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神戸海軍操練所開設150年 記念式典 on 2014-8-30

2014年08月31日 14時44分45秒 | 神戸情報
<神戸海軍操練所>開設150年 勝海舟らの偉業しのぶ /兵庫(毎日新聞) - goo ニュース

勝海舟の子孫、咸臨丸の水兵、船大工などの子孫などで構成されている咸臨丸子孫の会のメンバー
ら30人以上の方々が一般社団法人グローバル人材育成推進機構が運営する帆船「みらいへ」に
乗り込み勝海舟など先人の遺徳を顕彰するイベントが2014年8月30日に開催されました。
記念式典は神戸海軍操練所開設150周年を記念して実施されたものです。

概略の予定表を添付しておきます。
日程: 平成26年8月30日(土)
場所: 神戸港/中突堤 帆船みらいへ前集合/乗船・式典
時間: 12時00分乗船 船内探検、咸臨丸子孫の会 会長のお話し

13時30分 出航~海から神戸海軍操練所に想いを馳せる~
15時30分/下船~徒歩にて跡碑へ

式典: 15時50分頃~神戸海軍操練所跡碑にて献花~
場所:跡碑は、JR三宮駅から南東へ、
     京町筋と海岸通の交差点の角NTTドコモビルの横。

懇親会 17時30分~咸臨丸子孫の会~皆さんと居酒屋で懇親会~

<一般参加も歓迎>
乗船費用¥7,000-(含式典花代等)懇親会費¥3,000-(参加自由)

主催 咸臨丸子孫の会
協力 帆船みらいへ、一般社団法人グローバル人材育成推進機構


NHKテレビ 2014年8月31日6時50分台のニュース(神戸で視聴)でもその様子が紹介
されていました。

まずはNHKテレビでの紹介画面から写真をお届けします。





上の写真は神戸市中央区の旧神戸海軍操練所跡での記念式典の様子です。
勝海舟の玄孫(やしゃご)の高山みな子さんと咸臨丸子孫の会の藤本増夫会長の

神戸海軍操練所について現地の碑文から引用紹介します。

 万延元年〈1860)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸
〈300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果した
のである。日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
文久三年(1863)4月攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防 備のため阪神海岸を巡視した。
当時海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随 行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港で
あることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。
勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.
その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の
人材が輩出したのである。
 元治元年=1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の
嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに
至ったのである。 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を
望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路
の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない
 今はただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの
救いである。


詳細は下記ブログを参照してください。
 http://seiyo39.exblog.jp/7771439/

さらにNHKテレビの番組で神戸について過分なお言葉を頂戴していますので写真紹介します。(下の2枚の写真)








上の写真は出航前の帆船「みらいへ」です。

2013年の夏、大阪市が多額の財政支出を理由に競売に掛けた帆船を落札し「みらいへ」と
名付けられました。
「みらいへ」の拠点は神戸港で一般社団法人グローバル人材育成推進機構が運営しています。
今年7月、市民らが操船作業を体験できる「セイルトレーニング」など帆船の特徴を
生かした取り組みが実施されています。


上の写真は出航前の船上での記念写真です。

Youtube投稿動画も添付しておきます。




勝海舟が海軍操練所を開設に当って神戸で勝海舟を支えた人物として網屋吉兵衛の名前を忘れては
なりません。

文永3年(1863年)、網屋吉兵衛は小野浜において将軍徳川家茂に謁見した。
家茂は吉兵衛に対し小野浜近辺を日米修好通商条約に基づく開港場とすることの
是非について問い、吉兵衛は「この地は港に最適でございます」と回答した。
謁見を仲介した勝海舟は船蓼場を神戸海軍操練所に組み込んで活用し、
船蓼場の所有権を取り戻すことができるよう便宜を図ると約束したが、実現しなかった。
神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
 元治元年=1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865)3月19日、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである
慶応3年(1867年)、兵庫港(現在の神戸港)開港に伴い、船蓼場(ふなたでば)は江戸幕府に
接収され東運上所(税関)の船入場として利用されることになった。
それに伴い10年以内に借金を返還すれば船蓼場を返還するという神戸村との
約束は消滅した。明治2年(1869年)9月5日、吉兵衛は死去した。
晩年は私財を投じて造った船蓼場が接収されたことを嘆き、死の間際も船蓼場の
ことを口にしていたという。」

