CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

西の海運王光村弥兵衛が奉納の灯籠 in 湊川神社

2014年08月15日 14時49分09秒 | 神戸情報
東の海運王岩崎弥太郎と並び称される西の海運王光村弥兵衛が湊川神社に奉納の灯籠の写真を
撮ってきましたので紹介します。 撮影:2014-8-14

最近、筆をとるのが億劫で久しぶりの投稿です。





上の2枚の写真が光村弥兵衛が奉納した灯籠です。
とにかく大きく存在感のある灯籠です。
阪神淡路大震災の前は東西対の灯籠であったが、東側が地震で倒壊し2014年8月14日現在
残されているのは西側の灯籠のみである。

奉納された時期は多分書かれているのだと思いますが確認していません。
明治5年(1872)以降明治20年(1887)までであろうと推定しています。

光村弥兵衛について簡単に紹介しておきます。

文政10年(1827)5月3日 周防国 熊毛郡光井村に生まれる
         父は水木源右衛門 母は西岡平蔵の娘
        幼名は利吉と言いその後重平、甚八、弥吉と称しさらに弥兵衛と改めた
弘化元年(1844) 商売を始める 木綿商など5年ほど営業するが廃業
         さらに製塩業を始めるが失敗

嘉永5年(1852)12月 商売の修業のため大坂、九州、倉敷、芸州などを転々とする

嘉永6年(1853) 7月13日 江戸(品川駅)に出る
         関東で各地で商売をする

安政6年?(1859) 横浜の開港に当って貿易商を営む
         外国船に水や日用品を供給のため海運業を4年ほど営む

文久3年(1863) 長州ファイブ=井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、
         野村弥吉(井上勝)の5名が横浜から英国のロンドンに向けて出発の際
         幕府から密航を察知され取り調べを受けるが光村弥兵衛は敢えて見逃し
         幕府には虚偽の報告をした。
         この結果、井上、伊藤等は無事留学を果たすことができた。
      
明治元年(1868) 神戸開港に合わせて神戸に転居
         兵庫県の初代県令(知事)の伊藤博文らから外国貿易に関して
         独占的な権益を得て財を蓄積する。
         当時、屋号は長門屋で長門屋弥兵衛と呼ばれていました
         住居は海岸通り

明治3年(1870) 運貨丸を購入

明治5年(1872) 運貨丸 造幣寮より払い下げ
         カルロ商会から内灘丸を買い取りさらに帆前船を数隻購入し

         6隻の船持ちとなった。
         毎月6のつく日 3回/月の定期航海を始め大阪富嶋に支店を置く
          (大阪以西の航海権を独占する)

明治7年(1874) 高島炭鉱の石炭の売買 グラバー商会から日本人の手になり
         石炭の運搬や売買の商売に従事

明治8年(1875) 大阪商船学校

明治9年(1876)12月 4隻の汽船(外輪型)を発注

明治10年(1877)西南の役で光村弥兵衛の所有する船が御用船となり兵隊を神戸から
         福岡まで輸送

         帰り便で別子鉱山の銅などを運搬し巨利を得る

明治11年(1878) 硫酸製造し支那に輸出

明治13年(1880) すべての事業を廃業(白内障で失明状態などの理由による)
          所有の汽船などは大阪商船に売却

          余生には禅学を修業

明治24年(1891)2月20日 永眠
          墓は五宮町の祥福寺



上の写真は光村弥兵衛氏の肖像です。

出展:従六位光村弥兵衛伝
中西牛郎 著 明27.11 印刷人 野村宗十郎  印刷所 株式会社東京築地活版製造所

尚、上記書籍は国立国会図書館がアーカイブ化しておりWeb上で閲覧出来ます(下記サイト)

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782047

また光村弥兵衛の一生をEOひかりの歴史浪漫でみることが出来ます。(下記サイト)

 http://eonet.jp/eohikari-ch/rekishi/


久しぶりの投稿で時間の関係もあり充分調査していない部分もあり不十分な記事となってしまいました。
後日、補完して内容を充実させていきたいと考えています。






上の2枚の写真は光村弥兵衛が祥福寺に寄進した多宝塔です。
 撮影:2008-12-22

神戸には光村弥兵衛の寄進で建設されたものが多数あります。
これらについても後日補完していきたいと思っています。

弥兵衛には、一粒種の光村利藻がいる。(以下は神戸史談会「歴史と神戸」による)
百万長者長門屋を継ぎ、慶応義塾を出たが、日本最後の遊蕩児として名高い。
逸話の多い人物だが、弥兵衛の葬儀を撮影した写真に興味を覚えて、風景や人物を芸術的に撮影し
美術印刷の道を開いた先駆者となり、乃木将軍の「水師営の会見」写真で知られる。


光村利藻は光村弥兵衛の遺産3,000万円を相続しています。
明治時代中期での金額なので今の価値だと1兆円に近い金額か?(要確認)


光村印刷株式会社の創業者である光村利藻は、日本海運業の先駆者の一人である神戸の
光村弥兵衛の長男として生まれました。
幼少の頃から写真・印刷に親しんでいた利藻は、長ずるにしたがって写真集や
美術書作りにのめり込み、明治34年(1901年)、
ついに光村印刷の前身となる「関西写真製版印刷合資会社」を設立します。




















 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする