礼拝宣教 ヨハネ18章28~38節前半 受難節(レント)5
先週は、イエスさまがイスカリオテのユダに裏切られ、ユダヤ指導者たちとローマ兵の物々しい一隊によって捕えられてしまう箇所でしたが。その後、イエスさまはユダヤ教の大祭司カイアファから尋問を受け、さらにユダヤ指導者たちはイエスさまを大祭司のところからローマの総督ピラトの官邸に連れていきます。
「過越しの小羊」
ここでその指導者ユダヤ人ら、祭司長、律法学者、ファリサイ派の人たちは「自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越しの食事をするためである」(28節)と記されています。
過越祭というのは、ご存じのとおり、イスラエルの民が神によってエジプトから救い出された時のことを記念として祝う、ユダヤ教の三大祭りの一つです。その過越しについては出エジプト記12章に記されているとおり、神の使いはエジプト人の長子と家畜の初子を打たれるのでありますが。家の鴨居に小羊の犠牲の血を塗ったイスラエルの民は「過ぎ越し」、民は守られるのです。
イスラエルの民はそれ以来、自分たちのルーツをこの過越しにおける救いの出来事にあるとして、毎年この事を記念としておぼえる「過越し祭」を行うのです。特にそのする祭りの初日は、出エジプトの際、神に命じられたものと同様、小羊を屠り、パン種の入っていないパンを焼いて共に食べる「除酵祭」として、現代にいたるまでユダヤ教の人たちは守っているのです。
2000年前イエスさまご自身も、十字架の受難と死の前夜にこれを祝われたということでありますが。そこには特別な意味があったのです。
バプテスマのヨハネはイエスさまのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と、紹介しています。それはまさに私たちが罪に囚われ、奴隷の状態とその滅びから救い出されるために、主イエスが屠られたのです。
さらに、使徒パウロは除酵祭と過越しの小羊との関係について次のように記しています。
Ⅰコリント1章7節「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越しの小羊として屠られたからです」。
古いパン種とは、人が手を加えた規定や言い伝えまでも厳格に守ろうとして、自他ともに裁いたり、高慢になって、神の御心から離れてしまうような思いのことです。すでに主イエスによって成し遂げられた、その救いの信仰によって生かされている私たちは、律法主義的古い生き方、その古いパン種を取り除いて、キリストによる新しい救いの人生を歩むよう招かれているのです。
「権限を巡って」
イエスさまを捕えて訴えたユダヤ教の指導者たちは、ローマの総督ピラトの官邸に入りませんでした。それは、異邦人は汚れた人であるから、祭りの前にその住居に入ると、自分の身にも汚れを受けると考えていたからです。
先ほど使徒パウロが「古いパン種」と記したことは、そういった人の内側にある偏見や差別であるのです。
そして何よりもイエスさまが指摘なさったように、彼らは儀式的なきよめについては細心の注意を払っていながら、きよめを司っておられる神とその教えについては、全くといっていいほど無知であったのです。
形では過越しの祭りを守っていると思っていた彼らでしたが、世の罪を取り除く神の小羊である過越しの主が目の前に来られたのに、彼らはその頑なさと高慢のために何ら気づくことができなかったのです。それどころか神の御子である主イエスを十字架へ引き渡していくのです。
さて、彼らが官邸に入ってこないので総督ピラト自ら彼らのところへ出向いたとあります。それは、ある意味ローマ総督でさえ、ユダヤ教の指導者たちに対してそのやっかいさや対応に手を焼いていたことが、そのやり取りから読み取れます。
ピラトは彼らに「どういう罪でこの男を訴えるのか」と、イエス告発の理由を尋ねると、彼らは「この男が悪いことをしていなかったなら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と、尊大に言い返します。
さらにピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言います。
はっきりと法的に裁ける理由が言えないのですから、もっともでピラトはユダヤ人の律法や宗教的問題で自分が担ぎ出されることはやっかいだと拒んだのです。
すると彼らは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えます。
ユダヤの宗教的指導者たちは、イエスが自分たちの現状を批判し、しかもこのガリラヤ出身の貧しい男を民衆がもてはやしていることをひどく妬んで、このままでは自分たちの威厳は失せ、その地位が揺らぎかねないと考えました。そしてこう思ったのでしょう。「自分たちがイエスを石打にすれば、民衆が黙っていない。ならばローマがかわりにイエスを処刑するなら自分たちは手を汚さずにすむ」と。
まあ、そのようなユダヤの指導者たちの思惑とローマ総督ピラトのやり取りがなされるわけです。
ところが、このイエスを死刑にする権限をめぐるやり取りの中、突然32節にこのような解説が出てきます。
「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」。これが大変重要なのです。
それはつまり、すべての出来事が誰の権威によって起こされたかを示しているからです。
このイエスの言われた言葉とは、ヨハネ3章14節にあります、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられねばならない」とのお言葉です。
