CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その3  13番目の鶏鉾~18番目の木賊山

2016年11月23日 05時01分54秒 | 京都情報
過去2回、1番目の長刀鉾~6番目の太子山 及び7番目の四条傘鉾~12番目の
保昌山までを下記ブログで紹介した。

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その1 1番目の長刀鉾~6番目の太子山

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その2  7番目の四条傘鉾~12番目の保昌山

今回はこのシリーズの第3弾として13番目の鶏鉾~18番目の木賊山の
山鉾巡行の様子を動画と写真で紹介します。

13番目 鶏鉾


上の動画は鶏鉾(にわとりほこ)の巡行の様子です。

堯(ぎょう、中国五帝の一人)の時代に天下がよく治まり太平が続き、
諫鼓(かんこ、訴訟用の太鼓)を使う機会がなくなり太鼓に苔が生えて
鶏が巣を作ったといわれる故事の心をこの鉾に移したものと伝えられます
「トロイの王子と妻子の別れ」を描いた見送は16世紀頃にベルギーで製作された
飾毛綴織(かざりけつづれおり:タペストリー)で国の重要文化財
丸山応挙やその流れをlくむ四条派による水引も必見



上の写真はJR京都駅のパネル展で展示の鶏鉾の解説


上の写真はJR京都駅のパネル展のポスター






上の3枚の写真は出発前の鶏鉾

14番目 伯牙山




上の2枚の写真は伯牙山(はくがやま)の巡行

中国周時代の故事で、琴の名手の伯牙が友人で自分の琴を理解してくれた
鐘子期(しょうしき)の死を聞いて琴の弦を断ち、以後琴を弾くのを辞めた
という話に由来し、別名「琴破山(ことわりやま)」ともいわれます。
前掛は不老長寿の八仙等が描かれ上下に詩文が書かれていますオリジナルは
中国明代の作(現状はその複製品)
その他水引、胴懸、見送も中国風の絵で統一されています。



上の写真はJR京都駅に展示されていた伯牙山のコーナー


15番目 綾傘鉾


上の動画は綾傘鉾の巡行です。棒振り囃子に合わせた踊りが見もの


上の写真はJR京都駅に展示されていた綾傘山のコーナー


上の写真は出発前の綾傘山




上の写真は綾傘山の御在所綾小路通室町西入ル善長寺付近の大原神社と
綾傘山の説明板

綾傘鉾は、山鉾の非常に古い形態を残している傘鉾の一つで、大きな傘と棒振り囃子の
行列で構成される。棒振り囃子とは赤熊をかぶり、棒をもった者が、鉦、太鼓、笛に
合わせて踊るもので壬生村の人々により奉仕されていた。
綾傘鉾の傘につける垂りと房かざりは人間国宝の染織家森口華弘の友禅「四季の花」
傘に描かれた絵は平成4年に町在有志の寄贈になる綴錦「飛天の図」


16番目 霰天神山




上の2枚の写真は霰(あられ)天神山の巡行


上の写真はJR京都駅に展示されていた霰天神山のコーナー

錦小路通室町西入にあるので「錦天神山」または「火除天神山」ともいわれる。
永正年間(1504~1520)京都に大火のあったとき、急に霰が降り猛火は
たちまち鎮火した。その時、霰とともに小さな(約3.6センチ)天神像が
降ってきたのでこれを祀ったのがこの山の起こりであるという。
山の上には唐破風春日造の社殿を安置。
左右と後の欄縁の上に廻廊が巡らされているのもこの山の特徴
前懸は16世紀にベルギーで製作の「イーリアス」物語を描いた毛綴(タピストリー)



17番目 菊水鉾


上の動画は17番目の菊水鉾の巡行です。






上の3枚の写真は菊水山の鉾の巡行


上の写真はJR京都駅に展示されていた菊水鉾のコーナー

町内にあった菊水井戸にちなんで名付けられ、鉾頭には金色の菊花をつけている
稚児人形は魏の文帝の勅使が薬水をもとめて山に入った時に出会った、菊の露を
飲んで700年の長寿を保ったという枕慈童(きくじどう)で能装束の舞姿である
唐破風造りの屋根が特徴


18番目 木賊山




上の2枚の写真は木賊山(とくさやま)の巡行

世阿弥作の謡曲「木賊(とくさ)」を題材とした山。
我が子を人にさらわれた一人の翁が信濃国伏屋(しなののくにふせや)の里で
木賊を刈っていました。僧が父を尋ねたいという少年松若を連れてその故郷信濃へ
下り、木賊を刈っている老いた父を見つけるという物語で、翁が一人寂しく
木賊を刈る姿を山の上に表しています。
等身大の老翁像(御神体)の足台に元禄5年(1692)の墨書き銘がある。





