
礼拝宣教 マタイ章16節13-24節
寒い日が続き、天王寺の街にも1日中何がしかのサイレンが鳴り響いています。先月も少しだけ報告しましたが。阪神淡路大震災から30年となる「1.17祈念礼拝」の報告を、宣教やリレーメッセージを語られた方々の言葉を収録したものからおこして作成しました。そのメッセージの一人で震災当時神戸教会の加藤牧師の言葉が改めて心に響きました。
加藤牧師は、「震災直後の1月22日の礼拝で、冷え冷えとした神戸教会礼拝堂で街中に響くサイレントとヘリコプターの音を聞きながらここで礼拝を捧げた時のことが忘れられない。サイレンは助けを求める音、あるいは助けに何とか応えようとする音。そのサイレンに耳を塞いでは聖書を開けない。サイレンを聞きながら聖書を開く、そして神さまが何を語りかけておられるのかを聞け、それが礼拝なんだ。私の教会の周りにもいろんなカタチでのサイレンが響いている。助けを求める音。その助けに何とか応えようとする音。そういうサイレンを聞きながら私たちは聖書を開き、それぞれの教会で礼拝を捧げるように招かれているのではないでしょうか。」と語られました。
この時代の中で私たちはどう神の言葉と招きに応えて生きるのか。今日も聖書を開いてまいりましょう。
さて、本日の聖書箇所は、イエスさまと弟子たち一行がフィリポ・カイザリア地方を訪れた時のエピソードです。かの地はローマ皇帝が崇められ、ギリシャ神話やバアルの偶像であふれ、人々の礼拝の対象となっていました。
そこでイエスさまは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか?」とご自身についてお尋ねになります。それに対して弟子たちは口々に、「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人たちがいると答えます。それは人々が様々な奇跡の業を行ったイエスさまを旧約の預言者たちと重ねて見ていたということです。
しかし、イエスさまを預言者の一人だと言う者はいても、メシア・救い主であると口にする人はいませんでした。なぜなら民衆が待望していたメシア・救世主とは、政治的に抑圧から解放してくれる権力をもった勇ましい王、そのような指導者だったからです。
するとイエスさまは弟子たちにお尋ねになります。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」それは人や世間がどう思うかではなく、あなたにとって「わたしはどういう存在か。」という個人的な問いかけでした。
この日本には多くの人が多神教の信仰観を持ち、木や石、金銀財宝、AIまでも進化してゆく社会ということができます。芸能人のことをアイドルと呼ぶことがありますが。アイドルは偶像という意味ですから、それも人が作りあげた崇拝の対象としている事を現わしているのでしょう。
しかし、そうした社会の中でもキリスト教や聖書に関心を持たれる方は意外と多いのです。たとばミッションスクールで聖書の教えに触れ、本やテレビ、映画やネットで知る機会があります。又、クリスチャンの生きる証が世界や社会に影響を与えることもあります。聖書が世界のベストセラーであるのは、世界中の人がそこに人間にとって欠かすことのできない何か大切なものがあることを感じ、それを求めようとされているからだと思います。しかし、ただイエスという人物について学び、知ることと、イエスと個人的に出会うこととは違います。
話を戻しますが、イエスさまが「あなたはわたしを何ものだと言うのか」という問いかけに対してシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。このペトロは、やがて救いを実現するメシアが民の中から生まれると、旧約の預言者たちが語ったように、「あなたはメシア・救い主であり、生きておられる神の御子であられます」と言い表わしたのです。
それをお聞きになったイエスさまはペトロに、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」と祝福なさいます。それは素晴らしく、的を射た答えであったのです。けれどもイエスさまは、「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われます。つまりペトロがこのように主告白できたのは、彼の理解力や知性によるのではなく、天の父なる神が、「イエスこそ、生ける神の子・キリストである」という奥義、その覆い隠されていた事を明らかに示された(啓示された)ということです。こうしてペトロは史上初めて「イエスこそ生ける神の子キリストである」との信仰告白をなしたのです。