網屋吉兵衛について以前に書いた記事にリンクしておきます。
  網屋吉兵衛の顕彰碑 on 2010-9-29

落合重信著「神戸の歴史 通史編」(1975)のPage133に掲載された
神戸海軍操練所の平面図を添付しておきます。



拡大版はこちら
  http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/img167REV1_1.jpg

神戸市立博物館のサイトの同じ平面図(原図の複写)が掲載されています。(下記)
 http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/150-1.html


大阪朝日新聞1917年(大正8年)1月6日に網屋吉兵衛が海軍操練所の場所として小野浜が
最適であると徳川家茂公の奏上したことを紹介している記事がありますので紹介します。
  開港前後の神戸 の記事(7)天下様に土民

出典・神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」
(所蔵・神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫)



読みにくいと思いますのでテキスト文を掲載しておきます。

の夢想郷である、勝は井伊直弼の強き意志に西郷隆盛の磊落な分 子を加味したような士で家茂公の如く小心翼々としていなかった、
家茂公は砂地に床机を据えて―その場所は現今の桟橋会社構内と思われる―悉細に勝の献議に 係る海軍営建設の候補地を見分した、
これは摂海防備の視察と相竣ちて重要な予定の一つだったのである、そこへ勝が
「前以て御聴聞に達しました二ッ茶屋村土 民網屋吉兵衛に拝謁を賜わりまするよう」と言上披露した家茂公も居並ぶ面々も下手の方へ視線を注いだ、
お天下様が一介の土民に拝謁を賜わるとは真に徳川幕 府創業以来未曽有の珍事である、が家茂公はそれを快諾するほど旧権威の仮面から眼醒めていた、
家茂公は輓近真理の権威が全国を動き出したのを知っている、 摂海防備上朝廷の干渉が姦ましくなったのも当然の成行だと思う、
或は下賎にも参考すべき資料は多いと諒解する、それで厳密に言えば、嘉納治郎作を摂海巡視 の水先案内とするに就き大阪出港前、天保山で彼に
拝謁を許したのを以て町人引見の嚆矢とせねばならぬ、ソは兎も角、抑も網屋吉兵衛とは何者ぞ
前回稿中「攘夷令を排す」とあるは拝すの誤