上の2枚の写真は出発前の木賊山

木賊山の在所(仏光通西洞院西入ル木賊山町)の仏光寺通を東へ少し進んだ
ところに菅原道真公誕生の地と伝えられ菅家廊下といわれた学問所の跡や
菅原道真公の邸宅跡、さらに天満宮誕浴の井がある管大臣神社がありました
ので写真を添付しておきます。


「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれた
飛梅の地も管大臣神社であるとされています。
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祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その2  7番目の四条傘鉾~12番目の保昌山

2016年11月22日 03時41分41秒 | 京都情報
前回、1番目の長刀鉾~6番目の太子山までを下記ブログで紹介した。

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その1 1番目の長刀鉾~6番目の太子山


今回はこのシリーズの第2弾として7番目の四条傘鉾~12番目の保昌山の
山鉾巡行の様子を動画と写真で紹介します。

7番目 四条傘鉾








上の4枚の写真は四条傘鉾の巡行です。


上の写真はJR京都駅に展示されていた四条傘鉾のコーナー

古く応仁の乱以前に起源を持つが、明治4年以降途絶えていた傘鉾です。
昭和60年に本体が再興され、路上に飾るだけの「居祭(いまつり)」を続けて
いましたが、3年後に踊りと囃子が再現され完全復興した。復興にあたり
滋賀県滝樹神社に伝わる「ケンケト踊り」を参考に踊りと囃子が再現。棒振り踊
の構成は、棒振り2人と鉦、太鼓・ササラ各2人の計8人の子供からなります。
囃子に合わせ踊る様子は、綾傘鉾のそれとは印象が違っていて、実に味わい深い



8番目 占出山




上の2枚の写真は占出山(うらでやま)の巡行です。

占出山の由来は神功皇后が鮎の釣れ具合で戦勝を占った日本書紀の話によります
このことから別名「鮎釣山(あゆつりやま)」とも呼ばれています。
神功皇后は安産の神として祀られ、占出山の巡行のくじ順が早い年はお産が軽いと
言い伝えられています。
前懸は日本三景より「宮島」、胴懸は日本三景より「松島」と「天橋立」の
美しい綴錦で復元新調されたものです。


9番目 月鉾


上の動画は月鉾の巡行の様子です

鉾頭に三日月を付け真木の「天王座」には月読尊を祀る。
屋根裏には、江戸中期を代表する画家、円山応挙作の“金地彩色草花図”、
天井裏には、岩城清右衛門作“源氏物語五十四帖扇面散図”、前掛けは、
17世紀インドムガール王朝時代の「メダリオン緞通」現在は同図柄の復元品
見送りは皆川月華作“黎明図”、また天水引には、円山応震下絵の“霊獣図刺繍”
左甚五郎作の白い兎の彫刻等すべてが豪華な装飾品で飾られています。



10番目 芦刈山



上の2枚の写真は芦刈山の巡行です

貧しさのため妻と離れて難波の浦で芦を刈る老翁が、やがて妻との再会をはたす
謡曲「芦刈」を題材にした山。御神体(人形)は天文6年(1537)七条仏師運慶
の流れをくむ康運作(墨銘あり)。御神体の衣装は天正17年(1589)銘をもち
重要文化財に指定されています。




上の写真はJR京都駅に展示されていた芦刈山のコーナー








上の4枚の写真芦刈山の出発前の様子です。

11番目 蟷螂山







上の4枚の写真は蟷螂山(とうろうやま)の巡行です。

「かまきり山」とも呼ばれます。かまきりの羽や鎌が動くなど唯一の「からくり」
がほどこされています。
「蟷螂の斧を以て降車のわだちをふせがんと欲す」という中国の故事を題材とした山
前懸、胴懸、見送は共に羽田登喜男作の友禅染の作品



上の写真はJR京都駅に展示されていた蟷螂山のコーナー

12番目 保昌山


上の動画は保昌山(ほしょうやま)の巡行の様子です。


保昌山の主人公は平井保昌(やすまさ)で藤原大納言元方の孫の到方(むねかた)
の子で武勇に優れ和歌も嗜む風流人である。平井保昌が和泉式部のために紫宸殿前の
紅梅を手折ってくる姿を表している。和泉式部との恋が成就したことで縁結びの
御利益があるとのこと。
明治初年までは「花盗人山」と呼ばれていたそうです。


本ブログの作成にあたり「京都 祇園祭のすべて」Ars BOOKS(下の写真)、
祇園祭宵山会議発行のリーフレット及びWikipediaを参照しました。


祇園祭山鉾連合会のサイトに詳細な山鉾の解説をされていますのでリンク
させていただきました。(下記サイト)
 http://www.gionmatsuri.or.jp/yamahoko/naginatahoko.html