ペトロはまだイエスさまが実際どのような形でメシアとしての御業を成し遂げられるのか、それを知るよしもありませんでした。この時のペトロにとってのメシア像も又、ユダヤの民をあらゆる抑圧から解放する世の権力的存在への期待として強く持っていたのです。ですから彼はイエスさまがご自身の受難とその死について語り始めた時、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスさまを自分の方に引きよせて、いさめ始めたのです。ペトロにとってもユダヤの民にとってもそれは決してあってはならないことであり、自分たちの描く理想的社会の実現を否定するものであったのです。
イエスさまは振り向いてそのペテロに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず。人間のことを思っている」と言い放ちます。それはペトロにとってどれ程衝撃的な事であったでしょう。
ペトロといえば確かにイエスさまの愛弟子であり、又筆頭格の弟子でありました。けれどもその彼のあゆみを福音書から辿ってみますと、彼の弱さや優柔不断さ、失敗や挫折が赤裸々に容赦なく聖書に記録されています。それは後の人たち、私たちにしてみれば教訓であり、気づくと励ましであるわけですが。そのようなペトロを主イエスは時に厳しくも深い愛で、主の救いの福音を証しし、伝える存在へと育くまれるのです。
後にイエスさまが捕らえられた時、ペトロは「そんな人は知らない」と3度も否みます。イエスさまの十字架を前にしてペトロはほんとうに自分の無力さ、優柔不断さ、弱さを痛感しました。けれどもイエスさまは、彼が立ち直ったら他の弟子たちを力づけ福音のために力強く働く者となるようにと望み、信じ、とりなし祈られていたのです。そうして復活された主イエスは、このペトロを責めるのではなく、「わたしの羊を飼いなさい」と、キリストの使徒の働きへと招かれました。
ペトロはこの時になって初めて、神のご計画による救い、イエスさまがメシアとして来られた本当の意義、その神の奥義を知ることになるのです。彼はその主の招きに応え、主の御言葉どおり信徒らを導き、その群を養う者とされていくのであります。このペトロの新しいあゆみは、まさに主イエスの十字架上のゆるしと執り成しによる愛に支えられたものでありました。イエスさまは実にそのようなゆるしと執り成しと、自らを捧げる愛によって神の救いをもたらされたのであります。それこそが、私たちの救い主(メシア):キリストのお姿なのであります。
本日の箇所はペトロの信仰告白だけであればハッピーのようですが、実はその後のイエスの受難予告をそのペトロが見事に否定して、イエスに厳しく咎められる記事と一緒に読んでこそ、聖書が語るメッセージの深みを読み取ることができます。
さて今日の個所に戻りますが。イエスさまはペトロに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。「ペトロ」はイエスさまから「ケパ」とも言われていました。それは岩という意味です。けれどもペトロは先程申しましたように、メシアがどのような形で父の神の救いを成就されるのか分かりませんでしたから、イエスさまの受難告知に躓いたのです。
そう考えますと、ペトロの信仰はペトロが立派な者であったからではなく、彼はむしろ不完全なものであったと言えるでしょう。口でいくら立派な主告白をしても、人の思いが優先し神さまの御心を受けとめられない的外れな過ちを繰り返すようなペトロ、弟子たち。時にその延長線に私たちもいるのではないでしょうか。
けれども、イエスさまはそのようなペトロをご存じの上で、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われるのです。主は人の不完全さ弱さを十分ご存じのうえで、「わたしはこの岩、その父の神によってなされた信仰告白の上に教会を建てる」とおっしゃるのです。それは主のいつくしみ、救いの恵みという以外ありません。
私たち一人ひとりもゆるされて、不完全ながらもその信仰を言い表すことによって主に受け入れられ、愛の中で建てあげられていくのであります。教会は主の恵みとゆるしに気づいた一人ひとりが、心から悔い改めて主に立ち帰って生きる、そこに人ではなく、神の業が起こされていくのです。そのように教会は主イエスの救いを世の人々に語り伝え、2000年以上証が立てられてきたのです。
最後に、24節でイエスさまは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。
「自分の十字架を背負いなさい」と言われると何か頑張って背負わないといけないといった悲壮感が漂う気がするかも知れません。しかし、それは自分の頑張りによってではなく、神の御心、神のご計画に聞き、信頼をもって従うことであるのです。
この主イエスに倣って生きる者とされてまいりましょう。
礼拝宣教 マタイ10章16-31節
