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2025年 元旦礼拝宣教

2025-01-02 14:52:17 | メッセージ
詩編84編1-8節 「いかに幸いな人」

主の年、2025年を迎えることができましたことを主に感謝いたします。
元旦に際し、詩編84編のみ言葉が与えられました。
詩編は旧約聖書の中でもとても存在感があり、150編にも及ぶ膨大な頁には神への賛美や感謝にあふれています。又、祈りや嘆願、悔い改めや信仰の告白などが収められ、見事に綴られています。
この84編には、「いかに幸いな人」とはどのような人かを、歌い伝えています。
1-3節「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」と歌われています。
「いかに幸いな人」。それは5節にも、「あなたの家。主の家に住むことができる人」「あなたを賛美する。主を賛美することができる人」です。
ここで言う「あなたの家」とは、主の家。つまり祭壇のある神殿のことでしょう。それは、私たちにとっては主の教会であり、この礼拝であるといえるでしょう。
昨年エレミヤ書を礼拝で読みましたが、ユダの民は神の言葉に背を向け、聞き従わなかったために、バビロンによって崩壊の一途を辿ります。神殿は崩壊し、多くの民は遠くバビロンの地に連れて行かれ、捕囚の生活を余儀なくされました。そうした苦くつらい異教の地での経験した民の思いを、今日の詩編から読み取ることができます。
かつて彼らはエルサレムの繁栄の中で礼拝を捧げ、当然のことのようにその恵みを享受していたのです。しかしそのあたりまえに思っていた日々の幸いは、ただ神の恵み以外の何ものでもなかったのです。それはある意味失ってみて、無くなってみて、初めてその尊さに気づのです。
今は荒れ果て、そこには鳥が住み家を作り、巣をかけて雛をおいているのだろう。翼があれば私も飛んでゆきたい。そんな思いが伝わってくるようです。
私たちは今こうして信教の自由が保証されている中で、元旦礼拝を教会に集い、あたりまえのように礼拝をすることができますが。けれど世界を見渡せばそうではありません。紛争や迫害が起こっているところでは、自由に礼拝できない方々の心はどれほどつらいことでしょう。私たちもコロナ禍においてその一端を味わいました。そこで礼拝に集まり再会できた時、言葉では言い表せない喜びと感謝があふれました。教会は建物というより、神の家族、祈りの家、生ける神との出会いの場であります。
私たちも、この詩編記者のように神の宮での礼拝を慕い求めているからこそ、主がこの2025年最初の日、元旦礼拝へと招き導いてくださったことでありましょう。

二つ目ですが。いかに幸いな人は、6節「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見いだしている人。」と詩人は歌っています。
アドラーという心理学者をご存じの方も多いかと思います。私もその講座を受講したことがありますが。彼は、人間の基本的欲求は「優越(権力)への欲求」であると主張したことは、よく知られています。人間は他人に負けたくない。できれば他人の上に立って優越感に浸り満たされたいという思いがあると言うのです。そういった本性をもつ私たち人間が、自分の非力を素直に認め、他に力の根源を持つことを考えることは、簡単にはできないことです。
しかし、詩編記者は、「その力が神にあること」を知るのです。力の源である神によって、「その心に広い道を見いだしている人」は、いかに幸いなことかと、詩人は歌っているのです。
私たちは弱く、もろい人間です。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」と聖書は呼びかけます。
しかし、それはただ虚無、あるいは悲観的に終るものではありません。
詩編103編17節以降に、「主の慈しみは世々とこしえに/主を畏れる人にあり/恵みの御業は子らの子に/主の契約を守る人/命令を心に留めて行う人に及ぶ。」と歌われています。その契約とは私どもにとりまして言うまでもなく、主イエス・キリストによる新しい救いの契約であります。やがて野の草のようにしぼんでいく以外ないような人の弱さの只中に、救いの大路が拓かれた。ここに確かな神の力、虚しさに終わらない命の輝きが与えられるのです。
私たちもこの詩編記者のように、主の力に信頼し、心に広い道を見いだすべく、今年のすべての日々、主を慕い求めて歩んでまいりましょう。
神にある力をのみ頼みとする人について、7-8節で「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」と歌われています。
自分の力は主なる神にあることを知って、心の中に広い大路を見いだすことができる人こそ、いかに幸いなるかを、経験することができるのです。
ここで言う、「嘆きの谷」とは、「泣く谷」という地名から来ているそうです。エルサレムへの巡礼者は必ずそこを通らなければならないわけですが、大変な難所とも言われています。いわば巡礼者泣かせの谷であったのです。
しかし、苦労して通りぬけるからこそ、エルサレムへの大路の喜びは更に一段とゆたかになったに違いないでしょう。
私たちの人生には避けて通れない涙の谷がいくつもあります。しかし、そのような嘆きの谷を通るときも、主なる神がそこを泉のわく所としてくださることを知るのです。後になってみれば、あの事があったからこそ、という気づきや。如何に自分を育もうとなさったか、その深い主の御計らいを知らされることがあります。

このような人は、8節「いよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」と歌われています。
力を増して進むみゆく人は、一つひとつの試みや困難を、恵み深い主なる神の力によって克服して行けるのです。その経験の度ごとに、神への感謝と信頼を強めてくれます。
そして、このような人は、「シオンにおいて、神にあいまみえるでしょう。」と歌われます。主なる神と顔と顔とを合わせる、言葉では言い表すことのできない祝福に与ることができる。大いなる希望であります。2025年をここから歩み出してまいりましょう。
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