
皆さま
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新しい年も、よろしくお願いいたします。
平安
歳晩礼拝宣教 マタイ2・13-23
2024年最後の主日礼拝を共に捧げております。
今年も、雨の日も風の日も、一度も礼拝、祈祷会が途切れることなく守られ、捧げられましたことを主に感謝します。主を慕い求める皆さまの信仰に共に励まされましたことをうれしく思います。
一方、今年は3人の方々が主のみ許に召されました。それぞれ長きに亘り、この地上にあって貴い信仰生活を歩み通され、主に祈り仕え続けて来られた方々でありました。地上の別れは寂しいですが、讃美歌「神ともにいまして・・・また会う日まで」の歌詞のように、主のみ許でまたお会いできる希望をもって、私どもも信仰の先達の歩みに倣う者でありたいと願います。
さて、先週は、救い主・御子イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマス礼拝とキャンドルサービスを喜びのうちに捧げることができ、ほんとうに感謝でした。
そのように、すべての人びとの希望、神の救いの到来を顕すクリスマスでありますが。今日の聖書個所を読みますと、世の力がそれに敵対して神の救いの御子を亡きものにしようとしていたことがわかります。
この新しい救いの王、メシアは本来、まずはもちろんユダヤの人々、エルサレムの住民、そしてヘロデ王の救いの喜びのためにお生まれになったのです。それにも拘わらずヘロデ王は自分の権力と地位を揺るがしかねないものと、恐れを抱きます。さらに、メシアを待ち望んでいたはずのエルサレムの住民も、なぜか同様の不安を抱くのです。
今の時代も不安定で様々な問題をはらんでいます。だれもが自分の生活を守ることで精いっぱいという現実がありますが。そこで、「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればみな添えて与えられる。」とおっしゃった主の御言葉の真理、その奇しきみ業が多くの方々にも伝えられ、分かち合われていくようになると、本当にすばらしいなあと思います。
話を戻しますが。占星術の学者たちからの報告を待っていたヘロデ王は、その学者たちが戻って来なかったことに大いに憤り、ベツレヘム一帯で生まれた二歳以下の男の子を一人残らず殺す命令を軍隊に下します。
一方、占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」と告げます。
すると、それを聞いたヨセフはその主の天使の言われたとおり起きて、幼子イエスとマリアを連れてヘロデ王の恐ろしい追っ手から逃れ、エジプトに身を寄せるのです。(週報表にその光景を描いたレンブラントの2つの聖画を載せていますが。)
しかしその時、ベツレヘム一帯において軍隊による幼児虐殺の惨劇は起こされました。
なぜ、この子たちは殺されなければならなかったのか。それはわかりません。しかしこれは神さまの御心に反する人の罪のなせる仕業であります。今も世界各地で起っている戦争や紛争の悲劇が後を絶えません。同様に子どもや弱い立場の人たちが巻き沿いに遭い、又、人間の盾にされて無残にも殺されています。
幼子イエスがエジプトから再びイスラエルに戻られた後、彼はこの幼児虐殺の惨劇を知って、ご自分の身代わりになったとも言える多くの幼子の死と、人の罪のおぞましさに心を痛められたことではないかと想像いたします。
さて、この聖家族はエジプトからイスラエルに再び帰って来る折も、また主の天使がヨセフに夢で現れて、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。」とのお告げがなされました。その時もヨセフは起きて、子供とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来るのであります。
身重のマリアを妻に迎え入れたヨセフの大きな決断に際しても、主の天使が現れなさるのです。
神はご意志をもって主の天使をお遣わしになり、彼らを守り導かれるのです。これは主の者とされて生きる人たちも同様です。世にあって困難や苦難はありますが、その折に主はたえず導いて下さるのです。問題は、主の呼びかけに聞き、目覚めるかどうかです。
主の天使は寝ているヨセフに「起きなさい。」と声をかけました。それは単に寝入っているから起きろと言われたのではなく、「今、神の御心に目覚めて歩みなさい。」ということです。
ヨセフだってそれは故郷に帰りたいと思いながらも、幼子虐殺の恐ろしい記憶は消えず、この先家族はどう生きていけばよいのかと思いめぐらすこともあったことでしょう。このままエジプトにいれば安全かとも思えるところです。しかし彼は主の呼びかけに目覚め、恐れや不安を主にゆだねて起きあがるのです。
その姿は、神の救いと恵みを拒み、敵意をむき出しにしたヘロデ王とは対照的です。
この「起きて。」という言葉。それは、イエスさまが「目を覚ましていなさい。」とお弟子たちにおっしゃった事と同じものです。それはまた、不安や恐れで心が揺れ動いている私たちに対しても、神さまは「起きよ」「目覚めよ」と呼びかけ、真に生きるべき道へ導こうとしておられるのです。大切なのは、主の呼びかけに心開いて応えるか 否かということであります。
以前にもお話しいたしましたが。スウェーデンの女流作家ラーゲルレーヴェという方が書いた『ともしび』という小説をご紹介します。この小説をもとに絵本が邦訳されています。この主人公は、神の与えられた自分の人生を真に見出すものとなった、そんなお話であります。 少し長いですが、おつきあいください。
昔、イタリアのフィレンツェに住んでいたラニエロは、勇ましく力も強く、喧嘩ぱやい い男で、彼はその勇気と豪傑ぶりとをいつもみんなに認められたがっていました。ところが、彼が人の気を引こうといろいろとやらかすので、町の人々は彼を乱暴で傲慢な男だと思っていたのです。「みんなに認められるためには兵士になって、戦で手柄を立てるのが一番だ。そして、いくさの戦利品をフィレンツェのマリアさまの前にささげれば みんなのうわさにのぼるだろう。」そう考えたラニエロは兵士となり、その名を国中にとどろかせます。その後彼は大きな手柄を立てたため、キリストのお墓の前に燃える尊いともしびを最初にろうそくに移すことをゆるされるのです。
