小さな旅、大きな旅の写真物語(Virtual trips/travels)

京都や東京を本拠地として、自然の中や町を歩きながら、撮った写真をどんどん掲載します。いっしょに歩いているように。

リコーGXR+マウントA12 活用術 その2 (バーナード・リーチ編)

2012-07-10 20:38:02 | 日記
リコーGXR+マウントA12 活用術 その2 (バーナード・リーチ編)

オールドレンズの試写をしたいのですが、今日は雨が降りそう。行く先もきまらずに、とりあえず、東大駒場前からすぐの日本民芸館に向かいました。 ここは、当方の師匠である柳宗悦(むねよし)1889-1961の記念館というべきところでしょうか。柳師匠の集めた民芸品が広い古民家の館に展示されています。 柳先生を師匠といいますが、時代もちがうし、直接も間接も師事したことはまったくありません。 ただ、いつのまにか当方の考えていることが、柳先生が考えていたこととほとんど同じであることに気がついて、柳先生の軌跡をたどることが多くなったということです。 ウイリアム・モリス、バーナード・リーチ、浜田庄司、河合寛次郎、富本憲吉、 沖縄壺屋の連中、大津絵、丹波焼、韓国の焼き物、当方の心にふれるものたちはどれもこれも柳先生の息のかかった世界なのです。                 
今日は、たまたま、バーナード・リーチ(1889-1979)の作陶100年記念展示会が開催されていました。バーナード・リーチは目的でなかったのですが、この展示会のおかげで、バーナード・リーチの本当の姿を知ることが出来ました。この後かれの作品の写真をのせますが、取り上げられるのは東洋と西洋の融合的作品が多い。ところが彼の作品の中には、ほとんど日本人の作といっていいほどの日本的作品があるのです。 ほとんど完全に日本を理解していた人と思われます。いい作品です。絵も上手いし、掛け軸も書いています。米国コロラドの風景を描いた掛け軸に家内がとっても興味をもっていました。確かに希少価値があるといえば、そう言える。