京都の観光写真集には前祭23基、後祭10基の合計33基の山鉾の解説されています
リンクさせていただきました。(下記サイト)
  http://kyoto-k.sakura.ne.jp/gion000.html#gionmaturi
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祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その1 1番目の長刀鉾~6番目の太子山

2016年11月21日 03時57分42秒 | 京都情報
祇園祭は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは
「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の
夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。
京都及び各地に流行った疫病退散を祈願したのが元々の由来である。


このブログでは2016年7月17日に行われた前祭 山鉾巡行の23基の山鉾の内
1番目長刀鉾から6番目の太子山までの曳山を動画と写真で紹介します。

1番目 長刀鉾








上の4枚の写真は毎年「くじ取らず」として巡業の先頭を務める長刀鉾です。


上の動画は長刀鉾の巡行です。

長刀鉾の名は、鉾頭に三条小鍛冶宗近作の大長刀を飾ったことに始まります。
宗近は一条天皇永延 (987~989) 頃の刀工で、三条一派の祖。
現在は大永二年(1522)三条長吉作の長刀を保存し、複製品を鉾頭としている
左大臣頼長の佩刀小狐丸鍛造に冠する謡曲「小鍛冶」などが有名です。

長刀は宗近が娘の病気平癒祈願のために奉納したもの。
現在、生稚児が二人の禿(かむろ)を従えて鉾に乗り稚児舞を披露します。
刀の先は決して八坂神社と御所の方向には向かない掟があります。
屋根には鯱が飾られています。
前懸、胴懸の絨毯、見送の中国明代の「雲龍文綴錦」の模造品であるが
見応えがある名品である。



JR京都駅に展示されていた長刀鉾のコーナー

2番目 山伏山



上の2枚の写真は山伏山の巡行です。

神体の山伏は右手に苛高珠数(いちたかじゅず)、左手には斧を持ち
腰には法螺貝をつけ笈を負う。
八坂神社からの清祓とともに六角堂から法印の祈祷も行われ、神供を供える
三宝も仏式の黒塗のものが用いられている。明治初年の神仏分離以前の姿を
この山にみることができる。
八坂の塔が傾いたとき法力によってそれをなおしたという浄蔵戸貴所の大峯入り
の姿をあらわしている。
繭を紡ぎ布を織りあげるまでの工程を描いた水引は珍品



上の写真はJR京都駅に展示されていた山伏山のコーナー

3番目 白楽天山


上の写真白楽天山の巡行です。


上の写真はJR京都駅に展示されていた白楽天山のコーナー。

山上には中国唐の詩人白楽天(唐冠を付けている)が、道林禅師に仏法の
大意を問う場面。
前懸はトロイ城陥落のときアイネイアスが父を救出する図を表したベルギー製の
毛綴(タペストリー)の優品であり、大津祭月宮殿山の見送と双幅である。



4番目 孟宗山




上の2枚の写真は孟宗山の巡行です。


上の写真はJR京都駅に展示されていた孟宗山のコーナー

中国の史話「二十四孝」の一人である孟宗は病気で年老いた母を養っていました。
ある冬の日に筍が食べたいと言い出した母の為に孟宗は竹林に筍を探しに雪の中
探し回りついに筍を掘り当て母を喜ばした説話を題材としています。
孟宗山は別名を「筍山(たけのこやま)」とも呼ばれています。
見送は竹内栖鳳が喜寿の年の昭和15年(1940)の作の「白地墨画竹林図」で
孟宗竹が風にそよぐ様を描いた墨絵です。きらびやかな極彩色の山鉾の見送の中で
唯一墨一色で描かれた墨絵は特筆される存在です。




5番目 函谷鉾(かんこほこ)

上の動画は函谷鉾の巡行です。


上の写真はJR京都駅に展示されていた函谷鉾のコーナー

函谷鉾は巡行の順番の決まっている「くじ取らずの鉾」であり、前祭の山鉾巡行では、
長刀鉾に次いで第二番目に巡行する鉾(山鉾全体の中では5番目)である
函谷鉾の名の由来は、中国の戦国時代に斉の宰相を務めた孟嘗君(もうしょうくん)
(? - 前279年)が函谷関で、家来に鶏の鳴き声を真似させて関門を開かせ
難を逃れたという故事(『鶏鳴狗盗』)による。
前掛は旧約聖書劇「イサクの嫁選び」説話をもとに洗わせており
イサクに水を供するリベカの場面で16世紀のベルギーで織られたタペストリーで
重要文化財になっています。
稚児人形 左大臣一条忠春の子、実良(さねよし) をモデルとした等身大の人形が
使われています。実良は稚児として函谷鉾に乗り込むことになっていたが
実現しませんでした。