「ラニエロ、いくらなんでもそのともしびをフィレンツェまでお届けするわけにはいくまいな」「ともしびは消えてしまうに違いないな」と言ってみな笑います。それを聞いたダニエロはむきになって、思わず「よし、このともしびを、おれさま一人でフィレンツェまで運んでみせるぞ」と宣言してしまいます。 あくる朝早く、ラニエロはマントの下に鉄のよろい、刀とこん棒を着け、馬にまたがってともしびを手にエルサレムを出発します。
「な-に、こんなことは簡単なこと。」と、たかをくくっていたラニエロでしたが。そうやすやすとはいきません。馬が足早になるとともしびは揺らめき、今にも消えそうになりマントでかばったり、後ろ向きに乗ってなんとかともしびを守ろうとします。山辺ではおいはぎに襲われ、取り囲まれて、ふだんなら簡単に腕力で追い散らすことが出来るのですが、そんなことしたら、ともしびが消えてしまうかもしれません。彼は無抵抗のまま身ぐるみ剥がれ、残されたのはおいはぎのひどいやせ馬と、ぼろぼろの着物、そして二束のろうそくだけです。なんとかともしびは無事だったということで旅を続けます。途中、エルサレムを目指す人のむれに出くわします。ともしびを手にみすぼらしい格好をしてうしろ向きでやせ馬に乗っているラニエロを見て、人々はあざ笑い、からかいます。ラニエロはさすがにかっとなって彼らになぐりかかろうとした時、気がつくと、ともしびが枯草に燃え移っています。ああ大変だ、慌てて火をろうそくにともし、また旅を続けます。ひとふきの風、ひとしずくの雨でも、ともしびは消えてしまうので、何とか消えないようにと、そればかりを願いながら、彼は思うのです。「こんなかよわいものを必死で守ろうとするなんて、生まれて初めてのことだ。」とうとう替えのろうそくがなくなってしまい、もうこれで終わりだと思ったその時でした。巡礼たちが岩山を登って来て、その中の年取った女の人をラニエロは助けて山の上まで登らせてあげます。するとその人はお礼に自分の持っていたろうそくをくれたので、ともしびは守られました。彼はそうやってともしびを大事に守って、旅を続けるうちに、いくさでの数々の手柄や名誉や戦利品など、もうどうでもよくなってきました。荒々しいいくさより、優しく和やかなものを喜ぶようになっていくのです。そしてとうとうフィレンツェに着き、その城門から入っていくと、町は大騒ぎになり、ラニエロはともしびが消されるのをふせぎ、高くかかげながらようやく祭壇の方へと進んでいきます。前のラニエロを知る人々は、「エルサレムからともしびを運んで来たなんてうそだ、証拠を見せろ。」と騒ぎ、ラニエロを取り囲みます。
その時です、急に一羽 の小鳥がまいこんできて、ともしびにぶつかり、火を消してしまうのです。ラニエロの目に涙がにじみます。ところがその時だれかが、「小鳥が燃えている、羽に火が燃えついたぞ。」と叫びます。小鳥はひらめく炎のように、聖堂の中を飛びまわり、遂に祭壇の前に落ちて、息が絶えるのですが。ラニエロはかけよって、小鳥の翼を燃やした残り火で、祭壇のとうそくに遂にあかりを灯すのであります。
私がこのお話を初めて聞いたのは40年前でした。ラニエロが新しい人に変えられていく過程がとても印象的で、それ以降このお話がずっと好きになり私の心のうちにも生きています。今の時代もそうですが。もっと強くならなければ、もっと頑張らなければ、乗り越えなければという思いで逆に押しつぶされそうになっている人がたくさんいると思うのです。また、世の力、社会のひずみによって弱い立場に立たされたまま切り捨てられる人も多くおられます。よく小さい命、かよわき命を脅かし蔑ろにするなら、その者もその社会全体も危ぶまれ。損われてしまうことになると云われますが。
あのヘロデ王によるジェノサイドが、クリスマスのキリスト誕生の喜びを奪おうとしたように、今日の時代においても暗く息苦しいような出来事が多々起こっています。しかし、希望のともし火を保ち続けたい、と願います。
礼拝の始めに、招詞としてマタイ25章40節の御言葉が読まれました。
「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さき者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
あの、荒々しさと主義主張の鎧を身にまとっていたラニエロが、今にも消えそうな小さなともし火をそっと包み守る中で、柔和で優しい心をもつ人に変えられていったように、そのような人たちで地が満ちますように祈ります。
最後に、本日の箇所は、ヨセフとマリアが小さくか弱き幼子イエスの命を守りぬいていったその旅路でありますが。けれどそれは、ヨセフもマリアも実は幼子イエスの存在に守られ、導かれながらの信仰の旅路であったのではないでしょうか。
あの「ともしび」の物語がそうであるように、生ける神さまはこの時代、私たちの日常の中に、共におられます。確かな希望のともし火を新たな年に向かって掲げてまいりましょう。
キャンドルライトサービス宣教 2024/12/24
メリークリスマス。神の御子、救イエス・キリストのご降誕を神に感謝いたします。
この時期は街並みがきらびやかなイルミネーションで彩られ、到るところでクリスマスムードいっぱいですが。あの通天閣もクリスマスカラーに着飾っています。この時間はてんしばでクリスマスイベントがにぎやかに行われています。それが何のお祝いなのか、たくさんの人に知っていただけたらと思います。そのてんしばの人が賑わう中、一つのブースにひっそりとキリスト降誕の光景が、羊飼い、博士たちと共に展示されてあるのを見つけ、うれしくなりました。この救いの喜びが聞こえて来るゴスペルの歌声を通して、知らされますように。そして今、諸教会でもたれているキリストのミサ、クリスマスが、全世界の救いと平和の祈りのメッセージとなりますように。
この時期は街並みがきらびやかなイルミネーションで彩られ、到るところでクリスマスムードいっぱいですが。あの通天閣もクリスマスカラーに着飾っています。この時間はてんしばでクリスマスイベントがにぎやかに行われています。それが何のお祝いなのか、たくさんの人に知っていただけたらと思います。そのてんしばの人が賑わう中、一つのブースにひっそりとキリスト降誕の光景が、羊飼い、博士たちと共に展示されてあるのを見つけ、うれしくなりました。この救いの喜びが聞こえて来るゴスペルの歌声を通して、知らされますように。そして今、諸教会でもたれているキリストのミサ、クリスマスが、全世界の救いと平和の祈りのメッセージとなりますように。
