2016年3月26日(土)、兵庫県立歴史博物館で「播磨風土記」に関する講演会を
聴講するために姫路に出かけていました。
午前中に姫路城を観覧し兵庫県立歴史博物館に向かう途中の姫路神社の境内に
河合寸翁の銅像と寸翁神社を見つけましたので写真紹介します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/01/9db08f7b0e96e8f93b954a55d24922a4.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/80/ea094456d675e228a365f4ff52af2611.jpg)
上の写真が河合寸翁(かわいすんのう)像の近景と遠景。
遠景の左手奥が寸翁神社です。
河合寸翁の銅像は故・三宅具哉・姫路信用金庫会長を世話人代表として1990年
に建立されました。肖像画を元に造られたすです。
台座正面には「無心帰大道」の文字が刻まれています。その意味するところは、
「私心のない人は道を貫くことができる」で
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/d9/58c9b2045029df88b9f82e3c8483904c.jpg)
上の写真は現地の説明版で寸翁神社に関するものです。
寸翁神社は寸翁を産業の守護神として昭和32年(1957)に建設されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/94/fc74a25fcda2424947341f96fc08ab53.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/c3/9a642a683c6591886cebce9c83360f5b.jpg)
上の写真は姫路神社の拝殿(正面)の遠景と側面から撮った拝殿と本殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/f7/e894e64401da5afb2df769ade9942410.jpg)
上の写真は姫路神社の説明版
姫路藩の財政危機を救った家老の河合寸翁(1767~1841)がどんな人物で
どのようにして財政再建したのか簡単に書いておきます。
河合寸翁の略歴
Wikipediaなどからピックアップ
河合寸翁=河合 道臣 別名:隼之介(通称)
河合寸翁の正式名は河合 道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)で明和4年5月24日
(1767年6月20日)父:川合宗見、母:林田藩士長野直通の娘の長男として姫路
で出生した。 11歳の時から藩主酒井忠以の命で出仕以降 忠道→忠実→忠学の
4代50年間、姫路藩に奉公した。
天明7年(1787)に父の河合宗見が病死、家督1000石を相続、21歳で家老に就任
財政改革の取り組みをスタート
寛政2年(1790)に酒井忠以が急死すると反対派の巻き返しに遭い一旦失脚
文化5年(1808)酒井忠道は河合道臣を諸方勝手向に任じ本格的改革に当たらせた
文化6年(1809)頃から領内各地に固寧倉(こねいそう)を設けて農民を救済
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/5f/32dfb510141724929057fe01d01ee190.jpg)
上の写真は現在も残る姫路市妻鹿の固寧倉と現地の説明板 2014-6-25撮影
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/b3/20b835ae395d47c42a1e4cb60db533d0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/ff/7adef97e30904422d9b2b3ac1ca68bd9.jpg)
上の写真は姫路市野里にある固寧倉と固寧倉の看板
文政6年(1823)から江戸での木綿専売に成功
木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売とした
天保6年(1835) 69歳で隠居
天保12年6月24日(1841年8月10日)75歳で死去
墓所:姫路市奥山仁寿山梅ケ岡の河合家墓所
私人としては茶道をたしなむなど、文人肌であり 寸翁の号を名乗った。
河合寸翁の財政再建策
1.木綿の専売
2.固寧蔵(こねいそう)
3.新田開発
4.港湾の整備
5.西洋型帆船
6.地場産業の興隆
河合寸翁は、27年かけて姫路藩の73万両(現在の価値にして約440億円)と
いう莫大な負債を全て返し終えました。
聴講するために姫路に出かけていました。
午前中に姫路城を観覧し兵庫県立歴史博物館に向かう途中の姫路神社の境内に
河合寸翁の銅像と寸翁神社を見つけましたので写真紹介します。
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上の写真が河合寸翁(かわいすんのう)像の近景と遠景。
遠景の左手奥が寸翁神社です。
河合寸翁の銅像は故・三宅具哉・姫路信用金庫会長を世話人代表として1990年
に建立されました。肖像画を元に造られたすです。
台座正面には「無心帰大道」の文字が刻まれています。その意味するところは、
「私心のない人は道を貫くことができる」で
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/d9/58c9b2045029df88b9f82e3c8483904c.jpg)
上の写真は現地の説明版で寸翁神社に関するものです。
寸翁神社は寸翁を産業の守護神として昭和32年(1957)に建設されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/94/fc74a25fcda2424947341f96fc08ab53.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/c3/9a642a683c6591886cebce9c83360f5b.jpg)
上の写真は姫路神社の拝殿(正面)の遠景と側面から撮った拝殿と本殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/f7/e894e64401da5afb2df769ade9942410.jpg)
上の写真は姫路神社の説明版
姫路藩の財政危機を救った家老の河合寸翁(1767~1841)がどんな人物で
どのようにして財政再建したのか簡単に書いておきます。
河合寸翁の略歴
Wikipediaなどからピックアップ
河合寸翁=河合 道臣 別名:隼之介(通称)
河合寸翁の正式名は河合 道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)で明和4年5月24日
(1767年6月20日)父:川合宗見、母:林田藩士長野直通の娘の長男として姫路
で出生した。 11歳の時から藩主酒井忠以の命で出仕以降 忠道→忠実→忠学の
4代50年間、姫路藩に奉公した。
天明7年(1787)に父の河合宗見が病死、家督1000石を相続、21歳で家老に就任
財政改革の取り組みをスタート
寛政2年(1790)に酒井忠以が急死すると反対派の巻き返しに遭い一旦失脚
文化5年(1808)酒井忠道は河合道臣を諸方勝手向に任じ本格的改革に当たらせた
文化6年(1809)頃から領内各地に固寧倉(こねいそう)を設けて農民を救済
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/5f/32dfb510141724929057fe01d01ee190.jpg)
上の写真は現在も残る姫路市妻鹿の固寧倉と現地の説明板 2014-6-25撮影
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/b3/20b835ae395d47c42a1e4cb60db533d0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/ff/7adef97e30904422d9b2b3ac1ca68bd9.jpg)
上の写真は姫路市野里にある固寧倉と固寧倉の看板
文政6年(1823)から江戸での木綿専売に成功
木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売とした
天保6年(1835) 69歳で隠居
天保12年6月24日(1841年8月10日)75歳で死去
墓所:姫路市奥山仁寿山梅ケ岡の河合家墓所
私人としては茶道をたしなむなど、文人肌であり 寸翁の号を名乗った。
河合寸翁の財政再建策
1.木綿の専売
2.固寧蔵(こねいそう)
3.新田開発
4.港湾の整備
5.西洋型帆船
6.地場産業の興隆
河合寸翁は、27年かけて姫路藩の73万両(現在の価値にして約440億円)と
いう莫大な負債を全て返し終えました。