2015年5月21日、山陽電鉄霞ヶ丘から徒歩15分くらいにある絵葉書資料館
で下に添付の塩屋のオリエンタルホテル シーサイドビラの絵葉書を入手しました
The Oriental Hotel's Seaside Villa、Shioya,near Kobeという
表題がついています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/dd/9ce6a4d09a49a53ede69a9e62e246804.jpg)
上記の塩屋のオリエンタルホテル シーサイドビラについて簡単に調べて
みましたので結果を紹介します。
明治40年(1907)6月25日の神戸又新日報に「日曜の塩屋」というコラムが
ありここに塩屋に新築されたオリエンタルホテル シーサイドビラに関する事象
が書かれていました。
著者が6月23日に外国人の友人と共にランチをした時の模様について記述
されています。
「正午に塩屋駅についたここで降車した客は50~60人すべて白人の客で白い
ドレスを着たご婦人たちが目につく。新築のオリエンタルホテルシーサイドビラ
へは塩屋駅から3分で1マイル西の海岸線に建っている。
建物は木造2階建てで故アブカー氏が所有の頃に見た姿とはまったく異なって
立派に変貌している。小さなリンゴ大の実をつけた広東琵琶やシュロ竹の植栽
があり、唐銅製で大きな鷲が電球を加える置物など装飾が凝っている。
ダイニングルームでは右にフランス人、左手には英国、オランダの一組、彼方
には英国副領事及び領事夫人の一行。後ろには英国副領事一行の秘書らしき
英国の青年がいた。料理は夏向きに淡白であった。支配人のカメロン氏がお客様
に愛嬌よく接待している。食堂の海側には幅3間、長さ20間のベランダがあり
数十の椅子もあった。食後の喫煙場所や望遠鏡、ホテル所有のボートもあった。
塩屋には英国領事他白人達の別荘が数か所あった。
清国人で正金銀行の買辨として著名であった葉鶴齢の別荘は広さ2,000坪あった。
山の裾野には伊藤長次郎の別荘が壮大であった。 以下略」
上記の記事から推察するに塩屋のオリエンタルホテル シーサイドビラの建造
時期は明治40年(1907)か明治38-39年頃と思われます。
大正10年(1921)1月7日(金)の神戸又新日報に塩屋の交際機関 勝田氏の厚意という
見出しでオリエンタルホテル シーサイドビラが近年、勝田銀次郎氏の所有に
なったがそれを開放し塩屋在住または別荘所有の外国人に歓迎されているとの
記事が記載されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/72/af7b94b0bd7c5add0dad18f756e230b6.jpg)
上の写真は明治40年6月23日?当時の記念写真か
2015-6-30 神戸アーカイブギャラリー 6月-7月の企画展示のパネルより
塩屋のオリエンタルホテルは略して塩屋ホテルと呼ばれていたか?
2015-7-5 追記
また大正12年(1923)5月3日(木)の神戸又新日報には勝田銀次郎が万国人
と日本人の交際の場として勝田倶楽部の建物及び付属施設すべてを外国人会員に
無償で寄付したことが記載されています。
これが塩屋倶楽部のベースとなり外国人倶楽部、塩屋カントリー倶楽部へと
変遷していきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/db/c1c389a3e4f5fa1ff02b709b7f948c89.jpg)
上の写真は大正7年~8年の勝田倶楽部
出典:神戸市立文書館 資料番号:10678
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2b/d4fb22e1dba73a42952b9915315ec881.jpg)
上の写真も大正7年~8年の勝田倶楽部
出典:神戸市立文書館 資料番号:10684
勝田銀次郎氏についてWikipediaより引用させて頂きます
勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年[1]10月1日 - 1952年4月24日[2])は、
日本の政治家、実業家。勝田商会創業者。山下亀三郎、内田信也と並ぶ「三大船成金」
の一人[3]。神戸市会議員、衆議院議員、貴族院議員、第8代神戸市長
(在任:1933年12月21日[4] - 1941年12月20日[5])。
準戦時体制下の神戸市政を担い「鉄腕市長」と呼ばれた[5]。愛媛県出身[1][6]。
勝田銀次郎氏について書かれたサイト(照会サイト)
http://dayzi.com/a-izinkatuta.html
勝田銀次郎の功績世界へ ロシア革命期、疎開児救出に尽力
神戸新聞 2014年1月3日
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201401/0006611802.shtml
アジア歴史資料
http://www.jacar.go.jp/siryo/ichiran/G_101/m7610.html
