CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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松風・村雨の墓と平家落武者の墓 in 神戸市須磨区多井畑 on 2020-10-23

2020年10月24日 05時33分34秒 | 神戸情報

2020年10月23日、久しぶりに多井畑の厄神さんとその周辺地を見て歩きました。

本日はその中から、松風・村雨の墓と平家落武者の墓を写真紹介します。

所在地は神戸市須磨区多井畑東所3 又は東所5付近

 現地のGoo地図(神戸市須磨区多井畑東所5)を添付しておきます。

現地へは標識が整備されているので迷うことはないと思います。

地図の中心地番は個人宅ですが松風・村雨の墓はその家の東側(右側)にあります。

 

松風・村雨の墓

上の写真が松風・村雨の墓(五輪塔)です。

右側には松風、村雨 二女之碑と書かれた石碑があります。


仁和2年(886)須磨に流されていた在原業平と恋をした松風、村雨は多井畑村長の娘で

「もしお」と「こふじ」だったと言われている。

松風・村雨は在原行平の死後、多井畑に帰り、淋しく没した。

左は姉の松風(まつかぜ)=「もしほ」、右は妹の村雨(むらさめ)=「こふじ」の墓と

伝えられている。

上の写真は松風・村雨の墓の拡大版

上の写真は現地説明板 新しく令和元年(2019)6月吉日に地元の名士「正木勲さん」

によって建立されました。碑文をそのまま転記させていただきます。

村風・村雨の墓

この二基の五輪塔は、松風・村雨の墓碑と伝えられています。
松風・村雨の姉妹は、謡曲「松風」を初め、多くの文学にとりいれられ、

悲しい物語として有名で次のように伝説で広く世に知られています。
在原行平(ありはらのゆきひら)は仁和3年(887年)光孝天皇の怒りにふれ

 実際には仁和2年(886年)が正しい
須磨の地に配流され、寂しく暮していた。その時、汐汲みに通っていた
多井畑の村長の娘”もしほ””こふじ”の姉妹をいとおしく思い、
松風、村雨の名を与え寵愛した。 三年の歳月がたち許されて
京都に帰るとき行平は小倉百人一首で著名な
「立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今かへり来む」 
 の歌を残し烏帽子、狩衣をかたわらの松の木に掛け姉妹たちへの形見とした。
   二人の姉妹はたいそう悲しんで観世音菩薩を祀り、
行平の無事を祈っていたが、後、多井畑へ帰りわびしく世を去った。
現在須磨には松風町、村雨町、衣掛町などの町名が残っています。

  令和元年六月吉日 正木勲

 

上の写真は松風、村雨之墓と書かれた案内板

 

平家落武者の墓

上の2枚の写真は平家落武者の墓です。 13基の一石五輪塔があります。

上の写真は「平家落武者の墓」現地説明板です。

次のように書かれています。

源平一の谷の合戦(西暦一一八四年)に敗れ、この地で自害した
平家の落武者十三名の墓と今に言い伝えられています。

 

現地の遠景

上の写真は現地の入り口から撮った遠景です。

上の写真は少し中に入ったところからの遠景です。

この写真には「平家落武者の墓」の遠景と「松風・村雨の墓案内石碑(左手奥)」が

写っています。

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