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兵庫津 浜本陣

2021年03月28日 06時40分04秒 | 神戸情報

兵庫津の浜本陣について調べてみました。Wikipediaによれば

浜本陣(はまほんじん)とは、江戸時代の摂津兵庫津(現在の神戸市兵庫区)
において西国諸藩の宿泊施設として用いられた大商人の邸宅をいう。

以下もWikipediaより(一部加筆)
兵庫においても他国同様、西国街道沿いに宿駅制に基づく兵庫宿本陣が整備されていたが、
浜本陣とはそれとは別に西国大名と個々に結びつき、諸藩の米をはじめとする
産物の販売や藩の用達を引き受けていた問屋業者であり、領国と大阪の間を海路移動する
関係大名の参勤交代にあたっては、その邸宅を宿泊や休息に提供した。
兵庫津は自身が古くからの商業港(大輪田泊)であるとともに、大阪入港に際して
風待ち・潮待ちをする港でもあったためである。兵庫城の南一帯を南浜といい、
それらの商人宅の多くがあったため宿駅本陣(宿本陣)に対し浜本陣と呼ばれた。
これらの浜本陣は、朝鮮通信使来朝の際にも宿所として用いられた。[1]

浜本陣は時代により増減はあるが、幕末には福岡・松江・秋月・山口・宇和島・津
などの藩が利用した繪屋右近右衛門、薩摩藩の小豆屋助右衛門、
佐賀藩の肥前屋粘右衛門、松山藩の網屋佐左衛門、久留米・府内藩の壺屋七左衛門、
岡山・高松藩の網屋新九郎、杵築・延岡藩の網屋左右衛門、
臼杵藩の網屋三太夫、熊本藩の網屋惣兵衛の九軒があった。[2]

浜本陣の遺構は全く現存しない。近年までは唯一の遺構として内陸部の同区会下山町に
移築された旧薩摩藩浜本陣・小豆屋の門があり、発行年の古い書籍などに
この記述がある場合があるが、これも老朽化により平成4年に解体された。


 [1] 兵庫津岡方惣会所史料『朝鮮信使来朝帰帆官録』
 [2]『新版 兵庫県の歴史散歩 上』山川出版社 136頁

上に書かかれているように兵庫津には幕末期に9つの浜本陣がありました。

上の写真は宝暦14年(1764)の寄港時の兵庫津のおける朝鮮通信使宿舎の
割り当て図です。

その中に網屋惣兵衛の浜本陣を除く8つの浜本陣(橙色でマーク)を示しています。

朝鮮通信使の一回の使節の人数は、400~500人で平均人数は450人、そのうちの
100人(水夫)は大阪に留まり、350人が江戸に行きました。

朝鮮の釜山を出発してから、江戸に着くまでに、4ヶ月~半年かかっています。

朝鮮通信使の宿泊などの話題については下記ブログで詳述しています。

 朝鮮通信使と兵庫津 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

450人の使節を兵庫津では浜本陣を中心に宿本陣(神明町にあった井筒屋又兵衛)、

旅籠屋、一般民家などに応援を求め分宿した。

18世紀終わり頃の網屋惣兵衛家の記録によれば、細川氏が参勤交代での人数は

毎回650人を超えたそうです。

上の写真は元禄絵図の部分図で赤字で囲った部分が最初に示した部分です。

 

上記した9つの浜本陣のうち、古くから藩との特別な関係があったと言われるのは

 繪屋右近右衛門(福岡 黒田氏52万石)

 網屋惣兵衛(肥後 細川氏54万石)

 網屋新九郎

以上の三家で、島原の乱(1637-1638)の頃から藩主宿泊や藩米取り扱いに当たった。

少し遅れて

 肥前屋粘右衛門(佐賀藩専属)

 小豆屋助右衛門(薩摩藩専属)があり

合わせてこれら五家は由緒本陣とも呼ばれています。

 

浜本陣に関していくつかのエピソードを紹介します。

エピソード1

 寛永14年(1637)6月23日夜、岡山藩主池田光政を乗せた参勤交代の帰り船が、

 兵庫沖で暴風雨に遭いました。この時、兵庫津の船宿だった網屋新九郎という者が

 和田岬から浜手一帯で松明を次々に焚いて目印を作ったので、乗組員たちはそれを

 頼りに港に漕ぎ着き、九死に一生を得ました。藩主は、直ちに網屋の店に着かれ

 宿泊されました。それ以来、この網屋は代々、岡山藩の浜本陣となりました。

エピソード2

 幕末、風雲急を告げる世相に、倒幕運動ののリーダー西郷隆盛がイギリス公使館員

 アーネスト・サトーと兵庫開港問題について膝を付き合わせて会談したのは、浜本陣

 も終末近い慶応2年(1866)12月、小豆屋(小豆屋助右衛門)でのことでした。

エピソード3(トピックス)

 兵庫津ミュージアム(仮称)の建設に伴い、兵庫県まちづくり技術センター

 埋蔵文化財調査部は昨年9月14日~12月18日に発掘調査を行いました。

 担当者は野田優人氏。

 網屋吉右衛門の浜本陣跡が発掘調査されました。

上の写真は発掘現場 イオンモール神戸南の駐車場の南側 撮影:2021-3-26

発掘調査の概要について下記ブログで書いています。

 兵庫津遺跡発掘調査現地説明会 on 2020-11-13&2020-11-14 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

上の写真は発掘現場の概要 下の方に本陣と書かれている場所が網屋吉右衛門の浜本陣跡

出典:兵庫県立考古博物館 令和2年度発掘調査速報会(2021-3-7開催)配布資料

上の2枚の写真は浜本陣(網屋吉右衛門家)で発掘された石組み遺構

出典:兵庫県立考古博物館編「ひょうごの遺跡」103号(2021年3月)Page6

浜本陣跡からは石組遺構が10基以上見つかっています。石組遺構とは貯蔵施設と

推定されているものです。通常の町屋では石組遺構が無いもの多く、あっても

1~2基程度で浜本陣と町屋の経済格差を示す象徴的なものです。

天保3年(1832)の間取図をもとに神戸市が編集したものです。

上の写真は和田崎町にあった浜本陣の安田家(網屋惣兵衛)の間取り平面図です。

安田家は肥前の細川家と特別な関係を持ち、家臣と同様、扶持を与えられていました。

下記のサイトの第十六図版 兵庫津宿本陣平面図 、兵庫津浜本陣絵屋平面図があります。

 神戸市史. 附図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

参考:成田謙吉 「兵庫津から神戸へ」歴史と神戸 112号 21巻3号(1982)

 

 

 


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