本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第8回として駒一地蔵尊と徳本上人六字名号石
をお送りします。
これまでの記事
第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑
第2回 駒林神社
第3回 海泉寺
第4回 駒ヶ林蛭子神社
第5回 平忠度の腕塚
第6回 雑魚寝堂跡の旧神戸市立駒ヶ林保育所
第7回 駒竹稲荷神社
上の写真は駒一地蔵尊と徳本上人六字名号石の全体写真です。
一番右手の立派な石碑が徳本上人六字名号石です。
駒ケ林南部自治会が作製された説明書きが掲示されています。
46体のお地蔵様が鎮座されています。
徳本上人六字名号石の他に六体地蔵や平家のお墓の名残りといわれる五輪塔が
あります。
上の写真は駒一地蔵尊と徳本上人六字名号石の上屋を含めた遠景です。
所在地住所:神戸市長田区駒ヶ林町1丁目2
駒ヶ林公園の北側で少し奥まったところにあるためわかりづらい
駒ヶ林町1丁目2-2の鈴木産業(株)の東側にあります。
または駒ヶ林町1丁目2-1の安田技研(株)神戸工場の西側
鈴木産業は釣具のメーカーで現在は株式会社フィネスに改称されています。
安田技研(株)は配電盤、車両向けなど各種の板金製作、機械加工部品、金型設計製作
上述の鈴木産業のGoo地図を添付しておきます。
上の写真は徳本上人六字妙号石です。
徳本上人独特の蔦文字と呼ばれる字体で南無阿弥陀仏と書かれています。
写真では前掛けで隠れています。
また台座には三界萬霊の文字が刻まれています。
土台の裏の銘文には文政6年(1823)に建立されたことと世話人3名の名前も
刻印されています。
文政6年(1823)、駒ヶ林村に来た徳本上人はその当時鵯越に出没して旅人を
悩ませていた悪者を仏教の力によって六字名号石を建てその下に封じ込めたと
言われています。
徳本上人は浄土宗の僧で諸国を行脚して解かりやすく仏教を伝えた。彼独特の
蔦文号(つたみょうごう)と呼ばれる独特な字体の六字名号碑が彼が行脚した
各地に建てられています。
上記の駒ヶ林の六字名号石には2つの不思議な話が伝わっています。
明治の末頃、六字名号石の裏手(北側)に大きな空き家があって近所の子供たち
の遊び場になっていた。ある日子供たちが遊んでいるとバリバリと突然大きな
音がして家が傾きはじめた。もともと名号石の方に傾いていた古い家だったので
みんなは大急ぎで外に避難した。しかしどういうわけか家は名号石の方には倒れず
北側の井戸の上に崩れ落ち名号石は無事であったという。
また同じ頃のことだが人々があまりにこの石を信心するので、ある男が名号石の
前にわざと杭を打とうとした。周りの者はばちがあたるとその人を止めたのだが
本人はそんなことは一向に耳を貸さず午前中に杭を打ち昼食をとりに家に帰った。
その男は午後になってもなかなか杭の所まで戻ってこなかった。みんなが心配
しているとあれほど元気だった男が家に帰って急に苦しみだし、その日のうちに
死んでしまった。このようにこの名号石は霊験あらたかで、この名号石のお陰で
駒ヶ林ではいまだかって大きな海難事故がなかったという。
以上の出典:ながたの民話 田辺眞人編著 長田区役所より発行(1983)
徳本上人についてWikipediaより引用させていただきます。
徳本(とくほん、宝暦8年(1758年)? - 文政元年10月6日(1818年11月4日)?)は
、江戸時代後期の浄土宗の僧。俗姓は田伏氏。号は名蓮社号誉。
紀伊国日高郡志賀村久志の出身。徳本上人、徳本行者とも呼ばれた。
27歳のとき出家し、木食行を行った。各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、
念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、
修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化11年(1814年)、
江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。
一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する
者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は
関東・北陸・近畿まで及んだ。
「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。
徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた。
墓所は一行院。
神戸市内に上人山 徳本寺が白鶴美術館の近くにあり寛政9年(1797)8月に
住吉村の呉田吉田氏の要請で住吉草庵に住んだことがあるようです。
また駒ケ林にも徳本上人は何回か説教に来ているようです。
「鬼ころすこころは丸く田の中に南無阿弥陀仏のうかぶ月かな」という
句も残されています。
上の写真は地蔵尊群のアップ写真です。
この地区では区画整理事業も進められている路地を生かした災害に強い街づくり
がキャッチフレーズのようである。