主イエスは弟子たちとともに「天の国は近づいた。悔い改めよ。」と宣べ伝え、救いの業を証しし、行なうために弟子達を選ばれます。主イエスに従っていく決意をした彼らは「よし、イエスさまの弟子としてここは一つ頑張ろう。」というような高揚感と期待を持っていたのではないでしょうか。
ところが、主イエスがその弟子たちにお語りになったことは、「迫害と苦難」の予告であったのです。
主イエスを信じる決心をした事を身近な家族や友人や人に話すと、思いがけない激しい反発を受けた、縁を切ると言われた、いわゆる迫害を受けたという人が世の中には多くおられるでしょう。
日本では仏壇をどうするのだとか、同じ墓に入れないのではとか、親族の目を気になさる家もあります。そこには大事な家族を得体もしれないものから奪われてしまうといった不安もあってのことでしょうが。家族が理解してくれないのはつらいことです。又、御言に従って生きて行こうとするとき、職場、地域、仲間内の関係性が揺さぶられ、軋轢が生じることがあります。私たちが本気で主に従っていこうとするとき、そこには多かれ少なかれ摩擦や衝突が起こり、主のもとから引き離そうとする力が働きます。それは天の国の訪れをもたらす証しと働きを阻もうとする力といえます。
主イエスは弟子たちに向けて言われます。
「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」
神学校を卒業する時の卒業礼拝において「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」との主イエスのお言葉からのメッセージが語られることが時にありますが。私の大先輩の牧師から伺ったことですが。その方が卒業されると時、この箇所から神学生のことをお見通しの神学校の教師がメッセージの開口一番に、「わたしはあなた方を遣わす。それは、羊の群れに狼を送り込むものなのだ。」と羊と狼を言い換えて語られ、その場が笑いに包まれたということでした。
ただの頑張りや気負いで行こうとしますと、御心も人の心も見えなくなりがちです。ではどのように主イエスの福音を伝え、証ししていったらよいのでしょうか。
主イエスは続けておっしゃいます。
だから、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
この言葉は巷でも使われていています。鳩のように素直で優しいだけでは人につけいれられ、だまされてしまう。蛇のような巧妙な賢さを身に着けることも必要だといういわば処世術のように説かれていますが。主イエスは単にそうした意味でおっしゃったのではありません。
聖書が語る「賢さ」とは、神を知ることなのです。
まあ蛇と言えば、創世記のエデンの園にも出てきますが。蛇は大変賢い生き物でした。ところが、神を侮り、人を神に背かせて、神の裁きを受けて地を這うものとなるのです。どんなに頭が良く物知りであっても、蛇を創られた神の御心に背くなら一体何になるでしょう。神の御心に生きる賢さを戴いてまいりましょう。
また鳩は、ノアの箱舟に出てきますが。そのノアは、「神に従う無垢な人であった」と聖書に記されています。主イエスは、たちえ迫害にあっても、自分の知識や知恵に勝る御心に聞き、無垢で混じりけのない、純粋さをもって生きなさい、と弟子たちに勧めておられるのです。
この主イエスが「悔い改めと天の国」の到来を告げ、いやしや悪霊を追い出しておられた時、宗教指導者や律法の専門家たちは、イエスが神を冒涜していると敵視していたのです。それは彼らが自らの知識や知恵を過信し、心が神から遠く離れているからだと主イエスは投げかけられました。
その彼らの妬みと敵意によって主イエスは十字架にかけられるのですが、その後には弟子たちにも迫害が及んでいくことになります。
しかしそれは、反対者や総督や王、さらに異邦人に証しする機会となったのでした。
そしてその証しは、「何をどう言おうか」というような自分の頑張りや知識によるのではなく、19節「そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語って下さる、父の霊である。」すなわち、共におられる聖霊があなた方の中でお語り下さるというのです。
26節以降でも主イエスさま、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」と仰せになるのです。この主イエスの御言はどんなに大きな慰めと希望ではないでしょうか。
話は変りますが。悪しき権力によっておとしめられた袴田巌さんの冤罪が長い長い年月を経てようやく明らかになりました。又、森友学園問題に関わる財務省に対して、管理する関係資料を全面公開するよう命じる判決が出されました。国は上訴を断念しました。亡き夫の理不尽な死の真相が明らかになるまでとの信念貫き続け、訴え続けて来られたAさんの切実な願いが前に進みましたが。