大阪朝日新聞1917年(大正8年)1月6日
  開港前後の神戸 の記事(7)天下様に土民


(七) 天下様に土民
百人余の武家が厳然と控えている面前を、稍や伏眼勝ちで進み来る網屋吉兵衛と言われたものは枯木の如き老翁であった、寒村の一土民とはいえ
羽織袴に威儀を 整え別に臆する色も無く御天下様の面前に鰭伏した面附に利かぬ気が走る、「近う」御天下様の声はやさしかった、
吉兵衛はそれが誰であるか知らなかった、只 勝安房寺が側近に侍して居るので幕府の豪い役人だろうとは想像した、此のとき勝は海軍奉行、
曩に海軍営候補地下見分の為家茂に先立ち神戸村へ来たことがあ りその際吉兵衛を引見して其功を賞し今回の御目見得も全く勝の奏薦に基いている、
「其方は幾歳か」家茂公は軽く尋ねた「七十九歳に候」吉兵衛は御答申上げ る「其方が過分の尽労は承知致居る、老体の出所大儀に存ずるぞ」
吉兵衛を犒う家茂公は併し他の事を頭に浮べていた、今正陛下が去十一日自分に攘夷の節刀を 授けらるべく男山行幸の供奉を仰付けられし砌病と
称して道中から引返してきた苦しい心持ちが又も胸に上る、家茂公は兵庫開港の必要を思うの念で一杯である
「近々此の地を以て夷人との交易を得させる開港地と為さん所存であるが其方は如何思うぞ」吉兵衛に対し斯く続けた家茂公の言葉は殆ど無意識的であった、
そ れは実に攘夷令の僅々三日後にして尚兵庫開港の避くべからざりし趨勢を暗示したものと吾人は解するのである、
吉兵衛は「六甲摩耶方面より吹き下す風は沿岸 の風波を高むるに至らず反って海底の土砂を沖合に運び去り万代変らぬ深海の良港にて船舶集散の最適地とこそ存申候」と
年来の経験を奉答した、これは今でも 事実で神戸港は天然の六甲連山と俊乗坊の和田岬とに護られて、北風と西風との影響極めて少く暴風の日陸上の人が
海岸に出で案外の感をなすほどである、之に 反し遮屏物を見ざる東と南との風には脆く暴露しているので二十世紀の国家的大築港工事における防波堤築造も
後者の両風に応ずる設備を力めている次第であ る、また吉兵衛が深海の良港と申した意義に就き進歩した二十世紀の海事眼に照せばその余程低級なものであるべきは
思料せられるが、見る影も無き一寒村の当 時にして、並居る武家の面前に此の確信の言をなす網屋吉兵衛はよも尋常人ではあるまい、
吉兵衛は尚も御天下様より厚き賞辞の数々に預り面目を施して御前を 退出した、家茂公や勝奉行は再び海軍営計画の談合に移った……
吉爺は後刻それが御天下様であったと神戸村役人より聞き天に昇った様に狂喜し晩年の大労苦も 之れを一洗し去りたるを感じた―神戸の開港史を綴る上には
吾人は断じて一土民吉爺を逸することが能きぬ殷賑の兵庫港は既に遠き昔清盛入道が大築港工事有 り、千石船の碇泊港たる偉観は逸く形体をなしていたが
以東の沿岸は川崎浜弁天浜、小野浜などが貧弱な小舟の泊に便しているにすぎなかった、

写真(網屋七兵衛翁肖像と船据場本物取替の一札(当主吉兵衛蔵))あり 省略]




吉爺は実に斯か る僻陬の一寒村に在りて神戸築港を着眼した最初の人傑である、
尤もそれ以前に海岸設備が全く放擲されていたわけではない、文政十一年に神戸村が議員二百七 十名の頼母子講を組織し防波設備の修覆を企てた事実が文書となって伝えられている、
吉爺の時代と相前後して外に築港を企てた者も二三有ったが失敗に帰した 吉爺が不撓不屈の大精神は独り彼をして名をなさしめたのである
補記 前回において家茂公一行が和田神社辞去後直に順動丸に乗船し神戸村に向ったように書いたが其後調査の結果一行は和田岬より本町筋、西出町を 経て
東出町の船舶給水所(当時兵庫港出入船のため比較的大規模の井戸水を用意す)附近海岸に出で其処より乗船して東したるに相違無き旨判明した、
一行百余 名中に裏金の陣笠、納戸色のぶっさき羽織、野袴という同じ装いの大将株が三人有って一見どれが将軍様だか判じ兼ねたが只家茂公は齢が若くそして
陣笠に綺麗 な紫色の紐を締めていたので区別し得たという、他の二人とは恐らく小笠原老中と勝安房守であろう、尚家茂公が乗船の際兵庫市中通御の道中穿いていた草鞋を
ポイと後方へ投棄てたところ遠方に土下座して拝観していた町民の一人がそれを拾い有難涙を流して恭しく額に押し戴いた、すると側より素早く草靴を掠め懐中 して
一目散に逃げ出した奴が有ったという珍談が残っている、以て当時の極端な官尊民卑思想を窺知するに足るべく同時に網屋吉兵衛拝謁の如何に破格の取扱い なりしやを想うの反証となるであろう。

