NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第10回 毛利来襲(2014-3-9放送)の舞台となった英賀城跡について
2014年8月2日17時48分からのNHK番組「ひょうご 官兵衛を訪ねて」で紹介されていましたので
その内容を中心として過去の訪問記も加えて紹介します。
姫路の黒田官兵衛ゆかりの地訪問記 on 2014-6-25 その7 亀山本徳寺
英賀城跡と英賀合戦
なお、第10回の放送日にも官兵衛紀行で英賀城土塁跡が紹介されていました。
まず英賀城跡の所在地について空から写真を交えて紹介(上の写真)
英賀城跡と英賀合戦でも地図を添付。
毛利来襲のあったのは天正4年(1567)5月のことです。
小寺政職が織田方に味方するとの情報を知った毛利輝元は天正4年(1576)5月、
毛利軍の浦宗勝(うらむねかつ)が5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある
英賀村(あが村=兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸します。
浦宗勝の本陣は播磨における一向宗の拠点英賀御堂です。
上の写真は毛利軍の水軍5,000が上陸した田井ケ浜です。当時の海岸線は新幹線が通っているあたりだった。
黒田官兵衛、夜明けに500の兵で毛利軍を急襲。毛利兵は撤退し勝利を得る。
ドラマでは前線の後方にいた農民が太鼓、法螺、旗をかざして援軍が来たように毛利軍に
思わせたため百戦練磨の毛利の猛将、浦宗勝に退陣の判断をさせた。
英賀合戦の勝利に対し黒田官兵衛は信長より荒木村重を介して感状を受けています。
織田信長はこの頃安土桃山城を築城しており、石山本願寺を包囲していた信長軍勢は
天王寺砦で苦戦しており信長自ら前線に参戦、足に銃弾を受けて落馬するが秀吉の
鉄砲隊に危ういところを救出される場面がありました。
上の写真は英賀神社の正面入り口と裏手の土塁跡です。
上の写真は司馬遼太郎の播磨灘物語の碑です(英賀神社内)
上の写真はかって英賀御堂のあった夢前川です。
英賀御堂の位置は前述の英賀城跡と英賀合戦の一番上の地図に
載っていますので参照してください。
上の写真は明蓮寺と明蓮寺の境内にある英賀本徳寺跡(英賀御堂跡)の石碑です。
天正4年(1567)7月摂津・木津川の河口で石山本願寺へ兵糧を運びこもうとする毛利軍と
それを阻止しようとする織田軍が激突、織田の水軍は大敗し官兵衛にも新たな危機を
もたらすことになる。
2014年8月2日17時48分からのNHK番組「ひょうご 官兵衛を訪ねて」で紹介されていましたので
その内容を中心として過去の訪問記も加えて紹介します。
姫路の黒田官兵衛ゆかりの地訪問記 on 2014-6-25 その7 亀山本徳寺
英賀城跡と英賀合戦
なお、第10回の放送日にも官兵衛紀行で英賀城土塁跡が紹介されていました。
まず英賀城跡の所在地について空から写真を交えて紹介(上の写真)
英賀城跡と英賀合戦でも地図を添付。
毛利来襲のあったのは天正4年(1567)5月のことです。
小寺政職が織田方に味方するとの情報を知った毛利輝元は天正4年(1576)5月、
毛利軍の浦宗勝(うらむねかつ)が5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある
英賀村(あが村=兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸します。
浦宗勝の本陣は播磨における一向宗の拠点英賀御堂です。
上の写真は毛利軍の水軍5,000が上陸した田井ケ浜です。当時の海岸線は新幹線が通っているあたりだった。
黒田官兵衛、夜明けに500の兵で毛利軍を急襲。毛利兵は撤退し勝利を得る。
ドラマでは前線の後方にいた農民が太鼓、法螺、旗をかざして援軍が来たように毛利軍に
思わせたため百戦練磨の毛利の猛将、浦宗勝に退陣の判断をさせた。
英賀合戦の勝利に対し黒田官兵衛は信長より荒木村重を介して感状を受けています。
織田信長はこの頃安土桃山城を築城しており、石山本願寺を包囲していた信長軍勢は
天王寺砦で苦戦しており信長自ら前線に参戦、足に銃弾を受けて落馬するが秀吉の
鉄砲隊に危ういところを救出される場面がありました。
上の写真は英賀神社の正面入り口と裏手の土塁跡です。
上の写真は司馬遼太郎の播磨灘物語の碑です(英賀神社内)
上の写真はかって英賀御堂のあった夢前川です。
英賀御堂の位置は前述の英賀城跡と英賀合戦の一番上の地図に
載っていますので参照してください。
上の写真は明蓮寺と明蓮寺の境内にある英賀本徳寺跡(英賀御堂跡)の石碑です。
天正4年(1567)7月摂津・木津川の河口で石山本願寺へ兵糧を運びこもうとする毛利軍と
それを阻止しようとする織田軍が激突、織田の水軍は大敗し官兵衛にも新たな危機を
もたらすことになる。