CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

宇治上神社 on 2008-2-10

2015年07月06日 06時50分48秒 | 京都情報
我が生まれ故郷宇治市にある世界遺産「宇治上神社」について紹介します。

宇治上神社から100m位の所に住んでいました。
BSTBSで7月8日 21時から高島礼子さんが「宇治と世界遺産」という番組が
あるということで2008-2-10の宇治上神社の写真紹介していきます。


宇治上神社は応神天皇の皇子で兄仁徳天皇に王位を譲るために自殺したと
伝えられている莬道稚郎子(うじのわきいらつこ)の離宮桐原日桁宮
(きりはらひげたのみや)の旧跡と伝えられています。

宇治上神社の基本情報
住所:宇治市宇治山田59  TEL:0774-21-4634
御祭神:菟道稚郎子尊(うじのわきいらつこのみこと)
    応神天皇(おうじんてんのう)
    仁徳天皇(にんとくてんのう)
Wikipedia:https://en.wikipedia.org/wiki/Ujigami_Shrine
Facebook:https://www.facebook.com/pages/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE/116128025254388?rf=112658935412951
Japan guide:http://www.japan-guide.com/e/e3978.html
創建:不詳だが神社の建築は1060年に建立
 2005-2-27の日経新聞の記事によると宇治上神社の本殿に使われた木材を
 年輪年代測定した結果1060年頃の建立と判明した。
 詳細はコチラ


現在は平成6年(1994)12月17日に世界遺産に登録されたことから参拝客も多い。
源氏物語の宇治十帖での主要人物である光源氏の異母弟宇治八宮の庵は
宇治上神社の周辺と設定されています。
宇治神社と一対として建てられた神社で、「宇治離宮明神」、「離宮八幡」などと
呼ばれていた古称にちなみ、「離宮下社」と呼ばれていた宇治神社に対し、
「離宮上社」と呼ばれていました。






上の3枚の写真は宇治上神社の説明版です。











上の4枚の写真(2008-2-10撮影)は本殿でなかには内殿3棟が並立しており
それを覆い屋で覆った特殊な形式で11世紀中頃に造営された現存する
神社本殿最古の建築である。

内部の 左殿:菟道稚郎子命 (うじのわきいらつこのみこと)
    中殿:応神天皇
    右殿:仁徳天皇


上の写真は本殿覆屋内の右殿で応神天皇が祀られています。


上の写真は手前が鎌倉時代建立で藤原氏の氏神を祀る春日社。奥が本殿。


上の写真は本殿、拝殿、春日社が写ったものです。









上の写真は拝殿。




上の写真は宇治の七名水の一つ桐原水の覆い屋と説明版


上の写真は石座の上に小石が積み上げられた様子。


上の写真は春日社。祭神:建甕槌命、天児屋根命
 鎌倉時代の建築物で国の重要文化財に指定されています


上の写真は住吉神社(左側)と香椎社(右側)


上の写真は厳島社。


上の写真は武本稲荷社。

年間祭事
 1月1日 歳旦祭
 1月15日 日待祭
 5月1日-5日 春季例大祭 - 宇治市槙島町の氏子が5月5日の本祭を執り行う
 9月1日 八朔祭(通称 砂持ち)
 10月14日 日待祭
 12月15日 新嘗祭







上の写真は宇治市教育委員会が作成したリーフレットで古都京都の文化財のリスト
が写真とともに紹介されています。

我が生まれ故郷の宇治からは平等院と共に本日のテーマ宇治上神社が世界遺産の
リストに入っています。

宇治茶で有名な伊藤久右エ門のサイトに本殿の蟇股(かえるまた)について
書かれています。リンクさせていただきます。
 http://www.itohkyuemon.co.jp/site/kyoto/tuu201.html


参照サイト:
 http://www.greenshinto.com/wp/2013/01/02/hatsumode-ujigami-shrine/













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坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の碑(近江屋跡) on 2014-12-17

2015年04月02日 04時58分38秒 | 京都情報
2014年12月17日に坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の碑(近江屋跡)の写真を
撮りましたので紹介します。