大阪朝日新聞1917年(大正8年)1月9日
 開港前後の神戸
(八) 神戸築港の濫觴

網屋吉兵衛は天明五年摂州八部郡二ッ茶屋村の内、城下町に生れた、天明五年といえば日本の辺境が騒がしくなり出した寛政の前で、
生れた家は恰も現今の元町 四丁目鉄道二番踏切の西五軒目に該当する、矢張当時の二ッ茶屋村に該当する元町五丁目に現今洋反物商を営んでいる
城田吉兵衛氏は本人の孫にして八代目の相 続に係る、同家の系図に徴するに城田姓は本人の長男即ち七代吉兵衛が明治三年九月太政官達を以て
一般町民の苗字を称する件允許有りたる際に定めたるもので あるが元禄頃の初代が城田吉太夫と称していた先例が有る、
元来居村城下町の名は北隣の花隈村に花隈城の存したる因縁に基き城田姓も同様の事情に依ると信ぜ られる
網屋とは二代目から六代目の本人に亙り使用せられた屋号であって、網屋の号が直に海を連想させる通り東隣の走水村や神戸村が農家を主としたるに
反 し二ッ茶屋村には西方兵庫港の繁栄に縁を繋ぐ船主だの船頭だのが多く初代吉太夫は肥後熊本藩の船手頭を勤め本人の父五代吉太夫も同様船手頭で
海の経験が浅 くなかった、本人吉兵衛が幼にして海事思想を培うたのは当然の感化で十一歳のとき兵庫三軒屋町荒物商豊後屋徳三郎に
丁稚奉公にやられたけれど彼の眼は常に 出船入船で賑う海岸に注がれていた、それも茫然と眺めていたのでは始まらぬが彼の烱眼は早くも
兵庫港の一大欠陥を発見したのである、と申すのは兵庫港を始 め摂海沿岸に一の船据場之を現代語に翻訳せば船渠のない事だ、
往来の大小船舶は屡船底を焚●して附着せる貝殻海草類を除外し或は修繕を加うるの必要を見る に拘らずその際遥々設備の拙い讃岐多度津の
船据場に赴かねばならぬので不便を喞つの嘆声が高い吉兵衛少年が毎夜主家の繁務を済ませてから私かに築島の浜に 出でて潮の満干を査し
海の深浅を計る頃には小さい胸に大なる一物が宿っていた、ある日決心を輝く双眼に現わし主人の前に船据場造築私案を持出したが
「何ン だ、子供の癖に……」と相手にもされない、野心は反って一層燃えた、奉公の年期満つるや吉兵衛は二ッ茶屋に帰村し呉服雑貨商を開業した、
彼が意志の頑強に 加うるに一種の天才を具有していたことは足袋縫機械を発明し一日優に百足分の足袋底を刺し巨利を博したという逸話に察せられる
、当主吉兵衛氏が家督相続の 砌には該機械の破片が残存していたそうである、さて本題の吉兵衛は呉服雑貨の商法に励む傍ら旧の如く夢寐にも
船据場計画を念頭から放さなんだ、長男吉五郎 (七代吉兵衛幼名)二十五歳の年、隠居の身となり専ら船据場の実現に憧がれるに至りし
吉兵衛は一日海路大阪行の船中に二ッ茶屋村年寄天満屋善四郎及び船主 石野屋徳右衛門と乗合せ世間話の末年来の宿望を打明けた、
始終肯ずいていた二人は膝を進めて大賛成、大阪着後船宿で熱心に断行を勧説し