6番目 太子山

上の写真は太子山の巡行です。


上の写真はJR京都駅に展示されていた太子山のコーナー


上の写真は出発前の太子山。

聖徳太子を祀るのでこの名がある。聖徳太子が四天王寺建立にあたり、自ら山中に
入って良材を求め、老人に大杉の霊木を教えられ六角堂を建てたという伝説を
題材とした山である。
杉が立てられている。
頌徳太子は少年像で右手に斧、左手に衵扇を持っている。
前懸は緋羅紗地に阿房宮(中国秦代の宮殿)の刺繍


次に祇園祭の一般的な事項について記載します。
冒頭で述べたように祇園祭は7月1日より約1か月にわたって実施されます。
2016年の場合下記のような行事が実施されました。



前祭(さきのまつり)山鉾巡業の行列は9:00頃四条烏丸を出発、9:45頃に
四条河原町を左折、河原町通りを北へ向かい10:30頃河原町御池を左折し
11:00頃に烏丸御池に到着する経路を巡行します。




上の2枚の写真は巡行前、23基の山鉾が各町で待機している場所を示しています




上の2枚の写真はミニ鉾と展示場所の外観です。



本ブログの作成にあたり「京都 祇園祭のすべて」Ars BOOKS(下の写真)、
祇園祭宵山会議発行のリーフレット及びWikipediaを参照しました。


祇園祭山鉾連合会のサイトに詳細な山鉾の解説をされていますのでリンク
させていただきました。(下記サイト)
 http://www.gionmatsuri.or.jp/yamahoko/naginatahoko.html


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RAKU CAFE AND GALLERY でのランチ on 2016-10-2

2016年10月04日 05時52分44秒 | 京都情報
2016年10月2日は第65回宇治茶まつりがあり宇治に出かけていました
当日いただいたRAKU CAFE AND GALLERY でのランチを写真紹介します。

RAKU CAFE AND GALLERY の基本情報

住所:宇治市宇治又振65 TEL:0774-66-7070
営業時間:9:00~17:00  定休日:なし
オープン:2014年12月19日


公式サイト:http://raku-u.com/


上の写真はRAKU CAFE AND GALLERYの所在地地図などが書かれた名刺

宇治市又振というと私が生誕した住所地です


上の写真は当日いただいたオリジナルカレー 単品で800円
アイスコーヒーをつけたBセットで1,100円でした。
美味しくいただきました。


上の写真はお店の前の看板


上の写真はお店の外観。






上の3枚の写真は宇治茶まつりの様子です

興聖寺での式典とスタンプラリーで楽しく過ごしました。
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角野邸 on 2016-6-16

2016年07月29日 06時41分04秒 | 京都情報
2016年6月16日、長田港に面した通りにある角野邸の写真を撮りましたので
写真紹介します。

角野邸の持ち主は現在東灘区に在住で長年、空き家になっていたがNPO法人
「芸法」の小國陽佑氏らが中心となって家の掃除・整理を2年がかりで行い。
持ち主の角野氏は代々長田港の網元だったそうです。

芸術家をサポートする活動を行っているそうです。

NPO法人 芸法の基本情報

住所:神戸市長田区駒ヶ林町2-4-1 TEL:070-5665-0932
Facebook:https://www.facebook.com/geiho2008/


上の写真は建物を長田港側から撮ったもので長田港側は洋風、裏側(北側)は
和風になっています。大正年間に建てられたものだそうです。
建築自体が貴重な文化財であると思います。


上の写真は裏側の「角野邸」の建物外観






上の3枚の写真は和室の内部(2階)




上の2枚の写真は洋室の内部(2階)

角野邸は「歩いてめぐる神戸本」(下の写真)のPage115でも紹介されています。

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もぼろしの伏見城(指月城)の石垣が見つかる on 2015-6-20

2016年02月16日 05時25分05秒 | 京都情報

BS11で放送の「尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究」を2月9日(日)に
観た。内容は「京都・城に秘められた権力者たちの思惑」であった。

番組中に幻の伏見城と言われていた指月城が2015年6月に石垣が発見された
ことが紹介されました。

これを機に、もぼろしの伏見城(指月城)について番組で紹介された内容を
中心に写真紹介します。
番組では山田邦和 同志社女子大教授が解説されていました。
これから紹介する写真は特記のないものは上記番組によります。

調べて見ると伏見城跡(指月城)の発掘調査は(有)京都平安文化財により
2015年4月13日から7月13日まで行われました。

また現地説明会は2015年6月20日に行われ36mに及ぶ石垣の跡が公開されました。
 現地説明会資料については下記サイトで見れます。
  http://iseki-hakktsu.com/investigation/index22.html