所在地は河原町通りに面している回転寿司の京のとんぼ(四条河原町店)
の前で住所は京都市中京区河原町通蛸薬師下る塩屋町330
Goo地図はこちら
 

京のとんぼはかっぱ寿司が展開する店で食べ放題コースを売りとしています。


上の写真が坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の碑(近江屋跡)で坂本龍馬の像(下の写真)
も掲示されています。





上の写真は説明版です。








上の写真は説明版の拡大版です。(日本語、英語、中国語、ハングル語)


上の写真は坂本龍馬・中岡慎太郎先生銅像(丸山公園内)
撮影:2010-6-24


上の写真は近江屋で無念の死を遂げた坂本龍馬、中岡慎太郎、藤吉の墓前
にある坂本龍馬・中岡慎太郎先生銅像(旧霊山官修墳墓内)
撮影:2010-6-24

霊山(りょうぜん)神社から入る明治維新史蹟「旧霊山官修墳墓」には、明治
維新の誕生につくした志士たち1043名の霊(みたま)が祀(ま)られています。
木戸孝允(桂小五郎)の勅撰碑、池田屋の犠牲者、坂本龍馬、中岡慎太郎及び
藤吉の墓、禁門の変で散った長州の久坂玄瑞、来島又兵衛、入江九一、
寺島忠三郎安政の大獄で処刑された若狭藩士の梅田雲浜(うんひん)
天誅組の吉村寅太郎(武市瑞山・坂本龍馬・中岡慎太郎などとともに
「土佐幕末四天王」と呼ばれていた)などが眠っています。


京都霊山護国神社は、明治元年(1968)5月に、明治維新の実現のために倒れた
志士たちの霊を慰めるために、明治天皇の発案で創建された神社です。


坂本龍馬に関する簡単な年譜を添付しておきます。

-天保6年(1836)、1月3日、現在の高知県高知市上町(高知城下)に生まれる。

-天保8年(1838)、2月大塩平八郎の乱

-弘化3年(1846) 龍馬12歳
 母の幸が急死 永眠する。
 小高坂の楠山塾で学ぶが6ヶ月で退塾。

-嘉永元年(1848) 龍馬14歳
 高知城下の日根野弁治の道場へ入門し下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。

-嘉永6年(1853)  龍馬19歳
  1月 日根野弁治から小栗流和兵法(柔術)の目録を伝授される
  3月17日 江戸遊学のため土佐を出立
  4月、剣術修行のため江戸(東京都)に出て、北辰一刀流剣術開祖
   千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場(小千葉道場)に入門する。
  6月3日にアメリカ東インド艦隊司令長官マシュー ペリーが率いる4隻の
  軍艦が浦賀に来航、龍馬も土佐藩の一員として浜川台場から黒船を遠望する。
  12月には佐久間象山の私塾(西洋砲術)にも通っている。

-嘉永7年(1854)  龍馬20歳
   日米和親条約が締結される
   -安政元年(1854)に土佐に帰郷。
   幼なじみの近藤長次郎の紹介で画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。
    (ジョン万次郎からの情報を絵に描く)
   日米和親条約 引き続き日英、日露、日蘭和親条約締結 
  
-安政2年(1855)龍馬21歳、父・八平が永眠する。
-安政3年(1856)龍馬22歳、再び江戸・小千葉道場に遊学。
-安政4年(1857)龍馬23歳、盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。
   この事件については小生のBlogを参照してください。

-安政5年(1858)龍馬24歳、剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝(長刀目録)。
   日米修好通商条約 6月19日(現在暦では1858年7月29日)
コレラの流行 死者約20万人
   9月 安政の大獄始まる

-安政6年(1859)龍馬25歳、
   4月 吉田松陰、江戸へ護送される
   5月17日 漂流中に米国船に助けられた浜田彦蔵がアメリカから長崎に帰着

-安政7年、万延元年(1860) 龍馬26歳
   2月26日 咸臨丸、サンフランシスコに到着
   3月3日 桜田門外で大老井伊直弼暗殺される

-万延2年、文久元年(1861) 龍馬27歳
   8月 江戸で武市半平太ら土佐勤王党を結成
   10月20日 皇女和宮の一行が京を出発

-文久2年(1862) 龍馬28歳
   1月14日~ 龍馬萩で薩長士連合密議
    3月 龍馬脱藩 勝海舟に師事

-文久3年(1863)龍馬29歳
   1月8日 坂本龍馬の斡旋で高松太郎・千屋寅之助・望月亀弥太ら勝海舟門下となる
   8月18日の政変 翌日七卿落ち(長州藩へ)
   9月23日 井上聞多・伊藤俊輔ら長州ファイブ、ロンドンに到着

