本日は表題のテーマで書いていきます。
三菱製紙高砂工場には2つの煙突があります。(下の写真)
本日の主題の煙突は上の写真の後方に写っている古い煙突です。
撮影:2022-7-6 山陽電車より撮影
この三菱製紙の高砂工場内の、途中で少しくびれた形のコンクリートの煙突は戦前よりあります。
この煙突は、元は60メートルあったそうですが、加古川飛行場が建設された時に風向きの関係で、
この煙突が離陸時に邪魔になったため、軍の要請でほぼ半分に伐ってしまったようです。
戦後、飛行場がなくなったので煙突を延長することになり、現在のような姿になったそうです。
加古川飛行場については加古川市の尾上公民館に加古川飛行場資料館があり、デジタル資料館として公表されています。(下記サイト)
デジタル資料館 加古川飛行場 (kakogawa-airfield.work)
ここでは、簡単な加古川飛行場の紹介に留めておきます。
当時の陸軍大臣の「関西の最重要地区に防空の飛行隊を設置する」との命により、加古川の地が選ばれ、
戦前の昭和12年(1937)1月に建設着手、12月に加古川河口近くの旧尾上村に開設されました。
面積約150ヘクタールの土地に700m×110m級の舗装された滑走路3つと1,300m×300m級の滑走路2つが備えられました。
別名は尾上飛行場。滑走路が三角に交叉しているので「三角飛行場」とも呼ばれていました。
飛行場を中心として航空分廠、航空通信学校、陸軍病院、高射砲隊、憲兵隊、爆弾貯蔵施設などがあった。
配備された戦闘機は当初、95式戦闘機(キ-10、川崎)その後、97式(キ-27、中島飛行機)が主力であった。
ここで編成された飛行13戦隊、第246戦隊は関西地方の防空はもとより南方方面にも派遣された。
飛行機の整備や少年飛行兵の教育などの役割も担っていました。
戦争末期の1945年頃になると、関東・中部地方から知覧基地(鹿児島県)に向かう特別攻撃隊の中継・出撃基地にも使われました。
詳しくは別途、纏めて記事を書こうと思っています。
上の写真は昭和35年(1960)に撮影された加古川飛行場跡
出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25
上の写真は加古川飛行場の施設平面図
出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25
上の写真は陸軍が記録した加古川飛行場の施設概要
出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25
加古川飛行場跡を歩いて調査したサイトが参考となるのでリンクさせていただきます。
【戦争遺跡】加古川飛行場と高射砲道路を歩く | 楽しいむ〜さん一家 (blog-sanyo-railway.com)
加古川飛行場跡の碑などの写真(撮影:2021-11-25)を添付して筆を置きます。
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