吉兵衛も内心決する 所有り、遂に安政三年四月家族の大反対を冒して幕府代官川上金吾之助に宛て設立願書を提出した、時に七十二歳の高齢である、
同様設計の船据場は近国に許可 せざるべしとの有難き条件附で特許は与えられた、翁は欣喜雀躍、直に隣の神戸村安永新田浜を相し私財を投じて起工す、
以後の苦心談は迚も書き尽せぬから省 略するが三年の日子を費し生涯の宿望は成功の域に達したのである、然るに翁の志は飽迄大きかった、
これは木材工事であったが翁は衰弱の老躯を奮い更に石材 変造工事を発心した、只悲しいことには翁の私財為に全く蕩尽、
剰つさえ負債山をなし江州の呉服問屋佐兵衛からは江戸表へ呉服物代銀弁償の出訴を受け当局か ら出府対訴の命に接した有様、されば第二計画は水泡に帰した、
家族はそれ見たことか、と翁に対し大不満であるが神戸村一統は翁の犠牲的悲境に満腔の同情を 寄せ協議の結果安政六年十一月村費を以て翁の負債代償、
同時に船据場は村方の管理に移った、但し神戸村の翁に差入れた譲受状一札は翁の功に酬ゆる為譲受後 も翁を船据場差配人とし且十箇年後には
譲受状表の本銀引換に据場有姿の儘にて返却の旨約した、此の約状を「本物取替の一札」と謂う翁が家茂将軍の海軍営候 補地見分の場で破格の拝謁を賜わりし際は
赤貧の一差配人時代であったが事業が国家的に認められたのは非境を慰めて余り有る光栄とせねばならぬ、
船据場は船 ●場とも称し船体修繕及び船底焚●用の船渠兼船舶定繋場にしてこれぞ神戸築港の濫觴と称して然るべきものである、
安永新田は現今の神戸税関並に桟橋会社の 敷地に該当するから京橋東詰の船入場は即ち吉兵衛翁の船据場の跡に外ならぬ、
吾人は宜しく二十世紀の築港眼を以て吉兵衛翁の企業の程度を軽視するをやめ て、如何に神戸港の運命に深甚の努力と期待とが背景となっているかに想到しなくてはならぬ、
吉兵衛翁は明治二年九月五日、家運再興の状に安堵しながら享年 八十五歳を以て極楽往生を遂げた、翁の霊は現在城ヶ口墓地に眠っている

大阪朝日新聞1917年(大正8年)1月10日
 開港前後の神戸
(九) 海軍営

家茂公が大阪に帰った翌二十四日、海軍奉行勝義邦は神戸村海軍営取建御用兼摂海防備使に任命せられた、摂海防備使とは非常な重任である、
摂海が直に京師の 御膝元に臨み是より夷狄の軍勢を進めん暁には本土の中断極めて易々たるべき軍事的意義は安政元年のプーチャチン麾下露鑑侵入以来著しく
攘夷論者を刺戟した ところで、幕府も与論に動かされ、同年始めて摂海防備使三名を任命したが、ペルリ来航以来対外関係愈多事なるに及び今や全日本の有識者が
摂海に視線を集中 しているのである、公武が互に開国是非の二派と相分れても兎に角防備充実の緊要は等しく感ぜられてある、
神戸村村民は家茂公帰阪の翌々日に又も順動丸が安 永新田海岸へ現われて、公卿衆百二十余名が物々しく附近の視察を行うのを目撃した、寒村の前途も啻事ならず察せられた、
神戸村庄屋生島四郎太夫(当主四郎 左衛門氏先々代)が勝の知遇を得たのは此の時分である、予て海舟さん(勝の事)から一度貴公に逢いたいとの通知を受けている
四郎太夫は頻って幕府や朝廷の 役人の往来が神戸村界隈に繁いので一種の期待を以て御用命を想像していたが或日外出して諏訪山麓の野道を通行の際前方から頭を総髪にして
無雑作に束ねた小 柄の武家が来るのに逢うた、それが海舟であった、公務上既に面識の機会の有った四郎太夫は慇懃に辞儀をした、
会話は極めて簡単であって「じゃ頼む」「畏ま りまし」野道で始めて海舟さんから海軍営の計画を洩らされた四郎太夫は生来の任侠が動いて即座営舎建築工事の請負を快諾した、
網吉老人の船据場東側に隣 り、漠々と続く砂地に、三百六十九坪を限る柵を繞らした海軍営操練所の白木二階建屋舎が碧い海を背景として兀と点ぜられたのは間も無いことであった、
旧生 田川の西手西国街道筋に沿い即ち今の神戸警察署東隣と思われる辺に少し遅れて寄宿舎が出来た、五月十六日には幕府の大阪船手役を廃して配下の面々及びその
預船を勝軍艦奉行預りとし同時に長崎製鉄所を神戸操練所附属と定むべき由御布令が有る、網吉老人の船据場近海には黒船が常時散見され兵庫港と類を異にする 色彩を帯びるようになった
追々海軍術に熟達の者は江戸表にて




