった人はそれが免除されて人の足を洗うことはなかったという程のことをイエスさまは弟子たちになされたということです。

この行動には弟子たちは大変驚いたに違いありません。
マルコの福音書には、イエスさまがエルサレムに入城される前に彼らは自分たちのうちでだれが一番偉いのかと言って争っていたとあります。
イエスさまは、そんな弟子たち一同を呼び寄せられて、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:43-45)と、弟子たちをたしなめられました。
イエスさまはまさにご自身がお語りになったことを自ら実行なさるのです。
けれどもこのイエスさまのなされた行為はその当時の弟子たちには理解し難く、まさに天地がひっくり返るようなことであったのです。地位や立場を得れば権威的にふるまってしまうのは社会ではよくあることです。ところがイエスさまのようなことをすれば、何を考えているのかと嘲笑われるのがおちです。ところが主イエスは、最も低い奴隷のように身をかがめ、仕える者となられるのです。

「ペトロとユダの場合」
このイエスさまの洗足の場面に登場する、2人の弟子について見ていきたいと思います。
1人は、イエスさまの一番弟子であったシモン・ペトロであります。
イエスさまがペトロの足を洗う番がきました。
ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください」(8節)と拒みました。  
これは何ともペトロらしいなと思うのですが、彼は弟子のうちでも非常にイエスさまに忠義を尽くす人で、又正義感の強い人でもありました。ですから、イエスさまともあろうお方が自分の足など洗われるなど許されないこと、とんでもないことです、と彼は猛然とお断りしたわけです。彼はイエスさまにこんなことをさせてはいけないと思ったのです。しかしそれはイエスさまがペトロに差しだしておられる愛の手を払いのけ、主の救いを拒否することを意味していたのです。

イエスさまはそんなペトロに、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とお答えになります。
ペトロはこのイエスさまの衝撃的なお言葉を聞いたとたん、うろたえて反射的に「主よ、じゃあ足だけでなく、手も頭も」洗ってくださいと頼みます。「イエスさまとかかわりがなくなるなんて、とんでもない。それなら全身洗っちゃってください」と、まあ親が子にするように、いっそ全身をということでしょうか、そう口走ってしまうのです。そういったところにペトロの実直で幼子のような姿も表われているようですが。

するとイエスさまはそのペトロに対して、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(10節)と言われます。
ここでイエスさまがおっしゃった「あなたはわたしとかかわりがなくなる」の「かかわり」と訳された原語・メロスには、取り分や分け前に与ることの意味があります。それはイエスさまに足を洗っていただくのでなければ、神の恵みの取り分、分け前に与ることはなくなるというようにも読めます。つまり、あなたの最も汚れた部分とイエスさまがかかわりをもたないのなら、清くならないということであるのでしょう。すなわち、イエスさまに罪を洗って戴いただく事を受け入れずに拒否することは、主の十字架の血しおの恵みを拒否することを意味しているのです。7節でイエスさまが「わたしのしていることは、今はあなたには分るまいが、後で、わかるようになる」と言われたのは、まさにそれは、この十字架の苦難と死による罪のきよめの御業についてであったのです。

さて、イエスさまは、この後の36節以降において、ペトロがイエスさまを否むだろうということをも、予告されています。
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」とのお言葉をペトロに語ります。それに対しペトロは、「主よ、なぜ今ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と忠誠心をもって答えるのでありますが。イエスさまは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うであろう」とペトロの離反を予告なさるのです。そうしてその夜イエスさまが官憲に捕えられ引き渡された時、ペトロは後を追っては行ったものの「あなたはイエスの弟子の一人ではないのか」「園でイエスと一緒にいたのではないか」などと問われると、彼は三度それを「打ち消して」、イエスさまとの関係を否認してしまうのです。その時にイエスさまがおっしゃったとおり「鶏が鳴く」のですが。      
ルカ福音書22章には、ペトロがその鶏の鳴き声を聞いた瞬間に、イエスさまの「お言葉を思い出して激しく泣いた」と記されています。このイエスさまのお言葉を思い出した彼はどれだけ自分の不甲斐なさ、罪深さを思い知らされたことでしょう。
同時にペトロはイエスさまがこんな自分であることを十分ご存じのうえで、あのように足を洗われ、とりなし祈って下さっていたのだ、ということに気づいたことでしょう。
ペトロは、イエスさまが自分の足を洗われたその意味、「わたしが洗わないのなら、わたしとのかかわりもないことになる」とのイエスさまのお言葉のその真意を、そしてその愛と赦しの救いを、イエスさまを否み躓いたそのときに強く思い知るのです。
「イエスという男など知らない」と逃げ出すような者であるとわかっていながら、足を洗ってその愛を示して続けてくださったことのその重み。その、この上ない愛に打たれた体験は、その後ペトロが使徒として主イエスの愛を伝える福音の原動力になっていったのであります。