今日ここに招かれ、導かれた私たちは、このキャンドルサービスを通して、救い主に関する旧約聖書の預言、その預言の実現であります救い主、キリストご降誕の箇所を読み、救いの主を讃美しました。
イエス・キリストの誕生と救いが、ユダヤから始まって全世界にもたらされることが、歴史を導かれる主なる神さまによって予め計画され実現したのです。そして今日の時代においても、そのゴスペル、その良き知らせが、世界のいたるところにまで届き、神のみ救いの出来事があらゆる人たちに顕わされて、証しされ続けています。
この神の御子、キリストは「すべての人を照らすまことの光」としてこの世界に来られ、「肉(人)となって、わたしたちの間に宿られた。」これがクリスマスの大いなる恵みと喜びなのです。
さて、聖書には、救い主、イエスさまがお生まれになろうとしていた時、「宿屋には彼らの泊る場所がなかった。」とあります。
住民登録のためユダヤ以外の各地からエルサレムに上って来る人たちで町はごったがえし、どこの宿屋も満室でした。しかしこれは、単に宿泊所が不足しているという問題ではありません。神の救い、イエス・キリストが世に来てくださったというのに、お迎えする心が人びとになかった。そのことを表わしているのです。
住民登録のためユダヤ以外の各地からエルサレムに上って来る人たちで町はごったがえし、どこの宿屋も満室でした。しかしこれは、単に宿泊所が不足しているという問題ではありません。神の救い、イエス・キリストが世に来てくださったというのに、お迎えする心が人びとになかった。そのことを表わしているのです。
ヨハネ福音書にはクリスマスの降誕記事はありませんが、違った言い方でクリスマスのことを伝えています。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。・・・言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1章9-11節。14節)
この「言」とは神の御子、キリストのことです。神はこの世界を言によって創造されたことが、聖書の一番始めに記されていますが。神は、肉をとった、つまり人となられた神の言、イエス・キリストをとおして、この世界を全く新しいものとされたのです。
ここに、「言であるキリストのうちに命があり、その「命は人間を照らす光であった。」と聖書にあるとおりです。このキリストの到来により世界の歴史はBC.ADと分けられていますように、キリストによって歴史は更新されたともいえます。問題はその歴史に臨まれたキリストの良き知らせ、福音を受け取れるかどうかです。
先ほどのヨハネ福音書には、「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」また、言であるキリストのうちに命があり、その「命は人間を照らす光であった。」とあります。神の救いが訪れても受け取れなかった。それは人の心が閉ざされていたためでした。
夜明けに真っ暗な部屋のカーテンを開けますと、朝の光が射し込んで、部屋を明るくしてくれます。しかし、カーテンを閉ざしっぱなしならいつまでも暗闇のままです。そのように、心のカーテンを開けなければ、キリストの命の光を受けることも、私たちのうちに神の愛と希望、その喜びと平安が満ち溢れることもないのです。
さて、クリスマスの良き知らせが最初に届けられた羊飼たちについてですが、彼らは定住地をもたず、住む家もなく、昼も夜も羊を飼うことを生業としていました。そのため安息日を守ることもできなかったのです。でも、その心は神の救いを切望し、待ち望んでいた人たちであったのです。その羊飼いに神の救いがまず伝えられたのです。又、救い主に最初に尊い贈物を贈り、礼拝したのが、神の祝福とは無縁であると見なされていた異邦人、東方の学者たちでした。彼らは神から贈られる新しい王、キリストの誕生が異邦人にとっての希望、救いとなることを確信し、待ち望んでいたのですね。
この羊飼いや異邦人には、神の祝福や救いはわからないだろう、それを受けるはずもない。そう思われていた人たちでした。
しかし不思議な事に羊飼いも、異邦人の学者たちが、生まれたばかりの赤ん坊、又幼子がキリスト、救い主であると信じることができました。それは、彼らが自らの心の王座に真理であり命であられるお方を探し求め続けていたからではないでしょうか。
ある讃美歌の中に、「み栄えとみ座を去り、世に来られたみ子、宿るべき部屋もなく、祝う人もなし、住みたまえイエスよ、わたしの心に。」という歌詞があります。肉をとって家畜小屋で生まれ、人の心を知る神のみ子が現れた時、羊飼いや異邦人はそこに希望の光を仰ぎ、イエス・キリストを心の王座に迎えることができたのです。そこに真の居場所があったからです。
最後に、東方の学者たちは宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を神のみ子なるイエス・キリストに献げた。」とあります。彼らは救いの主、キリストに自分たちが祈り考えぬいた最もよいものを献げました。私たちも東方の学者たちのように、神の祝福と救いに与る喜びを表せる人生を歩んでいきたいですね。
祈ります。
天の神さま。今日こうして御子イエス・キリストの降誕を祝い、捧げるクリスマスキャンドルサービスをそれぞれ招き、導いてくださった方々と共に持つことができましたことを感謝します。私たちは立派な会堂で礼拝をお捧げしていますが。御子キリストは、家畜小屋においてお生れになられました。それは、イエスさまがすべての人の真の居場所となってくださるためでした。
どうか、この地上の隅々にまでクリスマスの良き知らせが届けられますように、私たちの思いをひとつにしてください。又、このクリスマスの礼拝に与ったお一人お一人、それぞれの祈りや願いをもってこの場へ招かれました。どうかあなたの力強いみ手がお一人おひとりに臨み、お導きください。
このクリスマスから私たちは新しく歩み出します。わたしたちも苦闘している人の隣人となることができますように。全世界の救い主・イエス・キリストのご降誕を心から感謝して祈りします。ア―メン。
*本日の席上献金は、「日本聖書協会点字聖書作製部」「止揚学園・重度障がい者施設」「関西いのちの電話」「難民・移民なかまのいのち協働基金」「ホームレス支援釜崎キリスト教協友会」の5箇所へ全額お献げします。自由献金ですので、ご理解を頂けましたらお献げください。
宣教 マタイ2章 9-12節
メリ―クリスマス、クリスマスおめでとうございます。全世界に与えられた希望の光、救い主イエス・キリストのご降誕を、こうして皆さまと迎えることができましたことを神に感謝します。