格外の御取立可有之趣幕府の奨励も達示せられて、風を望む慷慨血気の青少年は諸藩より続々海舟が羽翼下へご馳せ 参ずる、海舟を補佐して子弟教養に力むる者は土州人阪本竜馬である。
神戸村などの村民が騒々しき操練所の模様を珍らし気に柵外から覗き込んだりする頃には 書生数六百七十名に達し就中薩摩藩が最多数の二十一名を占めていた、
薩摩書生のなかには明治の海軍元師伊東祐亨が有る、海舟は寄宿舎に書生連と起臥を共に し、時に小閑を得れば神戸村の生島家本邸(現栄町一丁目角に該当)や
奥平野村同別邸(現小 曾根家別荘)に往来、主人四郎太夫を嘉納治郎作ご相並びて町人 仲間の良い話相手をしていたが伊東が入門の際海舟に御目見得したのは実に生島家に於てであった。
堀基や湯地定基や富田鉄之助も海舟の育くみに浴した連中 だ。日清戦争当時の外務大臣宗光陸奥陽之助も腕白面を曝していた一人だ。
其他の書生連とて悉く後年の名士であって殊に明治の海軍に有用の材を多数寄興して いる。出身地の分類をするご長州藩は割合に少なく薩摩藩に次いで阿波加賀の者が指折られた。
吾人は長崎製鉄所が操練所付属となった消息を怪しむに及ばな い。機微の間に展開し来たるべきを保すべからざる外夷脅威の日の予想に開国方針の幕府でさえ泥縄的国防策に熱中した時代ではないか。
折しも第一流の砲術大 家江川太郎左衛門は伊豆の国韮山の鳴滝渓畔に反射炉を設けて大砲を製し傍ら堂々と砲術師範を試みていた時代ではないか、
海軍の養成を第一義と信じた薩摩藩 では神戸と伊豆とを以って子弟を託するに足るの心に嘱目し後年の黒田中将の如き伊豆に修学した方なのである。
敢えて遠い土地を引例するまでも無く兵庫の西 北鷹取山麓妙法寺村付近に石炭坑が発見せられて兵庫詰の代官は頗る乗り気となり熱心に掘出の歩を進め海舟大石炭鉱の実現を
夢み遠からずして鷹取山から巨額 の利金が湧き立派な海軍拡張の財源たらんと胸算用をしていた時代ではないか。但し鷹取山の石炭は悪質で使用に堪えざる故採取に従い和田岬に放棄し
結局徒労 に帰したが社会の事々物々一として鋭い緊張を呈していないものの無かった特徴は之を無視するを得ない

[写真(勝安房守と其の絶筆(神田兵右衛門氏蔵))あり 省略]

明治三十二年一月東京に病疫の数日前辱中に揮毫して嘉納治五郎氏に与えたるものなり

大阪朝日新聞1917年(大正8年)1月13日
 開港前後の神戸
(一〇) 分水嶺に立ちて
狂うが如くにして語るが如く、黙するが如くにして訓うるが如き涛声碧波に終始する我が海の日本よ。海舟は操練所の二階から南面の障子を排し小手を額に翳し ながら彼方に
淡路や紀州の島山影を浮べたる摂海を眺ねて佇立、之を久うして遥の水平一線より間断無く寄せくる一波万波に同邦幾千万の運命の隠見出没するも のあるを痛感するのが一再に止まらなかった。
実に乗ぜられるるは屈し乗ずるは興る所以。退いて海の幸の吾等に響くを待たんよりも進みて以て大に摂るべしと なす海舟が日本海軍建設計画の第一歩は正に寒村神戸の浜に
□熟の佳境へ進まんとはする。家茂公の摂海巡視に先立つその海軍拡張献議には明らかに神戸と及び 横浜を以って両々大根拠地となすべき旨宣明しているのである海舟は尚次回に記す通り
砲台造築事業をも主宰して文久三年の初夏以降中々繁忙であった。そこで 外夷に対し責任の第一線を負担した海舟は果して累々たる攘夷論者と選を同うしていたであろう歟、
身体は小柄で面貌はキリリと俊秀であるが親しく薫陶を受け る書生達には茫洋として大きく全時局を抱擁せるの感有らしむる海舟は、攘夷と開国との分水嶺に尨然と立ちしまま
敢て攘夷を可とも開国を否とも言わなかっ た。天下の形勢を眺むれば風雲洵に急である。京師を境界として日本全土は東西に開国と攘夷の明暗を区分したるの観有り、
両勢力の遠心力求心力に依り天下を 挙げ猛烈なる金風に巻込まれんず慨が漂う、東では小笠原老中が攘夷の不可を認めて生麦事件償金十万ポンドを英国に支払った、
然るに西では長州藩が米仏の軍 艦を砲撃し、薩摩藩が十万ポンドの償金のみに満足せず