今後その真相の全容が明らかになることを願います。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」とのこの言葉には力と真実があると改めて思いました。
この主イエスが言われる「覆われているもの、隠されているもの」とは、「神の奥義」でありますが。
「ヨハネの黙示録」の「黙示録」はギリシャ語で「アポクリファ」と言いますが。それは「隠している覆いを取り除く。」という意味です。それが示され記されたローマ帝国の迫害の時代、その闇の中で覆い隠されていた神のご計画が遂に明らかにされ、書き留められるのです。それはイエス・キリストによる神の救いと、キリストの来臨に向けた神のご計画です。
どんなに世の力が働き、封じ込めようとしても、その神の奥義と救いはやがて明らかにされてゆき、すべての人に知られるのです。主イエスを通してもたらされた神の御心とご計画を信じ従ってゆく信徒たちは、キリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望み、苦難の中でなお主の福音を伝え、証しを立ててきたのです。
主イエスは、27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、力強く語られます。
私は、おそらく皆さまも、体が傷つけられ、殺されたりなどとは、正直なところ想像もしたくないことなので、ここを読むと怖い気がいたします。
ここでイエスさまが強調なさっているのは、どんな時も信仰の告白と証しをもって生きること。
そして、人ではなく、神こそ恐るべきお方であるということです。「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」神こそがいのちにおいても裁きにおいてもいっさいの主であられます。この主なる神こそ恐れよと、イエスさまはおっしゃっているのです。
29節「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
1アサリオンは当時のユダヤの最小貨幣で、日本でいえは1円といえましょう。雀二羽で1円ですから一羽の雀の価値といえば1円の半分というということになり、もはやこの世的には値打ちがないとも言えるほどのものかも知れません。けれども父の神は、その価値の無いように思える存在をもよくご存じで、そのお許しがなければ、地に落ちることはない。つまり生きるも死ぬも全てを司っておられると言われるのです。
それどころか、「あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。」それほどまで私たち一人ひとりをよく知っていてくださるのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」何と大きな幸い、慰め、希望でしょうか。
最後になりますが。毎年2月11日には信教の自由を守る尊さを覚えて祈る集会が持たれています。
私たちは毎週このように礼拝を捧げる自由が与えられています。まこと神を高らかに賛美し、祈り、聖霊の導きによって御言を聞き、主を信じる自由が与えられていることは、何にも替えがたいものであります。しかし戦争、紛争等で世界には信教の自由、思想信条の自由が脅かされている人たちが多くいます。その人たちに平和と信教の自由、思想信条の自由が与えられていきますよう、今後も共に祈り続けていきましょう。
礼拝宣教 マタイによる福音書8章1-17節
この個所には、イエスさまが「重い皮膚病の人」、又「百人隊長の僕」「高熱のシモンのしゅうとめ」を、次々とおいやしになられたエピソードが記されています。
最初の「重い皮膚病を患った人」ですが。この当時のユダヤ人の社会では重い皮膚病は特に人々から忌み嫌われていた病の一つでした。
「汚れた」病気とみなされ、この病気にかかった人は社会や家族からも引き離されて町や村の外に住まなければなりませんでした。私たちの国においても、かつてはこの病に罹った人に対して予防法をもって非人道的な差別や偏見、隔離政策が長い間続けられました。先般ようやく国としての謝罪がなされましたが、当事者の痛みと苦悩は消えるものではないでしょう。
この重い皮膚病の人も社会の片隅に追いやられ、自分から人に会ったり交流することも気兼ねし、控えるほかないひっそりとした孤独な日々を過ごしていたことでしょう。
ところが2節を読みますと、「その人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」というのです。この人はなんと群衆に紛れこんでイエスさまに自ら近寄って行ったというのです。
その頃イエスさまは、4章23~24節「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされたという評判が広がり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」とあります。
その人もうわさを聞いてそのイエスさまが身近なところにまで来られていることを知り、この機会を逃すものかとの思いで、集まった群衆の中に入っていくのです。
この人は大勢の群衆の一人に過ぎませんでした。しかしこの人の中で、「イエスさまによるなら自分に何かが起こるに違いない」という期待が大きく膨らんでゆき、人々の厳しい視線を受けながらも、イエスさまにどんどん近寄っていくのです。そして期待は遂に確信と変わりイエスさまの前に「ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言うのであります。主イエスへの全幅の信頼を言い表します。
この人が自分の願いだけが叶いますように、とイエスさまにそう求めてもおかしくない中、「御心ならば、なります」と言うのです。それは、すべてを御手のうちに治めておられる神を信じ、主イエスのうちにその権威(権能)を見たからこそ、言い得たからです。
するとなんと、「イエスさまが手を差し伸べてその人に触れ」られます。重い皮膚病の人に触れれば触れた人も「穢れ」ることになると、当時のユダヤ社会では言われていました。それにも拘わらずイエスさまは自らの手を差し伸べてその人に直接触れ、「わたしは強く望む。清くなれ。」と言われたのです。私たちの聖書には「よろしい。清くなれ。」と訳されておりますが。原語の直訳(岩波訳聖書引用)によれば、「わたしは強く望む、清くなれ。」なのです。
すると、「たちまち、皮膚病は清くなった。」アーメン。この人のうちにある信頼、イエスさまのうちに働かれる神の権威(権能)、その愛が一つに共鳴し、周りの人々にまで拡がり、神の栄光が顕されていくのですね。
この人はそのような信仰によって単に病が癒やされただけでなく、心も魂も全人的な救いと解放を受けるのです。
14節以降には、「イエスさまはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱で寝込んでいるのを御覧になり、その手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスさまをもてなした。」とありますが。それは主イエスに従うペトロの信仰、その祈りを通してもたらされたいやしでもあるでしょう。ペトロも主イエスとそのお言葉の権威(権能)を見聞きして、家族を置いて主イエスに従いましたが。それでも家族への愛情や心配はいつも祈りのうちにあったのでしょう。主イエスはきっとそれをご存じだったのでしょう。
そこでも、当時の慣習からすれば人が病人に触れればけがれを負うといわれていた社会の中で、苦しそうに寝込んでいるペトロのしゅうとめの手に触れていやされるのです。病人やケガ人に処置を施すことを「手当」と言いますが。他者の痛みや苦しみに手を当てずにはいられない、それはそういったとことから来ている言葉です。この主イエスによってあらわされた神の愛に本当に慰められます。
イエスさまにいやして頂いたペトロのしゅうとめは、その感謝と喜びをもってイエスさまをもてなして、愛なる神をほめたたえことでしょう。
次に「百人隊長の僕のいやし」のエピソードに目を向けてみましょう。
この百人隊長は、イエスさまの言葉が律法の教師や宗教的指導者たちとは違うこと。又イエスさまが分け隔てなく人と接し、いやしの業をなさる事を知り、それを心に留めていたのでしょう。
当時のユダヤはローマの支配下にありましたから、多くのユダヤ人はローマの兵隊長などと言えばうとましい存在でしたし、「神」を知らない異邦人とみなしていたわけです。
しかしその日、この百人隊長はイエスさまがカファルナウムに入られたことを聞きつけ、自分の立場をも置いて、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」とイエスさまに懇願するのです。
この百人隊長は、部下がひどく苦しんでいることがいたたまれず、見るのに忍びなかったのでしょう。僕の痛み苦しみをまるで自分のことのように心痛め、人にどう見られようがお構いなしにイエスさまの前に願い出るこの異邦人の百人隊長。きっとイエスさまはそこに律法の精神、隣人愛をご覧になられたのではないでしょうか。
その彼にイエスさまは、「わたしが行って、いやしてあげよう。」と即答なさるのです。
ところが百人隊長は、「いや、それにはおよびません」と、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えます。
普通に考えると、イエスさまに来て頂くほうがありがたいように思います。確実にいやしていただけると考えるのではないでしょうか。しかし百人隊長は軍人としての職業柄人一倍「権威」のもつ効力とその「言葉の力」を知っていました。
彼は言います。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、僕はいやされます。」
なんとこの異邦人の百人隊長はイエスさまの言葉と行いが、神からの権威によるものだと確信していたのです。権威ある者の「言葉」の重みを知る彼は、ただひと言、主イエスがお命じになることを求めたのです。イエスさまのお言葉は必ず効力をもってそのとおりになると、信じていたからです。
イエスさまは、その百人隊長の言葉を「聞いて感心し、従っていた人々に言います。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西(異邦人の地)から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
このイエスさまのお言葉は、前7章21節以降で「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」とおっしゃったお言葉とも相通じているといえるでしょう。
聖書をどんなに勉強し研究しても、又何か立派な働きや大きな業績をなしたとしても、神の御心、その主の御言に生きるのでなかったら虚しいといっているのです。大切なことは神の御言であられる主イエスを信じて生きるところにあるのです。
始めに重い皮膚病の人が、「主よ、御心ならば、おできになります。」と主イエスを信頼したように。又、百人隊長が「ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、僕はいやされます。」と主イエスを信じ、「唯お言葉を下さい。」と願ったように。さらに、ペトロが主イエスを信じ従い、主イエスにしゅうとめをいやしていただいたように。主イエスに信頼し、御言葉に生きる人の歩みを確かなものとしてくださるのです。
本日礼拝の招詞として107編20-21節の御言葉が読まれました。
「主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」
この詩編の御言葉はイエス・キリストによって実現されました。
8章16節「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤ(53章)を通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担た。』」
そこにはさらにこう記されています。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
この彼こそ、「メシア」「キリスト」なのです。
最後に、13節で「主イエスが百人隊長に、『帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように。』と言われたちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」とありますが。
先週の水曜日午前中の祈祷会で、今日の礼拝の箇所の予習も兼ねた聖書の学びを共にした後、祈りの時に、礼拝にも集っておられるNさんが、近所で「路上生活をされている方の足の皮膚の状態がかなり悪く、どんどん衰弱して危ない状態なので「病院に行きましょう。」と何度も何度もお声をおかけしているのだけれど、その人は一切言うことを聞いてくれないので困っていますので、どうかお祈りくだい。」とのことでしたので、そこに集われた方々と共に祈りました。そうしたところが、その日の夕方にNさんからのメールが届いたのです。メールを開くと、「グッドニュースです。お祈りいただきましたガード下のおじさんはさっき病院に行ったとの事です。このところ神の摂理を考えています。」とのメッセージでした。
その2日後、私も越冬夜回りに参加させていただいた折、この救急の病院に行かれた方の報告を聞きました。そこにはNさんもそうですが、いろんな方々がこのおじさんを見守り続けてきて、この方の状況が皆で共有され、つながったことが救助になっていったということでした。
いずれにしましても、神の御心を信じ、祈り求めていく大きな恵みが私たちに与えられていることは本当にグッドニュース。福音ですね。
私たちは愛といつくしみ深い神を信じ、「御心ならばあなたはおできになります。」との信頼をもって御言に生きる幸いを、今日のエピソード、主イエスのお言葉から示されました。思い通りにしてくださった時も、自分の思うようではなかったとしても、神さまの御心は私たちに最善であることに信頼し、御言葉に生きてまいりましょう。