礼拝宣教 使徒言行録16章16~34節
本日も先週に引き続き使徒言行録16章より「解放の賛歌と祈り」と題し、御言葉を聞いていきます。
この箇所はパウロの二回目の伝道旅行についての記事でありますが、先週触れましたようにこの伝道の旅を通して主の福音は小アジアを越え、マケドニア地方・ヨーロッパにまで伝えられることになります。
先週は、そのマケドニア州のフィリピで紫布を商うローマ人の婦人ルディアとその家族が救われる記事を読みました。その始まりは、ユダヤの会堂もない町外れの岸辺に集う祈りの場であったのです。ユダヤ教では聖書が語られ、それを学ぶのはもっぱら男性でありました。しかしそこには幾人かの女性たちが集まっていたのです。フィリピでは神を敬い求道するこのような女性たちから救いが起こり、その家族、地域の人々へと福音が拡まっていくのです。
今日のところでは、祈りの場に向おうとするパウロら一行を執拗に追いかけてくる占いの霊にとりつかれた女奴隷が現れます。彼女は「この人たちはいと高き神の僕でみなさんに、救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んでまわり、そういうことを幾日も繰り返すのです。ほとほとたまりかねたパウロは「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と、彼女にとりついている悪霊に命じ、追い出しました。彼女は自分を縛っていた占いの霊から解放されます。
ところが、この女奴隷の主人たちは、金もうけの望みがなくなったことを知り、パウロとシラスの2人を捕え、役人に引き渡すために広場に引き立てて行き、高官たちに引き渡すのです。他にもテモテやルカもいたはずですが、パウロとシラスがユダヤ人であったから捕えられたようです。当時マケドニア州全域もまたローマ帝国の支配のもとおかれていました。そのローマの植民都市であったフィリピはローマ帝国によるユダヤ人追放令が出されていたため、当時は反ユダヤという社会的な動きが起っていたのです。
女奴隷の主人たちが「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております」と、主人たちがローマ帝国の権力におもねていることからもそれがわかります。悪霊に取りつかれている女性を自分たちの金儲けの道具として利用し、むさぼっていることこそ問題なのですが。それがローマ人対ユダヤ人という対立の問題にすり替えているのです。それをローマの群衆も後押して「パウロとシラスの2人を責め立てた」というのです。
いつの時代もこうした世の力が働いて社会的な少数者、社会的弱者が差別や排除の対象とされていく現実があります。それは神との対話と関係性が損なわれたことによる人の罪が、そういった社会を生み出しているのだと思います。
真の生ける神を知らなかったローマの高官たちは、問題を起こしたのがそのユダヤ人たちであったということで、問答無用とばかりに裁判も開かず、2人の衣服をはぎ取り、何度も鞭を打ってから、牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じたとあります。ローマの鞭はユダヤの鞭とは違い、鞭の先に鋭利にとがった金具がつけられており、大けがをしたり、時に死に至らせることもあったそうです。パウロとシラスはイエスさまが打たれた同様の鞭で、その生身を何度も打たれたのです。さらにいちばん奥の牢に入れられ、木の足かせをはめられて身動きもとれません。酷い鞭打ちで身体中は赤く腫れあがり、どれほど痛く苦しかったことでしょう。
しかし、25節には「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」と記されています。
そのような絶体絶命ともいえるような苦しい状況であったにもかかわらず、2人はそこで賛美の歌をうたい、神に祈り続けていたというのです。そして彼らが牢の一番奥深いところからなおも神への賛歌と祈りを捧げ続けるとき、それが主に望をおく者の証となっていくのです。
他の「囚人たちはこれに聞き入っていた」とありますように、その賛歌と祈りは牢の中にいたすべての囚人たちの魂にしみ通っていきます。それはきっとこれまでの人生において知ることのなかった、神への畏敬の念と慰めをもたらしたのではないでしょうか。
パウロとシラスは確かに足かせをはめられ、身動きも取れず不自由な状態であったわけですが。しかしその魂は世の何ものにも支配されず、自由であったのです。
ローマの信徒への手紙8章35節以降でパウロはこう言っています。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(中略)しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどのような被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
この主なる神への愛と信頼の賛歌と祈りが、囚われの身である人たちの魂にしみ渡るのです。パウロとシラスは朗々とこぶしをきかせて歌っていたのではなかったと思います。
苦しさから息も絶え絶えに、時にうつろいながらであったでありましょう。けれどそれが囚人たちの胸に響いたのです。「そんな状況の中で神をたたえる。恨みつらみでなく喜びをもって主を賛美する」。そこに福音のもつ本物の力、神の栄光が顕わされていくのです。
ところが、そのような時、突然、激しい揺れと大音響を伴う大地震に揺さぶられます。
26節には、そこで3つの出来事が起こったと記されています。まず「牢の土台が揺れ動いた」。次に「牢の戸がみな開いた」。そして「すべての囚人の鎖も外れてしまった」。
まあ、こんな事は考えられないことです。ここにいたすべての囚人たちは「これは圧倒的な神の御業である」と、そう思わずにいれなかったのではないでしょうか。
