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原爆死没者慰霊式 平和祈念式(平和記念式典)in 広島 on 2020-8-6

2020年08月08日 06時16分23秒 | Gooニュース

被爆75年「核なき世界」は、いつか被爆者平均年齢83.31歳

上記の表題でGooニュースよりの報道をShareさせていただきました。

被爆者の人数も14万人を初めて割り込みました。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20200805k0000m040268000c

 

次に広島75回目の「原爆の日」に因み、表題の平和記念式典の様子を今後の憶えと

して記事にしました。

広島原爆投下から75年を迎えた2020年8月6日、広島市の平和記念公園で
平和記念式典が開かれた。参列者は例年ですと5万人を超える参列者があるが、
今年は新型コロナウイルスの感染防止策として式典は入場が規制され、席数も

例年の1割程度以下とし、列席者は招待者ら785人であった。

式次第は下記のとおりでほぼ例年と同じ内容であった。

 1開式           (8:00)
 2原爆死没者名簿奉納    (8:00) 新たに4,943名 累計32万4,129人
 3式辞           (8:03) 広島市議会議長
 4献花           (8:08)
 5黙とう・平和の鐘     (8:15)
 6平和宣言         (8:16)松井一実市長        
 7平和への誓い       (8:25) 子供代表
 8あいさつ         (8:30)安倍首相

                                                      (8:36)広島県知事

 9ビデオメッセージ     (8:43)グテーレス国連事務総長
 10ひろしま平和の歌(3人が唱和)  (8:46)被ばくピアノによる演奏
 11閉式             (8:50)

1945年8月6日 8時15分 人類史上初めての原子爆弾が広島に落とされました。

その年に亡くなった被爆者は約14万人。

式典の様子について全場面をFNNがライブ配信されています。(下に添付動画)

 【LIVE】被爆75年・広島市平和記念式典中継

例年のNHKテレビ中継より式典の様子を写真紹介します。

上の2枚の写真は来賓席の列席者

上の写真は原爆死没者名簿奉納。

8時15分、平和の鐘、黙とう

 

平和宣言

上の写真は広島市長の平和宣言の場面

上の2枚の写真はスペイン風邪で連帯が出来なかった例を示された場面

 広島市の松井一実市長は平和宣言で、「75年は草木も生えぬ」と言われた広島の復興に 触れ、核兵器の廃絶に向けた市民社会の連帯を呼びかけます。 また、日本政府には、核兵器禁止条約の批准や、「黒い雨」の降雨地域拡大に向けた政治判断を求めます。

全文は下に添付のとおりです。


1945年8月6日、広島は一発の原子爆弾により破壊し尽くされ、「75年間は草木も生えぬ」
と言われました。しかし広島は今、復興を遂げて、世界中から多くの人々が訪れる平和を象徴する都市になっています。

今、私たちは、新型コロナウイルスという人類に対する新たな脅威に立ち向かい、
もがいていますが、この脅威は、悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか。

およそ100年前に流行したスペイン風邪は、第一次世界大戦中で敵対する国家間での「連帯」が
叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥(おとしい)れました。
その後、国家主義の台頭もあって、第二次世界大戦へと突入し、原爆投下へと繋がりました。

こうした過去の苦い経験を決して繰り返してはなりません。
そのために、私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、

「連帯」して脅威に立ち向かわなければなりません。

原爆投下の翌日、「橋の上にはズラリと負傷した人や既に息の絶えている多くの被災者が
横たわっていた。大半が火傷で、皮膚が垂れ下がっていた。『水をくれ、水をくれ』と
多くの人が水を求めていた。」という惨状を体験し、「自分のこと、あるいは自国のことばかり考えるから争いになるのです。」
という当時13歳であった男性の訴え。
昨年11月、被爆地を訪れ、「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。」と
発信されたローマ教皇の力強いメッセージ。
そして、国連難民高等弁務官として、難民対策に情熱を注がれた緒方貞子氏の
「大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。
世界はつながっているのだから。」という実体験からの言葉。
これらの言葉は、人類の脅威に対しては、悲惨な過去を繰り返さないように「連帯」
して立ち向かうべきであることを示唆しています。

