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NHK BS3番組「古代中国 よみがえる英雄伝説」で紹介の三星堆遺跡

2022年07月19日 06時54分19秒 | Weblog

2013年1月10日、BS3で放送された古代中国 よみがえる英雄伝説 「紂王と太公望~王朝交代 古代最大の決戦~」

再放送が7月16日(土)にあり視聴した。

1980年代まで、中国の文明は、黄河の流域に発祥した「黄河文明」が、長江流域及び、周辺地域に拡大したと考えられていた。

 そのため、『史記』及び、『華陽国志』に登場する、「蜀」、即ち古蜀の実在は、信じられていなかった。

しかし、1986年に、四川省広漢市の三星堆遺跡から、大量(1,000点以上)の青銅器などが

見つかり古蜀の実在が、証明されたのである。

三星堆遺跡について上記番組で紹介されていたので写真を中心に紹介します。

三星堆遺跡の概要

以下はWikipediaよりの引用

三星堆遺跡(さんせいたいいせき)は、長江文明に属する古代中国の遺跡の一つである。1986年に中国の四川省徳陽市広漢市の三星堆で発見された。

紀元前2000年頃もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属する三星堆遺跡とその文化は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである[1]。三星堆遺跡自体は、1929年の春に当地の農民が溝を掘っていた際に玉器を見つけたことで、1931年にイギリス人牧師である V. H. Donnithorne によって発見されていた[1]。しかし、長く本格的な発掘はなされず、1980 - 1981年に、初めて四川省文物委員会等により本格的な発掘調査が行われて、大規模な住居跡が発見された。以後、発掘が継続して行われ、1985年10月までに、東・西城壁跡が発見されて、本遺跡が古蜀王国の都城跡と見られるようになった。さらに、1986年には本遺跡の上限が約5,000年前と見られるようになった。また、各種の貴重な玉器・金器・青銅器等が出土し、以上の成果により、1988年1月、国務院は本遺跡を全国重点文物保護単位に指定した。発掘調査はさらに継続され、1996年秋には日中合同の磁気探査などの科学的調査が行われた。2005年に基本的な発掘調査を終え、現在整理研究中である。以上の発掘調査で、本遺跡は東城壁跡約1,100メートル(ほぼこの延長線上に第二展示館がある)・南城壁跡約180メートル・西城壁跡約600メートルが確認され、北を鴨子河とする城壁都市であることが分かった。三星堆遺跡(三星堆文化)は新石器時代晩期文化に属し、上限を新石器時代晩期(紀元前2800年)とし、下限を殷末周初期(紀元前800年)と、のべ2000年近く続いた。4期に分かれ、第1期は4,800 - 4,000年前で、龍山文化時代(五帝時代)に相当し、石器・陶器のみである。第2・3期は4,000 - 3,200年前で、夏・殷時代に相当し、青銅器・玉器が出現し、宗教活動が盛んとなり、都市が建設される。第4期は3,200 - 2,800年前で、殷末・周初期に相当し、精美な玉器・青銅器が製作され、大型祭壇・建築が築かれる。遺跡地区は鴨子河南岸に沿って東西5,000 - 6,000メートル、南に2,000 - 3,000メートルに広がり、総面積約12平方キロメートルで、全体が保護区となり、城壁跡内を含む重要保護区の面積は6平方キロメートルである。

三星堆遺跡からは異様な造形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数出土している。三星堆の遺跡および文物の発見は 3、4千年前の中国の長江文明の古蜀王国の存在と中華文明起源の多元性を有力に証明した。