で下に添付の塩屋のオリエンタルホテル シーサイドビラの絵葉書を入手しました
The Oriental Hotel's Seaside Villa、Shioya,near Kobeという
表題がついています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/dd/9ce6a4d09a49a53ede69a9e62e246804.jpg)
上記の塩屋のオリエンタルホテル シーサイドビラについて簡単に調べて
みましたので結果を紹介します。
明治40年(1907)6月25日の神戸又新日報に「日曜の塩屋」というコラムが
ありここに塩屋に新築されたオリエンタルホテル シーサイドビラに関する事象
が書かれていました。
著者が6月23日に外国人の友人と共にランチをした時の模様について記述
されています。
「正午に塩屋駅についたここで降車した客は50~60人すべて白人の客で白い
ドレスを着たご婦人たちが目につく。新築のオリエンタルホテルシーサイドビラ
へは塩屋駅から3分で1マイル西の海岸線に建っている。
建物は木造2階建てで故アブカー氏が所有の頃に見た姿とはまったく異なって
立派に変貌している。小さなリンゴ大の実をつけた広東琵琶やシュロ竹の植栽
があり、唐銅製で大きな鷲が電球を加える置物など装飾が凝っている。
ダイニングルームでは右にフランス人、左手には英国、オランダの一組、彼方
には英国副領事及び領事夫人の一行。後ろには英国副領事一行の秘書らしき
英国の青年がいた。料理は夏向きに淡白であった。支配人のカメロン氏がお客様
に愛嬌よく接待している。食堂の海側には幅3間、長さ20間のベランダがあり
数十の椅子もあった。食後の喫煙場所や望遠鏡、ホテル所有のボートもあった。
塩屋には英国領事他白人達の別荘が数か所あった。
清国人で正金銀行の買辨として著名であった葉鶴齢の別荘は広さ2,000坪あった。
山の裾野には伊藤長次郎の別荘が壮大であった。 以下略」
上記の記事から推察するに塩屋のオリエンタルホテル シーサイドビラの建造
時期は明治40年(1907)か明治38-39年頃と思われます。
大正10年(1921)1月7日(金)の神戸又新日報に塩屋の交際機関 勝田氏の厚意という
見出しでオリエンタルホテル シーサイドビラが近年、勝田銀次郎氏の所有に
なったがそれを開放し塩屋在住または別荘所有の外国人に歓迎されているとの
記事が記載されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/72/af7b94b0bd7c5add0dad18f756e230b6.jpg)
上の写真は明治40年6月23日?当時の記念写真か
2015-6-30 神戸アーカイブギャラリー 6月-7月の企画展示のパネルより
塩屋のオリエンタルホテルは略して塩屋ホテルと呼ばれていたか?
2015-7-5 追記
また大正12年(1923)5月3日(木)の神戸又新日報には勝田銀次郎が万国人
と日本人の交際の場として勝田倶楽部の建物及び付属施設すべてを外国人会員に
無償で寄付したことが記載されています。
これが塩屋倶楽部のベースとなり外国人倶楽部、塩屋カントリー倶楽部へと
変遷していきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/db/c1c389a3e4f5fa1ff02b709b7f948c89.jpg)
上の写真は大正7年~8年の勝田倶楽部
出典:神戸市立文書館 資料番号:10678
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2b/d4fb22e1dba73a42952b9915315ec881.jpg)
上の写真も大正7年~8年の勝田倶楽部
出典:神戸市立文書館 資料番号:10684
勝田銀次郎氏についてWikipediaより引用させて頂きます
勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年[1]10月1日 - 1952年4月24日[2])は、
日本の政治家、実業家。勝田商会創業者。山下亀三郎、内田信也と並ぶ「三大船成金」
の一人[3]。神戸市会議員、衆議院議員、貴族院議員、第8代神戸市長
(在任:1933年12月21日[4] - 1941年12月20日[5])。
準戦時体制下の神戸市政を担い「鉄腕市長」と呼ばれた[5]。愛媛県出身[1][6]。
勝田銀次郎氏について書かれたサイト(照会サイト)
http://dayzi.com/a-izinkatuta.html
勝田銀次郎の功績世界へ ロシア革命期、疎開児救出に尽力
神戸新聞 2014年1月3日
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201401/0006611802.shtml
アジア歴史資料
http://www.jacar.go.jp/siryo/ichiran/G_101/m7610.html