-文久4年、元治元年(1864)龍馬30歳 神戸海軍操練所時代
   6月5日 新撰組 池田屋襲撃
   7月18日~20日 禁門の変
   8月2日 幕府、長州藩征討令を35藩に命じる
   8月5日 4ヶ国艦隊17隻、下関砲撃を開始
  11月10日 勝海舟、神戸海軍操練所を免職となる

元治2年 慶応元年(1865) 龍馬31歳 薩長同盟に奔走
   5月6日 坂本龍馬・土方久元と桂小五郎、下関で薩長同盟について会合
   5月24日 坂本龍馬、大宰府の三条実美を訪問し薩長同盟案を示す


慶応2年(1866) 龍馬32歳

慶応3年(1867)龍馬33歳
  6月9日   船中八策
  11月15日 近江屋で刺客により殺害される







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レストラン オーク in ホテル京阪京都13階 でのディナー on 2014-12-16

2014年12月28日 05時11分33秒 | 京都情報
2014年12月16日にレストラン オーク ホテル京阪京都でディナーをいただきました
ので写真紹介します。

レストラン オーク ホテル京阪京都の基本情報

住所:京都市南区東九条西山王町31 ホテル京阪京都 13階
TEL:075-671-8909
料理ジャンル:洋食
公式HP:http://www.hotelkeihan.co.jp/kyoto/restaurant/oak/


ビュッフェ形式の本日のオードブルです。
サーモンが美味しくてサーモンを中心にいただきました。
グラスワインもいただきました。


次にスープが出てきます。


次にサラダ。


メインは4種類の中から選択します。
私は鹿ロース肉と鶏ミンチの白菜包みにソース・ポワブラードを選択しました。


上の写真は奥様が選択した平目のムニエルに生ハムを添えて
ホワイトアスパラ風味のクリームとバルサミコソースです。


デザートで締めとなりました。



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美濃吉 ホテル京阪京都店での朝食 on 2014-12-17

2014年12月27日 06時27分52秒 | 京都情報
2014年12月17日に美濃吉ホテル京阪京都店で朝食をいただきましたので
写真紹介します。

美濃吉 ホテル京阪京都店の基本情報

住所:JR京都駅八条口前・ホテル京阪京都13F TEL:075-671-8916
料理ジャンル:和食

公式HP:http://www.minokichi.co.jp/profile/shop14/index.html



上の写真は「京の朝粥膳」


上の写真は中身の説明

ヘルシーで美味しい料理でした。


上の写真は美濃吉 ホテル京阪京都店から京都駅八条口(南口)を撮ったものです。






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安国寺恵瓊の首塚 in 建仁寺方丈庭 on 2014-12-17

2014年12月22日 06時34分59秒 | 京都情報
昨日(2014-12-21)、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の最終回が放映されました。