鹿児島に来航した英艦七隻を見事撃退した。京師では神戸の操練所実見後何を感ずってか攘夷論より開国 論を変説した姉小路少将公知が暗殺された、
諸々の感情を排し潔く家茂公の後見職に即いていた一橋慶喜は進退両難に臨みて辞職し、摂海巡回後も洛中に滞留し ていた家茂は居たまらずなり江戸に東帰した。
兵庫市中は肩を聳やかし京師へ上下する長州藩士の往来織るが如くである。操練所では家塾風の教育を施し午前中 は蘭書文法、数学、運用機関学の諸科目を授け、
午後は撃剣、柔術其他の武術を励み時には練習艦を艤して勇ましく沖合遠くへ実地操練を試み孜々として所謂海 軍術の薀奥を極めるに努力したが、
元来多血性の書生連、兵庫市中にさえ閃めくようになった天下の殺気を目睹するにつけ、冷静な科学的探究は寧ろ従に、時事 に熱中するの主たる観を呈しないでもない、
海軍営の学塾を以て称するよりも志士の結社と呼びたい傾向は伊東祐亨以下二十一名の薩摩書生が英艦撃退の大合戦 に勝ちし余威得々して入門以来一層顕著になった、
その操練所におけると寄宿舎におけるとを問わず、海舟や阪本竜馬がコセコセ干渉しないだけにそれは賑やか で騒がしいことと言ったらない。
甲が一話題を捉えて悲憤慷慨すれば乙は堂々と経国の大策を論述する。二十世紀の優等学生とやらが行い済まして高い成績採点 をして貰うのとは趣が違っている。
無雑作な総髪頭、衣肝に至り袖腕に及ぶ木綿物づくめの羽織袴、志士の間に流行り出した無反で真直な朱鞘の大刀、素足に穿 いた書生下駄師海舟の風体そのままを真似ている
斯うした書生連が往還を闊歩し兵庫第一の料亭奈良屋だの二つ茶屋村料亭鉄屋弥五郎方(前神戸市助役専崎弥五平氏先々代)だの三宮神社付近の何とか亭だのと
飲み廻る姿は一見して誰だと行人の眼に判然した。海舟の老僕彦助という気骨者が居て一種の命令権を有するほど書生間に敬愛せられていたが陸奥や伊東は酔っぱらって
時間外に帰塾し彦助から屡御目玉を頂戴に及んだものだ。二つ茶屋村には川越ちよという五十歳前後の気質面白い富裕な後家が居て書生連の放 胆無邪気を愛し邸
(場所は現今の又新日報社に該当)を連中に開放し又よく面倒も見た。開国主義の幕府監督の下に海軍営を統べ出身地の感化攘夷熱に浮かされ 易い西南諸藩の書生を養い、
而して国防の第一責任者となっている海舟は真に身小胆大の士、飽迄抱擁で清濁併呑的であった。これが実に神戸海軍営をして興ら めし且亡ぼしたのである。
なぜならば海舟の広き羽翼下は各方面の青年渇仰の的なりしと同時に佐幕派からも勤王派からも誤解が多く或は反逆者視、或は間謀者 視せられたから、燕雀蓋ぞ
大鳳の志を知らん、
海舟の煌々たる眼光は逸くに蝸牛角上の内争を超脱しているのである、海舟は攘夷の志士の奔労を動機一転せしめ て日本海軍の隆興に資し朝鮮、支那とも同盟し一方には
開国を断行し実力を以って堂々全世界に飛躍せん目睹を有しているのである、攘夷論を以って偏狭となす 幕府要路も遂に海舟の大に如かず、海舟は元治元年幕府の
長州征伐に反対したること禍となり長州に通ずるものとの嫌疑を蒙り元治元年十一月江戸に召還幽閉せ られ、さしも多忙なりしこの日本最初の海軍養成所も二ヶ年にして廃絶した
因みに操練所建物は久しく空家の儘放擲されていたが明治五年神田孝平の知事時代全国地租改正と共に之を毀ちその木材を持って県庁構内に地券発行事 務局を建て
同事務局不要に帰するや神田兵右衛門氏等の斡旋で同木材は再転奥平野の村田兵左衛門氏等の入手する処となり之を以て同八年湊山小学校を建築し玄 関以下おおむね操練所の旧形を保存した、
同校の現校舎新築後も当時の玄関破風屋根、柱、瓦などを記念の為残し明治三六年神戸沖観艦式に際し統監伊藤元帥が 旧縁に依り生島家平野別邸に宿りたる際同校訪問、
操練所時代腕白の形見たる該柱の刀傷を眺め頭を痒いて放笑したことであった、今日同校理事者がこれ等記念 品を厄災物のように我楽多道具と共に納屋へ投げ込んで
顧みないのは果たして教育者の責任を全うせるものと認め得る歟吾人は之を頗る不満となす次に諏訪山金 星台の海軍営記念碑は海舟が江戸召還に先立ち
元治元年十月八日家茂の海軍営卜定に係る床几跡即ち今の桟橋会社の地点に記念碑を建立したるに由来す生島四郎 大夫は海軍営廃絶と共に幕府の思惑を顧慮し之を
平野別邸庭園内に隠匿したる処、四海晴天白日の大正四年十一月二十日に及び金星台上、新建立地に盛大なる序 幕式挙行の運びとなれるものである、別碑に撰文を寄す目賀田種太郎男は海舟の娘婿である