さて、そういうペトロとともにもう1人大変気になりますのは、イエスさまを銀貨20枚で引き渡して裏切ったイエスカリオテのユダであります。
イエスさまは、11節に「ご自分を裏切ろうとしている者がだれであるのかを知っておられた」と記されてありますように、すでにユダの裏切りをご存じのうえで、ユダの足もお洗いになったのです。すべてをお見通しになっておられたにも拘わらずイエスさまは、他の弟子たちと同様に彼の足を洗われ、手ぬぐいでふかれました。
この時彼は何を考え、どのような思いであったのだろうか、それはわかりませんが。一説によれば、ユダも他の弟子たちや民衆と同様にイエスさまに対して政治的指導力を求め、世の力をもってユダヤの民を牽引してほしいという願望が強くあった。けれどもそのユダの思いに反し、イエスさまは受難と死を告される。まあ弟子たちにとってそれは不可解な言動に映ります。そして遂にエルサレム入城と思いきや、勇ましい軍馬にではなくロバに乗られる。しかも腰をかがめ自分の足を洗われる。ユダにはまったく理解できなかったのでしょう。けれども先週読みましたラザロをみがえらされたイエスさまなら、窮地に追い込まれても本領を発揮なさるかも知れない、と一抹の期待をもって彼はイエスさまを試みていたのかも知れません。
しかしイエスさまはすべてのことをご存じの上で、そのようなユダの足を洗われた、そんなユダであろうとも最後まで愛し抜かれたのです。それこそが「この上なき主の愛」であったのです。
実はイエスさまは警告といえるサインを何度も彼に与えておいででした。ユダにはその主の愛に立ち返るチャンス、機会が何度も与えられていたのです。しかしユダはというと、イエスさまの愛に心を閉ざしたまま、その後結局、イエスさまとその弟子たちの群から独り背を向け出て行き、銀貨と引き換えにイエスさまを売り渡すのであります。そしてユダは最後まで主の愛に立ち返ることなく、独りぼっちで自責の念から自ら命を絶ってしまうのです。

ここまで、シモン・ペトロとイスカリオテのユダの2人の弟子の姿を見てきましたが、如何でしょうか。
12弟子の中でユダだけが裏切り者としてクローズアップされますけれども、愛弟子といわれたペトロも追いつめられるとイエスさまを否認し、そのかかわりを否認し逃げたのです。
では、この2人の大きく異なっていた点とは、何でしょう。
それは、イエスさまの洗足、足を洗うという行為に象徴されます愛と赦しに、気づくか気づかないか。別の言い方をしますと、汚れた足、いわば自分の罪を洗う、洗われるという主イエスとの愛の関係性を受け入れるか拒み続けるか。その違いによってこの二人の弟子の生き方が大きく変わるのですね。
ユダは自分が犯した事の大きな罪を苛なまれ、自らを裁き、主の愛と赦しに立ち返ることなくその生涯を閉じるのです。

一方のペトロは確かに自分の弱さや罪深さに躓きますが、彼の心のうちにはイエスさまの愛と赦しの御言葉が鮮明に思い起こされたのです。ペトロは主イエスの愛に触れ、その主との関係性から離れて生きることができませんでした。彼は、イエスさまの前に汚れた足をさらけ出すほかなかったのです。ではどうしてペトロは主イエスとの関係性にとどまり続けることができ、ユダはそれができなかったのでしょうか。
そのヒントが先ほども触れました10節に記されています。
イエスさまは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」、しかし「皆が清いわけではない」とおっしゃっています。
つまり、ペトロや使徒となっていった弟子たちは全身清くされていて、ユダは清くなっていなかったということです。では、全身清くされるとはどういうことなのでしょう?