それは、神の民とされた人々の中に、神への不平不満のつぶやきと反逆が起こった時、その多くの人々が毒蛇にかまれて亡くなるのですが。その民が神に悔い改めた時に青銅で作った蛇を掲げ、それを仰ぎ見た人たちは助かった、救われたということがあったわけです。ちょうどそのように、人の子、イエスさまも挙げられなければならないと、ご自身自が十字架にかけられることを示されたのです。
さらに12章32節で、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と、仰せになりました。
それらは、まさに主にこそ一切の権威があることを表しています。
神の御心に気づこうとせず自らを正当化し、絶対化するユダヤ教の指導者たちは、イエスを亡き者にしようと、ローマの権力をかりてその権限を得ようしますが。その権限はローマの総督ピラトにもないのです。この世界の如何なる者もその権威を有してはいないのです。唯、父の御神とその御独り子イエスさまのみがその権威を有しているのです。
父の御神が、罪に滅ぶほかない人間の救いのために、御独り子イエスさまを世人の罪を取り除く贖いの小羊としてこの世界にお遣わしになられたのです。すべての人はこの罪の滅びから救い出される道が開かれたのです。罪ある人間と御神との関係が回復されるために、十字架の出来事が起こされたのです。それら一切が、主の権威によって成し遂げられます。
私たちも又、すべての事象の中に、この神の権能を仰ぎ見るものでありたいと思います。
「王国を巡って」
さて、33節以降はピラトが直接イエスさまを尋問する場面であります。
ここには「王国」についての問答がなされています。
イエスさまは次のようにピラトにお答えになりました。
「わたしの国は、この世に属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」。
イエスさまはユダヤの王として民衆に大歓迎されながらエルサレムに入城されました。
しかしイエスさまの王国はローマの支配に対抗するような政治的・軍事的なものではありませんでした。もしそうであれば、イエスさまはピラトに答えたように、自分のもとに集まった天の軍勢を武装させて、ユダヤ奪回の軍事行動を起こされたかも知れません。
けれども主イエスが王として支配する国、主イエスの王国は、この世にその起源をもっていないのです。
これは私たちの生活全般に向けた考え方、又、エクレシアである教会のあり方についても常に心に留めておく必要があるでしょう。私たちの考えの根本、基がどこにあり、どこにおいていくことが大事かということを、このイエスさまとピラトの問答は明示します。
「真理とは何か」
ピラトはイエスさまの言葉に対して、「それでは、あなたはやはり王なのか」と尋ねます。
イエスさまはピラトの「あなたはやはり王なのか」の問いについては直接お答えにならず、ご自身「真理について証しするために生まれ、このために来た。真理に属する人は皆、わたしの声に聞く」と、仰せになります。
ヨハネの福音書1章にはこう記されています。
14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
17-18節「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない、父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。
私どもも又、この恵みと真理なる真の権威を持たれる主イエスに属し、いつもこの王なる主の声に聞き、信頼し、従うものでありたいものです。
さて、ピラトはイエスが無罪であることを認めていましたが、イエスさまに「真理とは何か」と聞き返して、答えがないまま今日の箇所が終わっています。
先ほどの1章17節の、イエス・キリストを通して「恵みと真理」は現れたの、「恵み」とは、神さまが価無き罪人、それどころか神に背を向け、逆らい続けるような者までも招こうとしてくださる救いの愛といえましょう。
「真理」は、ギリシャ語でアレセイア、ヘブライ語でエメトという原語です。それはアーメンと同じ原語で、まことにという、信じる、信という意味をもっております。
それは、神の聖なること、神の正しさ・義は決して変わることはなく、同時に天地万物の造り主である父なる神の慈愛といつくしみも又、世にある生きとし生ける者に対し決して変わることはありません。それゆえに、その神の決して変わることのない真理を、世にあるすべての人が信実な信仰をもって受けとるとき、救われるのです。
この神の救いの真理は、ユダヤの指導者たちが異邦人は汚れているから除外するといった偏狭的なものではありません。それは信仰による救いですから、異邦人であろうが、どんな罪人であろうが、立場であろうが、血筋であろうが、信じる人すべてに開かれた寛大な神の救いの真理であります。
ですからここでイエスさまは、ローマの総督ピラトに対しても、その救いが開かれていることを示されたのだと思います。
「真理とは何か」。それは私どもにとりまして、正に「この神の子イエス・キリストの十字架の贖いのみ業を信じ、み言葉に聞き従って生きる」。そのところに、神の真理が実現されるということであります。
「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」コリントⅡ12・8
今日の箇所を通して、私たちはもう一度、イエスさまのみ前に、聖霊によってみ心を示して戴きましょう。自分のうちに働いている様々な思いを吟味し、ここからまたそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。