今年は大変暑い夏が続き、秋がとても短くて今日は例年通り寒い冬の日となっていますが。私にとって今年ほど早く感じた1年はありません。みなさんは如何でしたでしょう。どのような時にも主が共におられた恵みを感謝しながら、クリスマスの礼拝を捧げてまいりたいと思います。
マタイ福音書が先程読まれましたが。ユダヤの地から遠く離れていた東方の学者たちは、「ユダヤの新しい王」の誕生を告げる星のしるしを見て、遙々ユダヤのエルサレムの宮殿にやって来ました。しかし王に尋ねてもそこにはいません。それがベツレヘムであることを聞いた彼らはそこへ向かうと、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まる」のを見て、喜びにあふれます。そうして救い主としてお生れになられた幼子キリストを礼拝することになるのです。
何ともドラマチックで美しい情景が思い浮かびますが。私などは「星」と聞きますと、昭和世代なので「見上げてごらん、空の星よ」の歌詞を思い出しますが。特に冬の夜空を見上げますと星がとってもきれいに輝いて見えます。この星の数々の星は天地万物の創造主の御業であります。どんなに力をもつ地上の王や指導者でもその星1つも支配することは不可能です。この天も地もお創りになり、すべてを統治されている主なる神のもの、この星を通して示されたキリスト誕生のエピソードは決して偶然なのでなく、その神のご計画なのです。
さて、このマタイの福音書では、お生まれになったばかりのキリストと最初にお会いできたのは、東方の学者たちであったと伝えています。ヘロデ王やユダヤの住民ではなく、ユダヤから遠く国境を越えた東の国の人たち、それはユダヤ人たちにとって外国人、異邦人でした。彼らはユダヤの人たちからすれば神の救いから隔てられた人たちであったのです。けれども、その彼ら異邦人たちが救い主、キリスト誕生の証人となるのですね。神のご計画は人の目には不思議ですが、あとになってみればそれがどんなにすばらしいかがわかります。彼ら異邦人が神の救いの招きに与ったことは、この私たちにとっても確かな導きと救いに与っていることを確信させてくれるからです。
さてここに、彼らが「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。」とありますが。それは宮殿のような立派な建物でなく、庶民の家でした。そこには王座などありません。その幼子に権力をもつ王としての風貌もありません。ところがです。彼らがそこに入ると、「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。
普通に考えてみて、このような民家の幼子にこんな高価な宝物を贈ったりするでしょうか。
どうして彼らはそんなことができたのでしょか。「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」とへブル人への手紙にありますが。その幼子がユダヤの王となることを信じる信仰が、彼らに喜びを与え、礼拝とプレゼントをささげさせたのです。
そこに彼らの内に飢え渇きといえるほど切なる求があったからです。地位も財産も知識を持っていた彼らは自分の力では得ることのできない真理、そして真の平安と救いを探し求めていたのです。その彼らの求めに、神は応え招き導かれるのです。神の導きを知る彼らだからこそ、その幼子の内に神の希望、世の光を見出し、ひれ伏して、自分たちの最上の宝を献げることができたのです。
詩編8編には「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。人間は何ものでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」
都会の、夜も明るい中に住んでいると、空を見上げてもなかなか星を見つけることができませんが。時に天の川が見えるような満天の星を思い出し、人はだれもみな銀河のこの小さな青く美しい1つの星の住人だということを思うことがあるのではないでしょうか。そのすべての創り主なる神をほめたたえる。この身分も立場も、国も肌の色も違うような人たちが幼子キリストを真ん中においている光景は、何ともほのぼのと心温まるものでしょう。
自分の事どもに追われ、思い煩いに心がふさがれていた王やユダヤの住民たちは、せっかく与えられた神の恵みの時がわからなかった。それどころか邪魔だとするのです。神に背を向け身勝手な生き方は全く的外れなものでした。それを聖書は原語でハマルティア、罪だと言うのです。
ヘロデ王は自分の王位を守りたいがために、幼子キリストを殺そうとするのです。恐ろしいことです。でも、他人事(ひとごと)ではありません。私たちも的を外さないように神の愛に生きる、この東方の学者たちのように生涯求道の心で神を慕い求めていく者でありたいですね。
福音書の中でイエスさまは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない。」とおっしゃっていますが。この東方の学者たちはまさにそのような人たちでありました。天体学を通して真理を探し求めていた学者たちでしたが、その答えは知識や学問にではなく、まさに幼子キリストという天のしるしを通して、神の救いという真理を見出したのです。私共もそうした真理への渇きと幼子のような柔らかい感性をもち続けたいものです。
本日はクリスマスプレゼントというタイトルをつけました。
本日はクリスマスプレゼントというタイトルをつけました。
東方の学者たちは、新しい王に献げるものとして最もふさわしく、最上と思えるものを幼子キリストに献げました。黄金は、今でも変わらない高価な宝ですね。又、それは権威の象徴ともされます。乳香は、貴重な樹脂であり、礼拝の時にささげる香としてもちいられていたものです。没薬は、最高な香料の一種であり、又高価な薬でした。彼らがそれほどの貴重な宝を献げることができたのは、神の大いなる救いの恵みに対して、どんな宝にも代え難い価値を見出し、喜びに満ちあふれていたからです。それは確かに美しい話です。
しかし、みなさん。最初に最善のプレゼントを差し出されたのは、実は外でもない神なのです。ご自身計り難い痛みをもって御子イエス・キリストを世に、私たちにお与えくださったのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とヨハネ福音書3章16節にあるとおりです。