この先の17章のイエスさまの祈り、最後のお言葉というところを開いてみましょう。   
6節―8節の「世から選び出されてわたしに与えてくださった人々」のところをお読みします。
ここに2つのことが示されています。1つは、イエスさまの御名、すなわち神のもとから来られた方であることを彼らは信じた、ということです。2つめは、彼らはイエスさまの言葉を受け入れ、守った、ということです。主イエスの弟子たちは、イエスさまが神のもとから来られた救い主、キリストであると信じ、その語られる御言葉を受け入れ、守り、日々主と共に歩んできたのです。                     
主イエスはそれをご覧になられ、あなたたちは既に全身は清くされている、だから足だけ洗えばよい、とおっしゃいました。つまり、足というのは一番汚れる部分ですね。それを日々継続して洗い清めるように主への信仰と御言葉に立ってあゆんでいくこと、それが私たちキリストに呼び集められた者に求められているのです。
いざという時に、そのキリストの弟子として生きてきたことが大きな支えと力、いやそれ以上の助け、救いになるのですね。

「キリストに呼び集められた群の使命」
さて、イエスさまは弟子たちの足を洗った後、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか」と弟子たちに言われました。イエスさまが弟子たちの足を洗われたのは、もちろん弟子たちを最期まで愛し抜かれたことの表れであり、そのしるしでありました。
しかし、それだけではありません。
イエスさまは14節以降で、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」とおっしゃいます。
これは、「先生」とか「師」、また「主」と呼ばれていたイエスさまが自ら弟子たちの足を洗ったことを心に刻むようにおぼえて、あなたがたも互いに相手の罪をゆるし、重荷を負い合って、互いに愛し合いなさいと、イエスさまは強く命じておられるのです。
本田哲郎訳の聖書では、「互いの足を洗う義務がある」と訳されております。これは原文では「負債がある」という言葉だそうです。それはイエスさまが十字架で負われた罪の贖いによる死という負債、代価なのです。そのとんでもなく大きな負債、代価に対して、イエスさまは「あなたがたもまた、わたしがしたように互いに足を洗い合いなさい」と、強く命じられておられるのです、
私たちの人間関係というのは、どこか自分にとって心地よく思えるところでは共感もし、受け入れあうことができても、わずらわしい部分やうっとうしく思えることがあると、かかわりを断ってしまいたくもなるものです。
しかしその感情のままに関係を断ってしまうような集まりなら、世のサークルや団体と何も変わりません。
肝心なことは、主イエスが弟子たちに自ら模範をお示しになったとおり、一番汚れやすい部分である足を互いに愛と赦しをもって洗い合うことなのです。そのことが実に、イエスさまと「かかわる」ということでもあるのです。
他者の汚れを洗い、自分の手ぬぐいで拭ぐいとるって、何と難しいことでしょうか。
又、自分の汚れを隠さずに差しだし、他者に洗ってもらうことは、何と恥ずかしいことでしょうか。しかし、主イエスは自ら私たちにその模範を示し、「互いに足を洗い合いなさい」と命じ、さらに「そのとおりに実行するなら、幸いである」と、祝福を約束されるのです。
先ほどペトロとのやり取りでイエスさまは、「全身清いのだから」といわれ、それは私たちが御言葉によって清くされているということだ、と申しました。
けれども、私たちの足は日々動けば汚れるように、日々意識せずとも罪を重ねるような者であります。
だから日々の罪の汚れを洗うことが大切なんです。それは一人では気づけないことでもあります。キリストに呼び集められた群の中で自分の罪に気づき、たとえ人間的関係性のつまずきが起ったとしても、互いにゆるしゆるされ、祈り祈られるそうしたとりなし合いの中で、キリストの愛の深さ、広さを知らされていくことが、どうしても必要なのです。
決してきれいごとではないでしょう。足が汚くて、できれば見たくない、触れたくもない。恥ずかしくて見られたくもない。しかしイエスさまは、「わたしが足を洗わないならわたしと何のかかわりもないことになる」と、おっしゃるのです。

このヨハネの福音書13章は、イエスさまの洗足と最後の晩餐の記事がつながるように記されています。その最後のいわばイエスさまの遺言ともいえるお言葉の中で、最も弟子たちにお伝えになりたかったこと、それが「あなたがたに新しい掟を与える」とおっしゃった、13章34節の「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というメッセージなのです。
主御自身が私の足を洗ってくださったように私もまた、兄弟姉妹と足を洗い合うとき、35節「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
今日の主のお言葉に聴き従って、主に栄光を帰していく歩みを続けてまいりましょう。

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