その中で慶長5年(1600)10月1日、六条河原で斬首される前に黒田長政が
石田三成、小西行長、安国寺恵瓊と話をしている場面がありました。

その中で安国寺恵瓊は黒田長政に対して「小早川、吉川両家を調略していたとは
さすが黒田官兵衛の息子」と言葉を掛けた場面が印象的であった。





上の写真はNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」最終回の一場面。
捕らわれた安国寺恵瓊。

上記に刺激され「安国寺恵瓊の首塚 in 建仁寺方丈庭 on 2014-12-17」の記事を
書くことになりました。


上の写真が建仁寺方丈の庭にある安国寺恵瓊の首塚です。


上の写真は説明書きです。

読みづらいと思いますので要約転記したものを添付しておきます。

安国寺恵瓊首塚
安国寺恵瓊は天文7年(1538)、安芸国守護職武田氏の一族として生まれた。
天文10年(1541)、大内氏との戦いで武田家が滅亡し、当時4歳だった恵瓊は
安国寺に身を寄せることになる。以後12年間を建仁寺で仏法修行に精進し、
16歳の時に生涯師と仰ぐことになる笠雲恵心に巡り合う。
この直後、恵瓊は京都東福寺へ入り、五山禅林の人として修行を重ねた。
そして、恵瓊35歳の時に、正式に安芸安国寺の住持(住職)となる。
この頃から毛利氏の外交僧として活躍を始めたとされています。
羽柴秀吉率いる織田軍が中国地方へ侵攻し、毛利氏を攻めた時には毛利氏の使者
として秀吉との交渉に当たりました。
このときに秀吉との繋がりが深まったと言える。
やがて天下人となった豊臣秀吉は、恵瓊を直臣の大名に取り立て
伊予二万三千石を与えました。
また恵瓊は、建仁寺の方丈移築をはじめとして東福寺の庫裏の再建など多くの
功績を残しています。
慶長5年(1600)の関が原の合戦において、恵瓊の主家であった毛利氏を
石田光成らの西軍に味方させ、恵瓊自身も西軍の最高首脳として活躍するも、
小早川秀秋が東軍への寝返りがあり西軍は敗退してしまいました。
恵瓊は、毛利家西軍加担の罪により、同年10月1日に京都六条河原で斬首
されました。享年63歳でした。
この首塚はその恵瓊の首を建仁寺の僧侶が持ち帰り、
ゆかりのある建仁寺方丈裏に葬ったものである



上の写真は建仁寺境内図です。
方丈の位置は北側(上の方)にあります。

建仁寺の基本情報

住所:京都市 東山区大和大路通四条下る四丁目小松町584
TEL:075-561-0190
山号:東山  御本尊:釈迦如来
宗派:臨済宗建仁寺派大本山 京都五山の3位
開山:栄西  開基:源頼家

公式HP:http://www.kenninji.jp/

公式サイト以外で建仁寺について詳しく纏められたサイトへのリンク

 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_05_08.htm

 http://takaoka.zening.info/Kyoto/Gion/Kenninji_Temple/index.htm

 http://www.rinnou.net/cont_03/12kennin/


東福寺客殿の中の茶室作夢軒で安国寺恵瓊、石田三成、宇喜田秀家らが関が原の
戦いの軍議が行なわれました。


関連サイトへのリンク(小生のブログ)
 東福寺訪問記 on 2011-12-29
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東寺(教王護国寺)訪問記 on 2012-9-5

2012年09月10日 07時35分51秒 | 京都情報
東寺(教王護国寺)訪問記 on 2012-9-5


2012年9月5日(水)に東寺(教王護国寺)に行ってきましたので写真紹介します。

東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある全ての真言宗寺院の総本山、
根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある寺院。
「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる
ユネスコの世界遺産には平成6年(1994)12月17日に登録された。
東寺の基本情報
住所:京都市南区九条町1番地
tel:075-691-3325   宗派:真言宗 山号:八幡山
本尊:薬師如来
札所等:
真言宗十八本山第9番
西国愛染十七霊場第8番
洛陽三十三所観音霊場第23番
京都十三仏霊場第12番
都七福神(毘沙門天)
 神仏霊場巡拝の道 第84番 


Wikipediaより東寺の歴史(由緒)について引用させていただきます。

8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」(さいじ)
という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の
左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という
意味合いを持った官立寺院であった。

南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後
まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人という人物が造寺長官(建設工事責任者)
となって建立したという。藤原伊勢人という人物については、公式の史書や系譜には
その名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの
796年を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年(823年)、
真言宗の宗祖である弘法大師空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。
この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。

東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりと
ともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。
中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院(1181年 - 1252年)
であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。
また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を
捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)
などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているが
ごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の
西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日
には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。

中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の
援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、
豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。
何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・
講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の
 規模は平安時代のままである。

国宝の五大明王像
上の写真は東寺(教王護国寺)の五大明王 平安時代の作
これら5体の仏像は国宝に指定(昭和27年(1952)3月29日)されています。
わが国の最古例は空海が神護寺五大堂に安置したものだが現存しない。
よって、東寺の講堂に安置の五大明王が現存最古であると言えその後に製作された
五大明王の見本となり影響を与えています。
出典:永久保存版 仏像入門 必見の219体「一個人」KKベストセラーズ(2010)
   Page78-79




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