神はご自身の愛の顕れである救いの業、それは十字架の死と復活によって、愛と救い喜びを、新しい命をお与えくださったのです。この神の御子イエス・キリストによって、神の愛が私たちのもとに臨んだのです。これほどまでの愛のプレゼント。ここにクリスマスの本来の意味、本質があるのです。
終りに、幼子のイエスさまを拝した東方の学者たちは、「ヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった。」とあります。
当初来た道は、自分の国の使節団として政治がらみの使節団としてユダヤの王子の誕生を祝うためのものでありました。しかし本当に探し求めていたお方と出会った彼らは、ヘロデの王宮にもう向かわず、天と地を統治される生ける神に従う道を通って、自分たちの生活の場所へと帰っていくのです。それは彼らのこれからの人生が、世の習わしに頼み従う道ではなく、生ける神を主として拝み、その御言葉に聞き従っていく道であることを示しているのです。その人生の道を彼らは選び取っていったのです。
当初来た道は、自分の国の使節団として政治がらみの使節団としてユダヤの王子の誕生を祝うためのものでありました。しかし本当に探し求めていたお方と出会った彼らは、ヘロデの王宮にもう向かわず、天と地を統治される生ける神に従う道を通って、自分たちの生活の場所へと帰っていくのです。それは彼らのこれからの人生が、世の習わしに頼み従う道ではなく、生ける神を主として拝み、その御言葉に聞き従っていく道であることを示しているのです。その人生の道を彼らは選び取っていったのです。
私たちの前にも2つの道があります。今日はどこの道を行くか。主の導きがありますように。
もう1つ、「クリスマス」はキリストのミサ。「キリストの祝祭」という意味ですが。ミサには「派遣」という意味があります。キリストは御父より派遣され、世界のあらゆる国、民族を越えた救い主としておいでくださいました。そして、この喜びの知らせ、福音を聞いて受け取った者も、それぞれ主から派遣され用いられるのです。
今年は私たちの教会の礼拝や祈祷会に、延べ13カ国の方々が集われ共に主を礼拝することができました。そうした中で様々な国々の若者たちによる、「はこぶねかふぇ」クラスができました。聖書の伝承によれば、ノアの箱舟に乗り込んだノアの子どもたちから様々な人種・民族が生まれたということですが。このネーミングを決めるとき、そこに集まっていた若者たちが国の違い、言語の違い、文化の違い、いろんな人が集えるようになればいいなあという思いから、「はこぶねかふぇ」に決めたのです。国も言語も文化も、様々な違いを越えたキリストにあるこのつながりを感謝します。
今年は私たちの教会の礼拝や祈祷会に、延べ13カ国の方々が集われ共に主を礼拝することができました。そうした中で様々な国々の若者たちによる、「はこぶねかふぇ」クラスができました。聖書の伝承によれば、ノアの箱舟に乗り込んだノアの子どもたちから様々な人種・民族が生まれたということですが。このネーミングを決めるとき、そこに集まっていた若者たちが国の違い、言語の違い、文化の違い、いろんな人が集えるようになればいいなあという思いから、「はこぶねかふぇ」に決めたのです。国も言語も文化も、様々な違いを越えたキリストにあるこのつながりを感謝します。
クリスマスのこの時、キリストを通してもたらされた救いの喜びを共に賛美しつつ、全世界に与えられた福音の喜び、良き訪れがさらに分かち合われていくために派遣されてまいりましょう。
MerryChristmas!
礼拝宣教 マタイ2章1—8節 アドベントⅢ
羊飼いたちは、帰ってきました。博士たちは、帰ってきました。
彼らが帰って来たのは、どんな「ところ」だろう?
羊飼いたちがいた「ところ」博士たちが帰った「ところ」、
聖書の言葉はどちらも同じ。それらは、どんな「ところ」だったのか、
どちらもそこには、夜の風景がありました。
夜・・・、あなたの夜は、どんな夜ですか?そして、あなたの今は、夜ですか?
羊飼いたちが、主の栄光に照らされ、博士たちが、星を見た、それは夜のこと。
羊飼いたちは帰ります、その「ところ」、そこで、今日という日々が始ります。
私たちも、いつもの「ところ」に帰ります。そこはまた、夜が訪れます。
でもそれは、昨日とは違う夜なのです。光の訪れを待ち望む夜、そして、
ここに、その光!(一枚の届いたクリスマスカードより)
「お帰りなさい。」アドヴェント最終週となりました。いよいよ来週は主のご降誕をお祝いするクリスマス礼拝を迎えます。ご家族、また友人知人にもこの良き知らせを伝え、分かち合えると幸です。共に祈り備えてまいりましょう。
本日は、東方の占星術の学者たちの記事より、み言葉を聞いていきます。
彼らはユダヤのエルサレムに全世界の王なる主を探し求めて旅し、遂に神の御子キリストのもとに導かれていくのです。学者たちはベツレヘムでお生まれになったユダヤの王のしるしと思われる不思議な星を見て、ヘロデ王のもとを訪ねます。
この東方の学者は「マギ」とも言われていました。口語訳や新改訳では「博士」と訳されておりますが。それは当時のペルシャで広く知られた天文研究者や自然科学者を指していたようです。彼らは東方から来たとありますが、それはバビロンやペルシャという国の方角です。その地はかつてユダヤの人々が長い間捕囚の寄留民として暮らし、多くの人がそこに移住しました。そう考えますと彼らのルーツはユダヤ人や混血の人かもしれません。あるいは彼らの先祖を通して預言者エレミヤが語った王なるメシアの預言を知るようになった可能性も十分あります。その彼らが特別に輝く星を見つけ、「これは伝え聞いてきた王なるメシア、救い主がお生れになったしるしに違いない。」と確信し、贈り物まで用意して遠く危険な道のりをやって来るのです。いや、すごい信仰だなと思いますが。彼らは夜空の満天の星を見上げる時、天と星をお創りなった主なる神の存在を思い、畏れ敬う確かな信仰が与えられていたのではないかと想像いたします。その神の御子がついに地上に王として来られる。彼らは胸をときめかせながら、遙々エルサレムのヘロデ王の宮廷を訪れるのです。そうして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねるのであります。
主イエスは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。まさに、この東方の学者たちは、神の救いの御子を礼拝したいという一途な心でエルサレムのヘロデ王の王宮を訪ねるのです。