今の広島があるのは、私たちの先人が互いを思いやり、「連帯」して苦難に立ち向かった
成果です。実際、平和記念資料館を訪れた海外の方々から「自分たちのこととして
悲劇について学んだ。」、「人類の未来のための教訓だ。」という声も寄せられる中、
これからの広島は、世界中の人々が核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて「連帯」することを市民社会の総意にしていく責務があると考えます。

ところで、国連に目を向けてみると、50年前に制定されたNPT(核兵器不拡散条約)と、
3年前に成立した核兵器禁止条約は、ともに核兵器廃絶に不可欠な条約であり、
次世代に確実に「継続」すべき枠組みであるにもかかわらず、その動向が不透明となっています。
世界の指導者は、今こそ、この枠組みを有効に機能させるための決意を固めるべきではないでしょうか。

そのために広島を訪れ、被爆の実相を深く理解されることを強く求めます。
その上で、NPT再検討会議において、NPTで定められた核軍縮を誠実に交渉する義務を踏まえつつ、
建設的対話を「継続」し、核兵器に頼らない安全保障体制の構築に向け、全力を尽くしていただきたい。

日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、
核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めて同条約の締約国になり、
唯一の戦争被爆国として、世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し「連帯」するよう訴えていただきたい。
また、平均年齢が83歳を超えた被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により生活面で
様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、
「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断を、改めて強く求めます。

本日、被爆75周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、
核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする
世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。

令和2年(2020年)8月6日

広島市長 松井 一實

毎日新聞社が英文のFull Text文を掲載されていますのでリンクさせていただきました。

 https://mainichi.jp/english/articles/20200806/p2g/00m/0na/036000c

過去の平和宣言は下の広島市のサイトで確認できます。

 https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/179784.html

 

子供代表・平和への誓い

上の写真は子ども代表・平和への誓いを宣言した大森駿佑君(左)と長倉菜摘さん(右)

宣言文の全文は下に添付のとうり。

「75年は草木も生えぬ」と言われた広島の町。
 75年がたった今、広島の町は、人々の活気に満ちあふれ、緑豊かな町になりました。
 この町で、家族で笑い合い、友達と学校に行き、公園で遊ぶ。
 気持ちよく明日を迎え、さまざまな人と会う。
 当たり前の日常が広島の町には広がっています。
 しかし、今年の春は違いました。
 当たり前だと思っていた日常は、ウイルスの脅威によって奪われたのです。
 当たり前の日常は、決して当たり前ではないことに気付かされました。
 そして今、私たちはそれがどれほど幸せかを感じています。
 75年前、一緒に笑い大切な人と過ごす日常が、奪われました。
 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
 目がくらむまぶしい光。耳にこびりつく大きな音。
 人間が人間の姿を失い、無残に焼け死んでいく。
 町を包む魚が腐ったような何とも言い難い悪臭。
 血に染まった無残な光景の広島を、原子爆弾はつくったのです。
 「あのようなことは二度と起きてはならない」
 広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、私たちの心にずっと生き続けます。
 人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。
 私たちの未来に、核兵器は必要ありません。
 私たちは、互いに認め合う優しい心を持ち続けます。
 私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮らせる平和な未来を築きます。
 被爆地広島で育つ私たちは、当時の人々が諦めずつないでくださった希望を未来へとつないでいきます。
 令和2年(2020年)8月6日 
 子ども代表
 広島市立安北小学校6年 長倉菜摘
 広島市立矢野南小学校6年 大森駿佑

 

安倍首相の挨拶

上の3枚の写真は安倍首相のあいさつの場面です。

挨拶の全文は以下のとうりです。

本日ここに、被爆75周年の広島市原爆死没者慰霊式ならびに平和祈念式が挙行されるに当たり、
原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀悼の誠をささげます。