発掘現場はライオンズマンションの建設現場で所在地住所は
 京都市伏見区桃山町秦長老176-6




上の写真が発掘の様子を示したもので南北方向に36mの石垣が出土した。
同時に5mから7m幅の堀跡も確認されました。
出土した石垣は1,2段で高さ約0.5~1m 奥行2m もとは3段であったとされる



上の写真も発掘現場。

ここで指月城-木幡城の建設過程を関連事項とともに整理しておきます。
文禄元年(1592) 8月20日 伏見指月の地に秀吉の隠居屋敷建設を始める
文禄2年(1593) 8月   秀吉室浅井氏(茶々,淀殿)大坂城で秀頼を生む
        9月   秀吉 指月屋敷に移る

 文禄3年(1594) 1月3日 指月屋敷を拡張,新営を計画する。3月7日着工

         3月20日 淀城を壊し、指月城に移す。
         8月1日 指月城が完成、秀吉も移住
文禄4年(1595)  7月15日 関白豊臣秀次が自害。その後聚楽第を破壊、
              その資材を指月城に運ぶ。
文禄5年(1596) 閏 7月13日 京都・伏見に大地震、指月城倒壊(慶長大地震)
 (慶長元年)  7月15日 木幡城の建設着手
         10月10日 木幡城 本丸が完成
 慶長2年(1597) 5月   木幡城 天守閣と殿舎
 慶長3年(1598) 9月16日 豊臣秀吉 没 


尚木幡城は1600年の関ヶ原の戦いの折、石田三成の軍勢により焼失後徳川時代
1602年に再建されています。1619年に廃城とされた。このとき建物や部材は
二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに
桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、やがて伏見城は桃山城あるいは
伏見桃山城とも呼ばれるようになった。
伏見城本丸一帯は、明治天皇の伏見桃山陵が造営され、名護屋丸の南には
昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の東陵なども造営された。
伏見桃山城運動公園には、旧伏見城建造物と関連のない模擬天守が建っている

指月城は秀吉の隠居屋敷を改修する形で築城されたことが判ります
(秀頼の誕生が大きく影響していると思われる)





上の写真は大成京細見絵図 洛中洛外町々小名(1868)に表示された指月山と
木幡山城の位置

11世紀の初め、藤原頼通の第四子橘俊綱が、指月森附近に伏見山荘を建てて
います。その後伏見山荘は持ち主が変わり14世紀に伏見殿となった。



上の写真は2015年6月19日付け京都新聞の切り抜き


上の写真は出土した金箔瓦。


上の写真は指月城と伏見に形成された城下町。


伏見には今でも昔の名残を残す名前が残っています。



上の写真は指月城の推定図

関連サイトなど:
 神戸新聞 2015-6-18

 神戸新聞 2015-6-19朝刊
 神戸新聞 2015-8-7夕刊

 それでも指月伏見城はあった  森島康雄 著

 伏見城発掘調査 第214回京都市考古資料館文化財講座

 太閤堤 宇治川右岸で発見 REV1


指月城及び周辺には大和国比曾寺から移転した三重塔(園城寺に現存)や
直江兼続が掘削したというお舟入や観月橋があります。
 http://kichinosuke-kai-dog.blogspot.jp/2012/06/blog-post_30.htmlより

伏見はわが生まれ故郷宇治の時代に買い物に行った記憶もあり
観月橋の名前も懐かしく思います。


以下は2021年12月2日に追記

伏見城(指月城)跡発掘調査の現地説明会へ行ってきました

豊臣秀吉が築いたあと慶長大地震(1596)で倒壊し、「幻の城」

ともいわれる「指月伏見城」の石垣の基礎の跡が新たに見つかり2021年10月30日
京都市埋蔵文化財研究所が発表しました。
 
下記ブログで概要を書いています。
 

 

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伴氏社と伴氏廟 on 2016-2-7

2016年02月10日 05時09分40秒 | 京都情報
2016年2月7日、北野天満宮の三の鳥居手前にある伴氏社(ともうじしゃ)と
東向観音寺の境内にある伴氏廟の五輪塔の写真を撮りましたので紹介します。

伴氏(ともうじ)は菅原道真の母で、父菅原是善との間にできた子(菅原道真)
を承和12年(845)に出産した。



上の写真は伴氏社と現地説明板です。
伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出しています。

「大伴氏(おおともうじ)は、日本の古代氏族。氏の呼称は平安時代初期に
淳和天皇の諱を避けて伴氏に改称。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、
平安時代中期以降は朝臣。

天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは
 同族関係とされる。」
以上Wikipediaより引用