今日もそれぞれに、主を礼拝するために対面・オンライン如何を問わずお一人おひとりが誰に強いられたわけでもなく、自ら進んでこの礼拝に集っておられます。遠方で1時間いやそれ以上の時間をかけて来られている方、歩くのが大変であるにも拘わらず来られている方、遠回りをして乗り合わせて送迎してくださる方もいらっしゃいます。先週は心臓のカテーテルの手術後間もない方が本当に喜びと感謝いっぱいの思いをもって礼拝に集われていましたね。素晴らしい笑顔でした。
もう15年も前になりますが、ある方が大阪教会のブログに寄せて下さった文章が目に留まりました。
「先日、教会のクリスマス・ツリーの飾り付けをしていたとき10月11日に入信したばかりの9歳のT君も一緒に手伝ってくれた。そのうちに彼は大きな星を見つけて『これどこにつけるの?』と聞いてきたので、その星の由来を説明した。東方の博士たちを導いた星のことを!すると、彼は『僕が飾りたい!その木のてっぺんに飾りたい!』小さい彼にはとても無理な話であった。人の助けが必要であることは勿論である。『ぼくが』という強い意志が彼を動かした。彼を抱っこしても届かない。ツリーは階段近くにあったので、階段の間から手を伸ばす方法を彼は思いついた。その木の先端に手が届く方向へ下にいる者が曲げてやると、苦心の末ついに届いた。見事にその星は定位置に収まったのである。T君の顔は『やった!』という満足感でみなぎっていた。多くの方々の祈りに導かれ、でっかい星を『ぼく』」飾りたいのだと小躍りしたことが遂に実現につながった。背丈が問題ではなかったのだ。T君の意欲が周辺にいる人たちを巻き込んだ。その星が他の飾りに先駆けてあるべき位置に就いたとき、彼のよろこびようは尋常ではなかった。彼は信徒になってはじめてのクリスマスを迎える準備に大役を果たしたのです。じっとしてはおれなかったあの異国の博士たちは遠く山河をこえてエルサレムにやってきた。途上けわしい道もあったであろうが東方でその方の星を見た彼らを導かないはずはないと固く信じてひたすら進んできたと思う。博士たちの努力や熱心が、救い主を見つけたのではない。救い主の誕生と、そのしるしが彼らを動かしたのだ。信仰者があらゆる努力をして救い主を造り出すのではなく、救い主はすでに生まれているのです!」(Y)
ほのぼのとしたエピソードでありますが。その彼も救いの主、キリストを迎え入れてから青年になり今年で16回目のクリスマスを迎えます。
そうですね。この方のおっしゃる通り、東方の博士たちの努力や熱心が救い主を見つけたのではなく、救い主の誕生と、そのしるしか博士たちを動かしたのですね。信仰者があらゆる努力をして救い主を作り出すのではなく、救い主はすでに生まれているのです。この素晴らしい恵みに与るばかりの私たちであります。
さて、東方の学者たちの「ユダヤの王がお生まれになった。その方を拝みに来た」という言葉を聞いた、3節「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられています。
これは救い主・キリストの誕生が、ユダヤの王ヘロデやエルサレムの人々には決して喜ばしものではなかった事、祝われるような出来事ではなかった事を物語っています。
そこには神の民としての畏れや渇きはありません。権力を掌握していたヘロデ王にとって、自分に取って代わるような新しい王が誕生するという知らせは、自分の地位や権力を揺るがしかねない都合の悪いものであったのです。エルサレムの住民もまた、自分たちの生活が守られるならよいが、それを揺るがすようなことは不安の材料にほかならなかったのです。
自分のライフスタイルや生活を守ろうとする中で、真正面からみ言葉を聞けない時、祈れない時があるかもしれません。先週の礼拝では、ヨセフが主の天使から「婚約者マリアの胎の子は聖霊によって宿った。」とのお告げを受ける箇所を読みましたが。
事の次第を聞かされたヨセフに驚きと「恐れ」が生じ、彼は非常に戸惑いました。けれどもヨセフはヘロデ王やエルサレムの人々のようにただ「不安を抱く」のではなく、主のみ言葉に目を覚まされ、主に聞き従う歩みへと方向転換されていくのですね。また、ルカの福音書を読みますと、時を同じくして登場する羊飼いたちは、ヘロデ王のように地位や権力もなく、又エルサレムの住民のように安定した暮らしもありませんでした。彼らは自分を守るものを一切所有していない人たちであったのです。一日一日羊を飼う者として生きていた素朴な人たちであり、自然の中で神に祈らずにはいられない人たちでした。にぎやかな街の華やかさから置き去りにされ、町の人たちから疎外されていたその羊飼いたちに、真っ先にあの天使のみ告げ、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という喜びの知らせが届けられたのです。主は、どんな人が最もこの良き知らせを聞いて喜ぶかを知っておられたのです。彼ら羊飼いたちは大変恐れおののくのですが。その恐れは、ヘロデ王やエルサレムの住民たちが抱いた「不安」とは全く違ったものでした。彼らは「自分たちのもとに救い主がお生れくださったという知らせが届くとは、一体どういうことか」という驚きとともに、神さまは私たちを忘れることなく覚えていてくださる」という、偉大な神の愛に心震えたのです。この羊飼いのように素朴で柔らかな心で福音、良き知らせを受け取れる、そんな歩みを続けていきたいものです。
さて、本日の箇所でもう一つ注目したいのは、救い主の誕生をはじめに知り、拝むために探していたのが、ユダヤの人々でなく、ユダヤ以外の異邦の地に住む人々であった、ということです。
それは神の祝福から隔てられていた人びとです。
このマタイの福音書は神の民であるユダヤ人に向けて書かれているのですが。救い主がお生まれになって最初の知らせが届いて、それを大いに喜んで受け取っていったが、何と異邦人たちであったことを記しているのです。キリストによる神の救いはエルサレムから始められ、全世界にもたらされることはイザヤ、エレミヤ、ミカといった預言者たちが語って来た、神のご計画でありました。
世界の王、メシアの誕生について語り継がれた預言は東方の学者たちから始まって今日の私たちキリスト教会にもたらされているのです。
今日の礼拝招詞として申命記4章のみ言葉が読まれました。「しかし、あなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたの神に出会うであろう。」と記されています。