そして、いまなお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞いを申し上げます。

新型コロナウイルス感染症が世界を覆った今年、世界中の人々がこの試練に打ち勝つため、
今まさに奮闘を続けています。

 75年前、1発の原子爆弾により廃虚と化しながらも、先人たちの努力によって見事に
復興を遂げたこの美しい街を前にしたとき、現在の試練を乗り越える決意を新たにするとともに、
改めて平和の尊さに思いを致しています。

広島と長崎で起きた惨禍、それによってもたらされた人々の苦しみは、二度と繰り返してはなりません。
唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた国際社会の努力を一歩一歩、
着実に前に進めることは、わが国の変わらぬ使命です。

現在のように、厳しい安全保障環境や、核軍縮をめぐる国家間の立場の隔たりがある中では、
各国が相互の関与や対話を通じて不信感を取り除き、共通の基盤の形成に向けた努力を重ねることが必要です。

特に本年は、被爆75年という節目の年であります。わが国は、非核三原則を堅持しつつ、
立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促すことによって、
核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取り組みをリードしてまいります。

本年、核兵器不拡散条約(NPT)が発効50周年を迎えました。
同条約が国際的な核軍縮・不拡散体制を支える役割を果たし続けるためには、
来るべきNPT運用検討会議を有意義な成果を収めるものとすることが重要です。
わが国は、結束した取り組みの継続を各国に働きかけ、核軍縮に関する「賢人会議」の
議論の成果を活用しながら、引き続き、積極的に貢献してまいります。

「核兵器のない世界」の実現に向けた確固たる歩みを支えるのは、世代や国境を越えて
核兵器使用の惨禍やその非人道性を語り伝え、継承する取り組みです。
わが国は、被爆者の方々と手を取り合って、被爆の実相への理解を促す努力を重ねてまいります。

被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受け止め、
原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、
今後とも、総合的な援護施策を推進してまいります。

 結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ広島市において、核兵器のない世界と恒久平和の実現に
向けて力を尽くすことをお誓い申し上げます。

原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆さま、ならびに、参列者、
広島市民の皆さまのご平安を祈念いたしまして、私のあいさつといたします。


 令和2年8月6日

 内閣総理大臣 安倍晋三

 

 

国連事務総長ビデオメッセージ

Video message U.N. Secretary General Antonio Guterres

The only way to totally eliminate nuclear risk is to totally eliminate nuclear weapons.

Message from UN Secretary-General António Guterres for UN75 in Hiroshima (August 6, 2020)

メッセージの全文を下に添付

Seventy-five years is far too long not to have learned that the possession of nuclear weapons diminishes, rather than reinforces, security.
Today, a world without nuclear weapons seems to be slipping further from our grasp.
The web of arms control, transparency and confidence-building instruments established during the Cold War and its aftermath is fraying.
Division, distrust and a lack of dialogue threaten to return the world to unrestrained strategic nuclear competition.
States possessing nuclear weapons are modernizing their arsenals and developing new and dangerous weapons and delivery systems.
The risk of nuclear weapons being used, intentionally, by accident or through miscalculation, is too high for such trends to continue.
I repeat my call for states to return to a common vision and path leading to the total elimination of nuclear weapons.
While all states can play a positive role, the countries that possess nuclear weapons have a special responsibility.
They have repeatedly committed to the total elimination of nuclear weapons.
Now is the time for dialogue, confidence-building measures, reductions in the size of nuclear arsenals and utmost restraint.
We must also safeguard and strengthen the international non-proliferation and disarmament architecture.
States will have an opportunity to return to this shared vision at next year's review conference of the Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons.
The Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons is a further pillar of the disarmament regime, and I look forward to its entry into force.
The entry-into-force of the Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty also remains a top priority in order to entrench and institutionalize the global norm against nuclear testing.
This commemoration takes place in the shadow of the COVID-19 pandemic, which has brought turmoil into our lives in so many ways.
The pandemic has also exposed so many of the world's fragilities, including in the face of the nuclear threat.
The only way to totally eliminate nuclear risk is to totally eliminate nuclear weapons.
Young people have an important role. They -- and civil society as a whole -- have proved their power time and again in support of the cause of disarmament.
We should listen to their ideas and give them the space to make their voices heard.
The United Nations and I will continue to work with all those who seek to achieve our common goal: a world free of nuclear weapons.
Thank you.