バーナード・リーチをウイキペディアでひいたら,書いてあることがあまりに面白いので、ノーカットで以下に載せます。
1887年(明治20年)、植民地官僚だったイギリス人の父とイギリス人の母の間に香港で生まれた。母は出産で死去したため日本にいた母方の祖父に引き取られ、関西に住んだ。祖父は京都の第三中学校や彦根中学校で英語教師をしていた。来日から4年後、植民地官僚だった父の再婚にともない香港に戻ったが、1895年、父の転勤でシンガポールへ移った。1897年、英国本土に移され教育を受ける。
1903年、芸術家を志してロンドンのスレード美術学校に入学するが翌年父が死んだため銀行員となり、1907年からロンドン美術学校でエッチングの技法を学んだ。そのとき、ロンドン留学中の高村光太郎と知り合って日本に郷愁を抱くようになり、1909年(明治42年)、日本へ戻って東京・上野に居を構えた。彼は生涯の友となる柳宗悦をはじめ白樺派の青年達と知り合いになり、彼らの本拠である我孫子で版画指導を行ったほかイギリスで起こったウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動など西洋芸術についての議論を通して手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合った。またバーナードは富本憲吉と知り合い、彼とともに訪れた上野の博覧会会場で楽焼の絵付けを始めたことをきっかけに茶道や茶道具に惹かれた。1912年に6代尾形乾山に陶芸を学び、中国から戻った1917年、我孫子の柳の家に窯を開いて陶芸家としての一歩を踏み出した。後に7代乾山の名を免許された。
この時リーチたちのもとを訪れた陶芸家の濱田庄司と友人になり、バーナードは1920年に濱田とともにイギリスのセント・アイヴスに移り日本の伝統的な登り窯を開き、1922年には「リーチ・ポタリー」(Leach Pottery)という名の窯を開いた。彼らはセント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り朝鮮や日本、中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉といったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターした。
彼らは陶磁器を芸術、哲学、デザイン、工芸、そして偉大な生活様式の融合したものと見ていたが西洋人の多くは陶芸を一段低い芸術と考え、彼らの作品を当時の洗練された工業製品に比べて粗野で下手なものとみなしていた。1934年、バーナードはイギリスでの陶芸全般の評価に失望し再び来日し日本民藝館設立を目指していた柳に協力した。イギリスに戻って1940年に出版した『A Potter's Book』(陶工の書)はバーナードの職人としての哲学や技術、芸術家としての思想を明らかにした本で彼の名を知らしめるもとになった。
バーナードは実用より美学的関心を優先させた純粋芸術としての陶芸に対し、実用的な日用陶器を作ることを擁護した。彼は陶磁器に重要なのは絵画的な絵柄でも彫刻的な装飾でもなく、日用品としての用を満たす器の形状や触覚だと考えた。このため、彼の制作スタイルは1950年代から1960年代のミッドセンチュリーのアメリカ合衆国でカウンターカルチャーやモダニズム・デザインに大きな影響を及ぼした。バーナードは近代的で協同組合的なワークショップを運営して、一般大衆向けの手作り陶磁器のラインナップを制作することを切望していた。世界中からリーチ・ポタリーに陶芸家が弟子にやってきて、リーチの様式と信念を世界に広げていった。例えば、カナダから来た見習い陶芸家達は1970年代にかけてバンクーバーを中心としたカナダ西海岸に活発な陶芸シーンを形成した。アメリカ人の弟子たちの中にはウォレン・マッケンジー(Warren MacKenzie、彼もミネソタ大学で多くの後進の陶芸家に影響を与えた)やバイロン・テンプル(Byron Temple)、クラリー・イリアン(Clary Illian)、ジェフ・ウェストリッチ(Jeff Oestrich)といった陶芸家がいる。ニュージーランドの陶芸の第一人者レン・キャッスル(Len Castle)も1950年代半ばにイギリスへ旅しバーナードと働いて大きな影響を受けた。また長年バーナードの助手だったマイケル・カーデューやオーストリアで陶芸を修めた後にナチスから逃れてイギリスに渡りリーチの影響を受けたルーシー・リーらは、リーチと協力しあるいは競いながらイギリス陶芸の地位向上に努めた。またたびたび来日し各地で作陶したほか、『Unknown Craftsman』(知られざる職人)などの書を通して民芸運動やその関連作家をイギリスに紹介、展覧会も開きその理論を解説した。
バーナードは1940年、アメリカ人画家マーク・トビーとの交友を通じバハーイー教に入信していた。1954年、イスラエルのハイファにある寺院に巡礼に行ったバーナードは「東洋と西洋をより一つにするため東洋に戻り、バハーイ教徒として、またアーティストとして私の仕事により正直になろうと努力したい」との感を強くした[1]。
彼は1972年まで制作を続け、なお世界を旅して回ることをやめようとしなかった。また、彼は視力を失っても陶芸に関する著述をやめなかった。1963年に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章。1974年には国際交流基金賞を受賞した。ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館は1977年に彼の大規模回顧展を開いたが、彼はその2年後逝去した。リーチ・ポタリーは今なおセント・アイヴスに残り、バーナードやその関係者たちの作品を展示する美術館を併設している。

今日はリコーではなくて、バーナード・リーチ一色です。


バーナード・リーチ展のパンフレットからのコピー


バーナード・リーチ展のパンフレットからのコピー


バーナード・リーチ展のパンフレットからのコピー


バーナード・リーチ展のパンフレットからのコピー


バーナード・リーチ展のパンフレットからのコピー


バーナード・リーチ展のパンフレットからのコピー


バーナード・リーチ展のパンフレットからのコピー


バーナード・リーチ展のパンフレットからのコピー


民芸 2004年10月号からのコピー


民芸 2004年10月号からのコピー


民芸 2004年10月号からのコピー


民芸 2004年10月号からのコピー


民芸 2004年10月号からのコピー


民芸 2004年10月号からのコピー


民芸 2004年10月号からのコピー


民芸 2004年10月号からのコピー
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