神が主体としてお働きくださるその救いの出来事を一途に求めて、あのキリストを探し当てた東の国の学者たちのように、それは私たちにも語りかけられている生きたみ言葉なのであります。
最後に、ヘロデ王はメシアが生まれる場所についてユダヤの祭司長や律法学者たちに調べさせると、「ベツレヘムです」と答えます。
まあこれは、当時のユダヤでは一般的な理解でした。しかし、肝心なその「時」については何も知らなかったのです。救い主、キリストと出会う上で決定的なことはこの「時」ギリシャ語で「カイロス」ということであります。ギリシャ語にはもう一つ「クロノス」という時を指す言葉があります。こちらは日常的な時間のことです。一方、「カイロス」とは神の時を指しているのです。それは神の宣教の時、神の伝道の時、神の救いの時、神の恵みの時ということです。それは時間的な基軸ではなく、主なる神さまの支配、神の国が歴史の只中に差し込んでくる時であります。
そのカイロス、神の時はいつなのか、それがわからなければ、そのすばらしさを体験することはできません。また、それがどれほど価値あることか知らなければ自分の事とはならないのです。ヘロデ王やエルサレムの住民はせっかく救い主が来られたのに、その時をわきまえ知ることができなかったのです。それは今を生きる私たちにとっても重要な教訓ではないでしょうか。
神の呼びかけ、神のご計画と導き、救いと祝福の出来事が今起こっていることに気づけるか。神の時のしるしを見分け、探し求めながら生きているかどうかにかかっています。
主イエスは、「いつも目を覚まして祈っていなさい」と言われました。神の救い、キリストを探し求めているなら、あの異邦人の学者たちのように、その時、その価値を知らせてくださる神のしるし、聖霊のお働きに導かれ、探し当てることができるでしょう。神はすでに用意して下さっています。
祈りましょう。
愛と恵みの神さま、全世界の人々のためにあなたが救い主イエス・キリストを贈ってくださったクリスマスを前に、今日は東方の星の学者たちの行動から、み言葉を聞きました。私たちは今日こうしてあなたに礼拝を捧げることができます幸いを感謝します。闇のような中にあっても、あなたの救いの星は変わることなく世界中を照らし続けています。神さまその救いの星は私たちがどこにいようとも、どのような折も、曇りであっても、雨が降っても、変わることなく輝き、照らし続けてくださっていることをみ言葉から今日知ることができました。今、クリスマスシーズンの華やぎの中で戦争、気候の変動に伴う食糧問題、疫病や様々な災害があります。あなたは、世界のこの状況を誰よりも知っておられるお方です。主よ、私たちが時を見分け、キリストを見出し、主のみ言葉に聞き従って、あなたの慈愛に生きることができるように導き、助けてください。また、世界にもたらして下さるこの驚くべき救いの喜びと希望を一人でも多くの方に知っていただけますよう、先に福音に与り、生かされている私たちを用いてください。
救いの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。
礼拝宣教 マタイ1章18節-25節
本日も救いの主、復活の主に導かれてアドベントⅡの礼拝を共に捧げております。
アドベントは日本語で待降節です。待ち望んだ救いの主が、遂にお生まれになるという天使の喜びの知らせに始まり、降誕・クリスマスに備えて祈りつつ、歩む時であります。
全世界に与えられた救いの福音は、先ほど読まれましたように聖霊により身ごもったマリアを、ヨセフが天使いのお告げのとおり、「恐れず妻マリアとして迎え入れる」ことによって訪れるのであります。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来たのです。神がお与えくださる救いの主、イエス・キリストを迎え入れる。ここにすばらしい喜びと平安・平和のクリスマスがあるのです。
今日は、マタイ1章18節~25節より御言葉に聞いていきます。
この主イエスの誕生の予告についてのお話はルカ福音書ではマリアへの受胎告知として記されております。マタイとルカに共通していること、又異なる点を読み取っていくことは意義あることです。マタイの福音書に特徴的なのは、22節において「主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」と記されている点です。それはこれまで旧約聖書のエレミヤ書を読んできましたように、ユダの民は捕囚からの帰還と神殿再建を果たしユダヤ人の信仰復興がなされていきますが。その後も、周辺の大国による侵攻、さらに最も厳しい迫害と苦難の時代が訪れるのです。それは旧約聖書外典のマカベヤ記等からも読み取ることができます。その厳しい状況下、かつて預言者たちが語った、「救い主(メシア)の到来の予告」が人々の生きる望みでありました。
マタイによる福音書には歴史の主が、ユダヤの民の苦難を共に担い、導かれたという視点があります。ルカによる福音書ではマリアが、マタイ福音書ではヨセフが「聖霊」のお働きによって導かれ、やがて同じ聖霊によって主の福音が全世界に拡がってゆくのです。この偉大な神のご計画を覚えながら、今日の御言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて、ヨセフとマリアは婚約していました。当時の婚約は、結婚と同じ法的効力をもっていたようです。この当時のユダヤ社会では、たいてい女性は12、13歳で婚約をしていたそうですが。マリアが10代前半であったことはほぼ間違いないようですが、ことヨセフに関していえば諸々の説があり、かなり年齢が高かったといわれています。
又、婚約期間はだいたい1年で、その期間を経てから、夫となる人が妻となる人を自分の家に迎えて同居を始める。これが当時ユダヤ式の結婚であったようです。このヨセフとマリアの二人はその婚約期間中であったのです。
ところが、ヨセフは婚約者のマリアが一緒に暮らす前に妊娠したことを知ります。
自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、ヨセフをどんなに失望させ苦悩させたことであったでしょう。
又、彼は神を畏れ敬う人であり、神の律法規定に正しく従う人でしたから、不貞を働いたかも知れぬ女性を迎え入れることなど出来ないと考えたことでしょう。更には、このことが公になれば、彼女はさらしものとなり、裁かれ、最期は石打の刑で母子ともにその命が絶たれる悲劇となりかねない。そんな心配までヨセフの頭をかけめぐっていたのではないでしょうか。それはもう混乱と恐れが入り混じった感情であったのではないかと想像します。