この伴氏社の鳥居は京都三珍鳥居の一つだそうです。
他の2か所は蚕の社・三柱鳥居と厳島神社・唐破風鳥居。
京都三珍鳥居を紹介したサイトにリンクさせていただきます。

上の写真は北野天満宮の三の鳥居。

上の写真は東向観音寺の境内にある伴氏廟の五輪塔。
かっては伴氏社の付近にあったようです。



上の写真は受験シーズンとも重なって多くの参拝客で賑わう北野天満宮の拝殿と
梅と一緒に写した拝殿・本殿の遠景。



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向日丘陵の古墳をめぐる -史跡めぐり大発見向日市- on 2016-2-7

2016年02月08日 14時46分08秒 | 京都情報
京都府向日市内の史跡を巡るスタンプラリー「史跡めぐり大発見向日市〜
向日丘陵の古墳をめぐる〜」が2016年2月7日、開催され参加してきました。

向日丘陵にある5基の代表的なを含め、乙訓(おとくに)地域の古墳11基が
昨年11月、「乙訓古墳群」として国の史跡に指定されたことを受け、
古墳をより身近に感じてもらえるコース設定をされたそうです。

まず向日市文化資料館で参加受けを済ました後、五塚原古墳、桓武天皇皇后陵、
寺戸大塚古墳、物集女車塚古墳、元稲荷古墳の順番で5つの古墳を巡り
ゴールの朝堂院公園に到着しました。

巡った古墳について写真と概要を説明します。
巡った古墳すべてが初めて訪れた場所なので新鮮な印象を持ちました。

1.五塚原古墳

上の写真は現地の説明板。

内容の要約を下記に示します。
古墳時代前期(4世紀)の全長91mの前方後円墳です。後円部は直径54m・
高さ9m、前方部は幅36m・高さ4mでくびれ部の幅14mの典型的な古墳時代前期
の形をしています。
注記)全長は説明板の数値と異なっています。
古墳の主体部は帝塚山大学の電気を利用した調査により後円部に東西15m
南北11mの墓穴、前方部には東西5m、南北7mの墓穴があることが判明。


上の写真は後円部の写真です。
五塚原古墳は、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓説のある奈良県桜井市の
箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ~後半)と類似形であることでも有名。
前方部の形状は、箸墓古墳と同時期の築造と推定される東田大塚古墳と一致
墳丘は後円部が3段築成、前方部が2段築成で盛り土されている。

昨年からの第7次調査で後円部が真円である事が判明しました。
 詳細はhttp://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/2015.pdf

2015年11月20日、それまでに国の史跡に指定の天皇の杜古墳・寺戸大塚古墳・
恵解山古墳の3基に加えて五塚原古墳、元稲荷古墳
南条古墳、物集女車塚古墳・・・以上向日市 長岡京市の井ノ内車塚古墳、
井ノ内稲荷塚古墳、今里大塚古墳、大山崎町の鳥居前古墳の8基が新たに
国史跡に追加されました。


上の写真はスタンプラリーのテントが設置された公園
ここから登っていきます。

2.桓武天皇皇后陵


上の写真は桓武天皇皇后陵の遠景です。

長岡京を築いた桓武天皇の皇后、藤原乙牟漏(おとむろ)のお墓で宮内庁陵。
直径約65m、高さ約7mの円墳です。
この円墳の北約120mのところから出土した埴輪棺の年代から4世紀末にこの地方
をしていた豪族の墓を利用して8世紀末に桓武天皇皇后陵として再利用した
のではと伝えられている。(伝高畠陵古墳)

 第50代 桓武天皇皇后(藤原乙牟漏)に関する略年表

延暦2(783)年4月18日、立后。
延暦9(790)年閏3月10日、崩御。
延暦9(790)年閏3月28日、山背国乙訓郡長岡山陵(高畠陵)に埋葬。
大同元(806)年5月19日、皇太后を追贈される。
弘仁元(809)年7月18日、嵯峨天皇に祟りがあったとして勅使が派遣される。
弘仁14(823)年4月23日、太皇太后を追贈される。
天安2(858)年12月9日、
清和天皇、高畠陵を十陵四墓に選定し荷前の幣を献上する。
天慶8(884)年12月20日、
光孝天皇、高畠陵を十陵五墓に選定し荷前の幣を献上する。
延長8(930)年、朱雀天皇、高畠陵を十陵に選定し荷前の幣を献上する。
康保元(964)年、遠陵とされる。
明治12(1879)年10月、現在の御陵を高畠陵に治定。




(第50代) 桓武天皇 皇后陵
天之高藤廣照姫之尊 高畠陵 と書かれた看板


上の写真は当日配布された資料の桓武天皇皇后陵の説明。
円墳の周囲は大正時代に造成された竹林で覆われています


宮内庁の看板より(上の写真)