上の写真は1986年に発見された三星堆遺跡の発掘現場の様子

三星堆遺跡の発掘遺物

上の写真は突目仮面

飛び出した目、耳元まで裂けた大きな口を持つ青銅器の仮面で三星堆文化の代表的な考古遺物

上の2枚の写真は青銅人物像

青銅製の頭部および頸部又は全体で構成された人物像は異なる造形物として数多く出土。

当時の蜀の人物像であろう。縄文時代の土偶と似ているように思えた。

上の写真は青銅神樹

三星堆遺跡の二号祭祀杭から1986年8月に出土した青銅製の扶桑樹。

中国語名「青铜神树(青銅神樹)」(雅名「通天神樹」)、日本語名「青銅神樹」。

殷代晩期のもので、全高396cm、像高(樹高)384cm。3階層になっている幹の各層に

3枝ずつが張り出しており、それぞれの枝に1羽、全部で9羽の霊鳥が留まっている。

枝先には果実がなり、樹の下層には頭を下に向けた1頭の龍が這っている。

9つの丸い皿は太陽を表しており、蜀では太陽が9つあると信じられていたとのこと。

上の2枚の写真は縦目仮面

 

上の写真は金杖

上の写真は青銅立人像が取り出されている場面です。

以下、Wikipediaによる解説文

世界最大の青銅製人物立像。直線的な造形をした高さ約260cmの像。殷代晩期のもので、

全高261cm、像高172cm、総重量180Kg。1986年に二号祭祀杭より出土した[2]。

丈の長い衣裳を身にまとった祭司の姿であり、巨大な両手で何かを抱え持っていたと

思われるが、その何かは欠損している。他の出土物から推定して、儀杖であった可能性が高い。

 

出土した考古遺物は全て三星堆博物館に保管されているようです。

 

蜀について

西周(BC1100~BC770)の武王(BC1046~1043年 在位4年)の時代、周と牧誓八国

の連合軍は「牧野の戦い」で殷(商)の紂王(ちゅうおう)=帝辛を滅ぼしました。

殷(商)はBC1700からBC1100年頃まで約600年続いた実在が証明されている王朝です

牧誓八国は庸国、蜀国、羌国、髳国、微国、卢国、彭国、濮国です。

これらの国の中で考古学上(三星堆遺跡)明らかになった国に蜀があります。

黄河と並ぶ長江。蜀はこの長江流域に栄えた国でした。

1980年代まで長江流域に、発達した文明はなかったのでは?と、思われていました。

しかし、三星堆遺跡には誰も見たことのない青銅器がありました。

「突目仮面」「縦目仮面」など独特の仮面文化があったようです。

殷とは、まったく異なる文化を持っていました。

蜀の都は強大で、殷の都に匹敵するものでした。

周と手を結び、牧野の戦いに参加したのは、未開の地の部族などではなく、高度な文明を持っていたのです。

上の写真は黄河文明で栄えた殷(商)の都跡の殷墟と周の位置と揚子江の上流、

現在の四川省に栄えた蜀の大体の位置を示したものです。

牧野の戦い

牧野の戦いについてWikipediaでは次のように解説されています。

牧野の戦い(ぼくやのたたかい)は、古代中国の紀元前11世紀に、殷の帝辛(紂王)と周の姫発を中心とした勢力が牧野で争った戦い。周軍が勝利し約600年続いた殷王朝は倒れ(克殷)、周王朝が天下を治めることになった。

周軍と殷軍は殷の首都の朝歌に近い牧野で決戦することになった。

牧野の戦いの場所は河南省新郷市で現在は牧野公園となっています。(上の写真を参照)

起きた年代は諸説あり確定していないがBC1,050年頃である。(BC1024年、BC1027年説)

武王11年2月甲子の日という1日が何時か特定すれば確定できる。

武王(BC1046~1043年 在位4年)の時代、周方の太公望は殷に不平を持つ牧誓八国に呼びかけ

連合軍を結成し「牧野の戦い」で殷(商)の紂王(ちゅうおう)=帝辛を滅ぼしました。

戦いは史記に記載されているように1日で終了したという。

殷(青色の勢力範囲)は東方に反乱があり殷の精鋭部隊が鎮圧にあたっていた。

その隙を狙って周と牧誓八国の連合軍が決起し70万の殷軍を撃破した牧野の戦いは

正に天下分け目の戦いであった。殷周革命として呼ばれる場合もある。

中国4,000年の歴史

中国4,000年の歴史という言葉がよく使用されますが殷が誕生したBC1700年頃か

さらに殷より前に17代471年続いた夏王朝からのことを指しています。

古代中国の歴史については解明されていない面が多々あるが興味をひかれます。


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