下の写真は路地の整備が終了した駒一ながさ小路です。
撮影日:2011-12-10
をお送りします。
これまでの記事
第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑
第2回 駒林神社
第3回 海泉寺
第4回 駒ヶ林蛭子神社
第5回 平忠度の腕塚
第6回 雑魚寝堂跡の旧神戸市立駒ヶ林保育所
第7回 駒竹稲荷神社
上の写真は駒一地蔵尊と徳本上人六字名号石の全体写真です。
一番右手の立派な石碑が徳本上人六字名号石です。
駒ケ林南部自治会が作製された説明書きが掲示されています。
46体のお地蔵様が鎮座されています。
徳本上人六字名号石の他に六体地蔵や平家のお墓の名残りといわれる五輪塔が
あります。
上の写真は駒一地蔵尊と徳本上人六字名号石の上屋を含めた遠景です。
所在地住所:神戸市長田区駒ヶ林町1丁目2
駒ヶ林公園の北側で少し奥まったところにあるためわかりづらい
駒ヶ林町1丁目2-2の鈴木産業(株)の東側にあります。
または駒ヶ林町1丁目2-1の安田技研(株)神戸工場の西側
鈴木産業は釣具のメーカーで現在は株式会社フィネスに改称されています。
安田技研(株)は配電盤、車両向けなど各種の板金製作、機械加工部品、金型設計製作
上述の鈴木産業のGoo地図を添付しておきます。
上の写真は徳本上人六字妙号石です。
徳本上人独特の蔦文字と呼ばれる字体で南無阿弥陀仏と書かれています。
写真では前掛けで隠れています。
また台座には三界萬霊の文字が刻まれています。
土台の裏の銘文には文政6年(1823)に建立されたことと世話人3名の名前も
刻印されています。
文政6年(1823)、駒ヶ林村に来た徳本上人はその当時鵯越に出没して旅人を
悩ませていた悪者を仏教の力によって六字名号石を建てその下に封じ込めたと
言われています。
徳本上人は浄土宗の僧で諸国を行脚して解かりやすく仏教を伝えた。彼独特の
蔦文号(つたみょうごう)と呼ばれる独特な字体の六字名号碑が彼が行脚した
各地に建てられています。
上記の駒ヶ林の六字名号石には2つの不思議な話が伝わっています。
明治の末頃、六字名号石の裏手(北側)に大きな空き家があって近所の子供たち
の遊び場になっていた。ある日子供たちが遊んでいるとバリバリと突然大きな
音がして家が傾きはじめた。もともと名号石の方に傾いていた古い家だったので
みんなは大急ぎで外に避難した。しかしどういうわけか家は名号石の方には倒れず
北側の井戸の上に崩れ落ち名号石は無事であったという。
また同じ頃のことだが人々があまりにこの石を信心するので、ある男が名号石の
前にわざと杭を打とうとした。周りの者はばちがあたるとその人を止めたのだが
本人はそんなことは一向に耳を貸さず午前中に杭を打ち昼食をとりに家に帰った。
その男は午後になってもなかなか杭の所まで戻ってこなかった。みんなが心配
しているとあれほど元気だった男が家に帰って急に苦しみだし、その日のうちに
死んでしまった。このようにこの名号石は霊験あらたかで、この名号石のお陰で
駒ヶ林ではいまだかって大きな海難事故がなかったという。
以上の出典:ながたの民話 田辺眞人編著 長田区役所より発行(1983)
徳本上人についてWikipediaより引用させていただきます。
徳本(とくほん、宝暦8年(1758年)? - 文政元年10月6日(1818年11月4日)?)は
、江戸時代後期の浄土宗の僧。俗姓は田伏氏。号は名蓮社号誉。
紀伊国日高郡志賀村久志の出身。徳本上人、徳本行者とも呼ばれた。
27歳のとき出家し、木食行を行った。各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、
念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、
修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化11年(1814年)、
江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。
一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する
者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は
関東・北陸・近畿まで及んだ。
「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。
徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた。
墓所は一行院。
神戸市内に上人山 徳本寺が白鶴美術館の近くにあり寛政9年(1797)8月に
住吉村の呉田吉田氏の要請で住吉草庵に住んだことがあるようです。
また駒ケ林にも徳本上人は何回か説教に来ているようです。
「鬼ころすこころは丸く田の中に南無阿弥陀仏のうかぶ月かな」という
句も残されています。
上の写真は地蔵尊群のアップ写真です。
この地区では区画整理事業も進められている路地を生かした災害に強い街づくり
がキャッチフレーズのようである。
下の写真は路地の整備が終了した駒一ながさ小路です。
撮影日:2011-12-10