次の目的地寺戸王塚古墳に行く途中には上の写真のような美しい竹林になって
おり西の岡トリムコースとしてまた竹の径として整備されています。
竹穂垣と呼ばれる垣根が美しい。

3.寺戸大塚古墳




上の写真は竹で作製された古墳垣と呼ばれる垣根と寺戸大塚古墳です






上の3枚の写真は寺戸王塚古墳の説明板です。


寺戸大塚古墳は、半分は京都市西京区大枝南福西、半分は向日市寺戸町芝山に
またがっています。全長98mの前方後円墳です。同じ丘陵上に立地する
五塚原古墳〔全長91m・前方後円墳〕、元稲荷古墳〔全長92m・前方後方墳〕、
妙見山古墳〔全長114m・前方後円墳〕と同様古墳時代前期(3c中頃〜4c中頃)
に築造された乙訓地域の首長墳として位置づけられています。
寺戸大塚古墳はこれまでに計10回にわたる調査が実施され、後円部3段、
前方部2段の前方後円墳であることが明らかにされています。

京都市の埋蔵文化財研究所みより第11次の調査が2012年に実施され
平成24年(2012)9月22日に現地説明会があり詳しい資料が下記の
サイトで確認できます。
 http://www.gensetsu.com/20120922terado/doc1.htm

4.物集女車塚古墳


上の写真は物集女(もずめ)車塚古墳の遠景です。
10時からの受付に対して8時30分頃に物集女車塚古墳に到着した為
スタンプラリーを準備されているスタッフの方以外誰もいない状態で
無理をお願いして特別公開の石室内の写真も撮らせていただきました。





上の4枚の写真は物集女車塚古墳石室内部です。


上の写真は石室関連説明板。



上の写真は物集女車塚古墳の航空写真、墳丘平面図です。

全長約45m、高さ8mの古墳時代後期(6世紀中葉)の前方後円墳。「車塚」という
名は、付近で火葬された淳和天皇の柩を運んだ車を埋めた塚だということから
この名前になったとのこと。



上の写真は石室と石棺の現地説明板。





上の4枚の写真は「現在も機能する石室の排水溝」と題した説明板です。

5.元稲荷古墳


上の写真は元稲荷古墳の遠景です。



上の写真は元稲荷古墳の現地説明板。

古墳時代前期(4世紀初頭)の全長約94mの前方後方墳
神戸市の西求女塚古墳とは双子のように形状が類似している。また、
卑弥呼の墓という説のある箸墓古墳と相似形であることは以前から言われており
大王墓とされる西殿塚古墳と1/2.5の相似形で築造されたことでも有名


上の写真は石室の天井石です。




上の写真は文化資料館の玄関前に展示の元稲荷古墳の石室天井石の展示と説明


上の写真はスタンプラリーのスタンプです。

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大極殿巡る回廊跡が出土 京都・長岡京跡、規模解明の資料に

2015年10月26日 16時02分36秒 | 京都情報
大極殿巡る回廊跡が出土 京都・長岡京跡、規模解明の資料に

2015年10月25日 12:27 産経新聞

京都府向日市鶏冠井(かいで)町の長岡宮跡から宮の中心施設、大極殿を取り囲む大極殿院回廊跡の一部が出土し、市埋蔵文化財センターが発表した。柱を立てるための礎石の地固め跡や回廊の両端を示す溝状遺構などで、同院回廊の規模や構造がひと目でわかるような出土例はこれまで少なく、同センターは回廊の規模を解明できる資料としている。

 遺跡範囲確認のため回廊北西角の約250平方メートルを調査。小石まじりの直径約1・2メートルの礎石の地固め跡が8カ所で確認できたほか回廊の南北の両端から溝状の遺構が出土した。

 柱は3本一組として南北に2・4メートル間隔で並び、廊下の中央を板塀で仕切る複廊形式。また東西柱の間隔は3・6メートルだった。

 溝状遺構は廃都時、回廊廊下の側面を飾るためブロック・板状に加工した凝灰岩(ぎょうかいがん)製の化粧石を抜き取った跡とみられる。内部からは抜き取り中に割れたとみられる石の破片も発見された。

 両側の溝状遺構の位置から回廊の幅は8・15メートルと復元できるが、化粧石を抜き取るときに廊下がえぐられていたため、本来の回廊の幅はこれまで推定されてきた通り8・29メートルで間違いないことが確認された。