[写真(海軍営記念碑正面)あり 省略]

文曰、文久三年歳次癸亥四月二十三日大君駕火輪船巡□播海浜至于神戸相其地形命臣義邦便作海軍栄之其夫吾邦方今急務莫急于海軍将以此管為始英旨振起士風実在于是可謂当時之偉□而千載之鴻其也雇大君踞床指書之処恐其久而湮汲也臣義邦謹勤于石以貽永世伝
元治元年歳次甲子冬十月八日 軍艦奉行安房守勝物部義邦撰

[写真(湊山小学校旧校舎玄関(操練所旧形を存す))あり 省略]

[写真(海軍営記念碑側面)あり 省略]

文曰 未有不能立而能行者也立者何番虎尾之懼□時勝房州立碑於神□生島四郎抱碑而泣乞記余□知□
明治十五年五月


その他勝海舟及び網屋吉兵衛、生島四郎太夫に関して過去に書いた記事にリンクしておきます。

勝海舟が設計の和田岬砲台跡

勝・西郷の会見の地と江戸城無血開城

大願寺(だいがんじ)---広島県宮島

和田神社

海軍営之碑 in 諏訪山公園

海軍操練所顕彰碑

神戸海援隊の碑

勝海舟像

開港して間もない神戸港(兵庫) By イラストレイテッド ロンドン ニュース

牛頭天王伝説の平野祇園神社

祇園神社には 幕末の豪商生島四郎献上の石灯籠があります。
生島四郎は勝海舟に協力した人物で勝海舟が神戸にいるときは祇園神社近くの
生島四郎の別邸に投宿していたようです。










コメント (2)
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