裏切られたことへの苦しさ。又、神と律法に正しくあろうとする思い。そして、自分の良心として何とかマリアと生まれてくる子を守りたいという板挟みの中で悩み考え抜いた末に、彼は良心に正しくあろうと、マリアと密かに縁を切る決心をするのです。
さて、ヨセフがそのように考えていると、主の天使が夢に現れてこう告げます。
聖書の中には「夢」についての記述が多くあります。旧約聖書ではヤコブが夢で天の梯を上り下りする天使を見て力づけられます。ヤコブのその11番目の息子ヨセフも夢を見て、その夢を説いて神さまのご計画が明らかにされ、実現していきますが。このヨセフも夢の中に天使が現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げられるのです。
神の御心は実に明快です。主の使いがヨセフに告げたのは「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。」ということです。箴言19章21節口語訳では「人の心には多くの計らいがある。しかし、主の御旨のみが実現する。」とあります。
ヨセフは律法に基づいて正しさに生きるか。あるいはマリアと子を助けるべきか。迷います。しかしどれを選んだとしても人の計らいは不完全なのであります。心配や後悔がつきまといます。人間ヨセフの正しさの限界がありました。そういう中でヨセフは主の御声に聴き従いました。そこに迷いはありませんでした。私たちは何を規範に歩むべき道を決めるでしょう。主なる神さまは常に生ける御言葉をもって、私たちを導こうとされています。私たちに平安と希望、生きる力と確かさを与えてくれるのです。
さて、ここで注目したいのは、主の使いがヨセフに、「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った。」と伝えたことです。ルカ福音書のマリアへの受胎告知の折りは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1章35節)と天使ガブリエルが伝えています。
このように、マリア、そしてヨセフの身に起こっている出来事は、すべて神のご計画とその御旨に基づき、聖霊によって起されたことなのです。
それは二人にとって、それぞれ自分の思い描いていた歩みとは異なるものであったのです。いろいろな困難や葛藤が起こってくる。しかし、聖書は聖霊に導かれて歩み出すとき、「神の義(ただ)しさ」が明らかになり、確かな人生が切り拓かれ生きて行くことができるのです。
私たちも、聖霊が私たち自身の願望とは異なるかたちで導かれることがあるかも知れません。時にそれは困難な道、茨の道かも知れません。けれどもそれが神の備えてくださる道であるなら、聖霊は常に導かれ、その確かさにある歩みをなすことができるのです。それが「インマヌエル」、神が共におられるという体験です。
ヨセフに話を戻しますが。
誰にも相談できずその苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。どんなに彼は孤独だったでしょう。けれども、そのような孤独なヨセフに主は天の使いを遣わして、すべては主の御手のうちにあることを示されました。自分ではどうすることもできないような現実、理解に苦しむような重荷は、自分の肩にすべてかかっているのではなく、主の大きなご計画の中でなされた出来事なのです。
ヨセフは、自分には神さまが共におられる。これから自分たちが負うことになっていく道には神さまが共におられる。そうした信仰の確信へと導かれていくのです。
24節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れます。」
信仰の確信により彼は新たな日を歩みだします。それは人の力ではありません。まさしく聖霊の力によって、彼は一切を主に明け渡し、新たな道をマリアと共に主の招きに応えて歩み出すのです。
私たちそれぞれも、日常の中で人としての弱さや無力さを感じたり、苦しみ悩み、葛藤することがあるでしょう。
ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフと同様、私たちもいろんな困難を覚える状況になった時、自分が正しいと思える考え方で解決しようとするのではないでしょうか。人間的な心遣いや配慮も大事ですが、それを優先するあまり、的が外れた方向へ向かうかもしれません。神さまだけが正解を知っておられ、最善を導き、万事を益とすることがお出来になるのです。世の習わしや模範的な回答でなく、すべての真理の源であられる主の御心がどこにあるのかを謙虚に御言葉から聴き取ってゆく、その姿勢が大切でしょう。それが信仰であります。
ローマ12章2節には、「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」とあるとおりです。
神の御心に聞き従うとき、私たちの人生の道はまっすぐにされゆきます。まあそうは申しましても、私たちにはそれがなかなか分からない、だからこそヨセフのように苦悩するわけです。そういうもう人の側では何が正しいことなのか、どう生きていけばいいのか分からない、そういう時こそ、ヨセフを信仰に立たした聖霊の力、御霊の導きを求めていきましょう。
「わたしを呼び求めよ。そうしれば、わたしはあなたに答える。」先月エレミヤ書で、主が私たちに語られました。ヨセフはその聖霊のお導きに従ってマリアとその子を迎え入れる新たな一歩を踏み出しました。
ルカ福音書11章13節には、主イエスが「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」とおっしゃっています。さらに、使徒パウロは苦難の時は、ローマ8章26節に「同様に霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどの祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と記しています。
主によって私たちはこんなにも大きな励ましを頂いているのです。ヨセフとマリアのように私たちも恐れず主を迎え入れましょう。聖霊の確かなお働きに導かれつつ、インマヌエル、「主がわたしたちと共におられる。」命の道を歩んでまいりましょう。