 また5世紀後半に築造された古墳を破壊して造成していたらしく、多数の埴輪(はにわ)片も出土した。

 同センターは「大極殿院回廊は調査面積が狭かったり、データが古かったりして、全容が確実につかめていなかったが、今回の発見でほぼ解明できた」と話している。

     ◇

 現地説明会は25日午後2時から。スマートフォンやタブレット端末から当時の建物の復元CGを見ながら巡れるアプリも用意しているという。


現地説明会の写真を添付しておきます。







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長岡宮跡の訪問記 on 2015-10-25

2015年10月26日 06時37分48秒 | 京都情報
2015年10月25日14時から、京都府向日市鶏冠井町大極殿55-2他で進められている
長岡宮跡第508次調査の発掘現場で現地説明会がある為出かけました。

長岡京は784年から794年の10年間山城国乙訓郡に存在した日本の首都である。
延暦3年(784)11月11日、桓武天皇(737-806 天皇在位は781-806)の命により
奈良の平城京より遷都された。

Wikipediaに平城京より長岡京に遷都された理由について詳しく解説されて
いるので引用させていただきます。

「続日本紀」に桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されている。
「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し
種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は種継の実家があり、支持基盤がある
場所でもあった。その他の理由として、

1)既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く
2)新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係
3)父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻った事による人心一新
4)難波津の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国の東西間交通の接点
  としての地位を失い(難波津-大和国-鈴鹿関ルートの衰退)、代わって三国川
(現在の神崎川)の工事の結果、淀川-山背国-琵琶湖・近江国のルートが成立
 したこと(長岡遷都と難波宮廃止が同時に決められている)
[出典 1]北村優季「長岡平城遷都の史的背景」
   (初出:『国立歴史民俗博物館研究報告』134集(2007年)/
    所収:北村『平城京成立史論』(吉川弘文館、2013年)
    ISBN 978-4-642-04610-7


一方、長岡京から平安京に遷都された理由について
山川出版の「詳説 日本史図録 第2版」(2008)によれば
1)仏教政治と断絶し、天皇権力の強化を企図
2)桓武天皇の母方である渡来系氏族と関係の深い土地
3)水陸の交通が至便
4)天武系から天智系への皇統の変かに伴う人心の一新


また、延暦11年(792)の大洪水や桓武天皇の弟である早良(さわら)親王の死、
さらに造長岡宮使 藤原種継暗殺事件にかかわる怨霊への恐怖などが
延暦13年(794)10月22日の平安遷都の最大要因であるとの説が有力である。


参考のため上記山川出版「詳説 日本史図録 第2版」(2008)より天皇家の系図
及び長岡京と平安京の位置について引用させていただきます。(Page61)





まず、長岡京の概要から

上の写真は朝堂院公園の説明版による長岡京全体図です。
東西4.3Km、南北5.2Kmの区域で、現在の長岡京市、向日市、大山崎町および
京都市の三市一町にまたがっています。
今回は長岡京の政治の中心である大極殿、朝堂院がある向日市を中心に観て
来ました。


上の写真は広域地図で長岡京の位置と平城京、難波宮から瓦が持ってきた事を
示すものです。



上の写真は同じく朝堂院公園の説明版からで大極殿、朝堂院の模型と周辺地図です。


上の写真は大極殿公園の説明板による大極殿を中心とした説明。


上の写真は向日市文化資料館の資料に現地説明会のトレンチ場所を重ねた
ものです。

それでは14時から行われた長岡宮大極殿院回廊北西隅の現地説明会について
話題を替えます。

推定で200名ほどのファンが説明に耳を傾けた。

回廊は推定で東西約105m、南北121mである。回廊は3本の柱で支える構造の
複廊と呼ばれるもので奈良時代に建立された薬師寺の回廊と同じ構造との説明
がありました。今回の調査の成果は下記の3点であるとの説明がありました。
(1)大極殿北面回廊の礎石据え付け穴及び東北の凝灰岩の抜き取り  
   痕跡を検出(凝灰岩は平安京で使用)
(2)大極殿院内部の石敷及び長岡京期整地土を検出
(3)回廊下層から埋没古墳を検出


上の写真は現地説明会の配布資料の第1図です。


上の写真は今回の現場付近の当時の姿を再現した説明板です。


上の写真は大極殿の説明。






上の写真は発掘現場からの出土品の一部です。

これらの中で「長岡京第1回発掘記念」と書かれた湯のみ茶碗が出土したことも面白い。
昭和30年当時に故小林清先生が調査に当られており小林先生の旧宅址が今回の
発掘現場であることからか?


上の写真は説明会のメイン会場のトレンチ3の遠景です。

スマートフォンやタブレット端末のアプリ「AR長岡宮」で見られる建物の
復元CGを観れた。(下の2枚の写真)






上の写真は毎年11月11日に実施される大極殿祭の様子です(現地説明板)

参考として2015年6月7日に訪れた平城京大極殿(復原)の写真も添付しておきます







上の3枚の写真は2015年6月7日訪問時に撮った現地(平城京跡)の説明版より
平城京全体を概観したものです。






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