 

ひろしま平和の歌

 

ANNニュースが編集したユーチューブ動画もありますのでGooで共有させていただきます。

広島75回目の原爆の日 コロナ対策行い平和記念式典(20/08/06)

 

2015年にも今回と同じテーマでブログを書いています。

このブログで過去に書いた広島の原爆に関する記事にもリンクを張っています。

 原爆死没者慰霊式 平和祈念式(平和記念式典)in 広島 on 2015-8-6

 

原爆投下の経緯について次のように纏めてみました。

1942年 8月 

 アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、軍と科学者を総動員して原爆製造の
マンハッタン計画」を秘密裏に始動。当初はドイツへの核使用を想定していた。

1943年 4月 

    ニューメキシコ州に有名なロスアラモス研究所が設置される。
 開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。 

   20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題は
 ウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造 

1943年5月5日

    軍事政策委員会、最初の原子爆弾使用について議論され、トラック島に集結する
 日本艦隊に投下するのがよいというのが大方の意見であった

1944年 6月 高濃縮ウランの製造に目途がついた。

1945年3月10日 東京大空襲

1945年3月末 米軍54万人が投入され沖縄戦が開始

1945年4月12日

    ルーズベルト大統領の急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任

1945年4月27日

    第1回目標検討委員会がワシントンで招集された。そこでは、東京湾、川崎、横浜、
 名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、
 佐世保の17カ所が原爆投下の研究対象として選ばれた。

1945年5月11日

    第2回目標検討委員会では、爆風で効果的に損害を与えられることなどが条件となり、
 広島、京都、横浜、小倉の4つの目標都市が選ばれた。京都と広島を優先順位の高い
 AA級目標に、横浜と小倉をそれより優先順位の低いA級目標に分類した。

1945年6月8日 太平洋戦争の続行を決定(本土決戦)

1945年6月23日 沖縄戦の戦闘が終結

1945年7月16日 
マンハッタン計画: アメリカ合衆国がニューメキシコ州アラモゴードにおいて、人類初の原子爆弾の実験に成功。(トリニティ実験)

1945年7月20日以降8月14日まで 原爆模擬爆弾の投下 死者400名、負傷者1,200名

      第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に
 通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774kg、爆薬重量2,858kg)の投下訓練を繰り返した。
 すなわち、原子爆弾の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで
 飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確に
 パンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。 
パンプキン練習作戦は、1945年7月24日、7月26日、7月29日、8月8日及び8月14日と終戦直前まで行われた。

1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。

1945年7月25日

     マンハッタン計画の最高責任者レスリー・グローブスが作成した原爆投下指令書が発令される

 (しかし、それをトルーマン大統領が承認した記録はない)。
  ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた

1945年7月26日 ポッダム宣言

1945年8月2日

  第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
   攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、
   予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、
   予備の第3目標は「長崎市中心部」であった

1945年8月6日、8時15分、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された。

1945年8月8日

  第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
   攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、
   予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった

1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が八幡空襲で生じた靄による視界不良であったため、
       第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。

       ソ連対日参戦

1945年8月10日、トルーマンが全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する指令を出す

1945年8月15日 昭和天皇の終戦放送(玉音放送)

 

核の超大国米国とロシアの確執が再燃し、世界の破滅までの残り時間を警告する

いわゆる終末時計の針は、冷戦時代(120秒)より進んであと100秒を指している。

 

上の3枚の写真は8月6日、6chの大下容子ワイド スクランブルで使用の説明パネル

からの引用です。

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