そういう中で囚人たちの内に逃げ出す人は誰もいなかったのです。間違いなくパウロとシラスの賛歌と祈りが彼らにそうさせたのです。彼ら囚人たちは牢の外に出るという自由よりも、神への畏敬の念をもって罪を犯さない自由を選んだのです。それは彼らにとっての真の解放であったに違いありません。
さて、目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとします。彼は囚人を逃した刑罰で死刑になるのなら、自分でその責めを負って死のうとしたのです。
すると、パウロは大声で叫んで、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と、それを押し留めます。「看守は、明りをもって来させて牢の中に飛び込み」、囚人たちがみな逃げていなかったことを確かめると、「パウロとシラスの前に震えながらひれ伏す」のです。それまで看守の耳にも賛歌と祈りは届いていたのでしょうが、意に介することはなかったのです。しかし、まさに死を前にして、そのすべての出来事の中に神のお働きを見たとき、彼の中に神への畏れが生じるのですね。
そうして看守はパウロとシラスを牢の外に連れ出し、こう言うのです。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。
それは生ける神を知った彼が、神の裁きと滅びの人生から救われるために、私はどうすべきか、どう生きるべきか、との問いです。
それを受けてパウロとシラスは言います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」。これがパウロたちの答えでした。
パウロとシラスはこうして看守とその家族に、主の言葉、すなわち罪のゆるし、主の復活による新しい人生と永遠の命の約束を伝えます。まさに主の福音、喜びの訪れです。
この「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」との言葉は、1人が主を信じたらその家族までも救われるということで、よく知られ用いられる聖句でありますが。確かに1人が救われたことで、そのよき知らせが家族の中にもたらされることになりますけれども。それは家族の1人が救われたら、他の家族も自動的に救われるということではありません。よくこのところを読みますと、まず、「主イエスを信じなさい」ということが救いの大前提なのです。信じ救われた人が生活の場で伝えられた福音を聞いて、イエスを主と信じ受け容れる人のうちに救いが訪れるということです。
そこで2人は32節「看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った」。
ローマの信徒への手紙8章9-10節で、パウロは次のように言っています。
「口でイエスは主であると公に言い表わし、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたがたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表わして救われるのです」。
33-34節「まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐにバプテスマを受けた。おそらく家族の一人ひとりも又、主イエスを信じ、バプテスマを受けたのでしょうね。
この後、看守は「二人を自分の家に案内し食事を出し、神を信じるようになったことを家族ともども喜んだ」とあります。
先の、リディアも自分と家族がそれぞれに主イエスを信じて救われ、バプテスマを受けた後、パウロを敢えて家に引き留めました。看守も同じようにパウロとシラスを家に招待し、家族がそれぞれに主を信じるようになったことを証し、神をほめたたえる喜びの祝宴が催されるのですね。
ルカの記したこの使徒言行録、又ルカによる福音書には、神の家族、小さき主の群れに対する記載が多くあります。主を信じて救われたクリスチャンには、同じ志を持つキリストの群、神の家族と主の福音を共に喜び励まし合う交わり、コイノニアが必要であることを伝えているのです。
主にあって互いに祈り合い、救いの喜びを共にする関係性をして、主イエスは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)とおっしゃっているのです。
そのような主にある交わりは、神の家族、そして教会から、さらに世界中の主にある家族へと拡がっていきます。
先週はバプテスト連盟を通して私たちも長年その交わりに与ってきましたインドの旧プリこどもの家;現「プリ・キンダーガルテンスクール里親の会」の世話人会代表の松本さん経由で、モハンティ先生からの緊急の祈りのリクエストが届きした。
「町にサイクロンが接近しているのでぜひ守られるために主に祈ってください」。又「今インドの人々を襲っているコロナ変異種ウイルスの終息のために祈ってください」という祈りの要請でありました。すぐに教会のみなさんにメール等で配信させて頂きしたが。すると早速ある方から「ぜひ祈ります」という返信を頂きました。さらに何人かの方々からも「祈ります」との返信を頂き、心強く思い、感謝でした。先週は教会一致祈祷会を覚えて、教団教派を超えた関西の多くの主にある方々と「教会一致」の祈りを合わせることとなりまましたが。私たちの群れは小さいですが、様々なかたちで祈りの輪につながらせて頂いているということを体感させて頂いた思いです。
主は私たちの祈りと求めに耳を傾けて下さり、今も生きてお働きくださいます。
本日は困難な中でなお、生ける神に喜びと信頼をもって賛歌と祈りを捧げ続けるところに、生ける主が人の思いを超えた仕方で救いのみ業を起こし、お働きくださるとの御言葉を頂きました。今週もこの命のことばをもって、歩んでまいりましょう。