2019年10月4日(金)、岡山県の備前市に所用があった為、JR西日本赤穂線の西片上駅
から備前市役所まで歩いて行った。旧山陽道で碑が設置されており見どころが多い。
途中で見つけた史跡を写真紹介していきます。
今回はその第7回で清水紫琴(豊子)生誕の地について写真紹介します。
シリーズ過去の記事:
第1回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その1 宇佐八幡宮
第2回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その2 潮光山正覚寺
第3回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その3 往還名主跡
第4回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その4 刀工備州祐高造之宅跡
第5回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その5 片上鉄道跡
第6回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その6 津山街道
上の写真は清水紫琴(豊子)生誕の地の碑
側面の説明板には次のように書かれています。
女権運動に身を投じ「女学・雑誌」の記者となる。
「こわれ指輪」で文壇に登場し、女流作家として活躍した。
上の写真はもう片方の説明板
代表作「したゆく水」「移民学園」など
(1868-1933)と書かれています。
Wikipediaより引用して補足して紹介します。
晴正とともに自由民権運動に携わるが、晴正は結婚前から交際していた女性を紫琴と
妊娠させられ正式に結婚しないまま出産し、その子供を兄の養子とした。
1892年(明治25年)、農芸化学者の古在由直と結婚し、古在紫琴の名で女性作家として活動したが、
1901年(明治34年)、「夏子の物思ひ」以後、筆を絶つ。
作家の山口玲子は『泣いて愛する姉妹に告ぐ - 古在紫琴の生涯』(草土文化、1977年)を上梓している。
昭和8年(1933)7月31日没
最初の夫・岡崎晴正は岩手県出身の免許代言人で、免許代言人制度が誕生した翌年の1877年(明治10年)
に免許取得。全国各地の代言人は法律の専門知識を活かして事件の解決に取り組むとともに、
盛んに政談演説会を開き、日本の自由民権運動・政党運動をリードしたが、岡崎も1880年(明治13年)に
盛岡市内の芝居小屋で開かれた「政談演説討論会」で他の免許代言人らとともに「国会は是や否や」
を巡る討論に参加している。のちに奈良の代言人中心の知識人グループ「興和会」(寧良交諭会)の
中心的メンパーとなり、1887年(明治20年)には妻の紫琴とともに奈良瓦堂劇場に二千人を集めた演説会に
登壇するなど、奈良民権家、大同団結運動派の人々と活動し、興和会発行の『興和之友』の特別寄稿家
でもあった植木枝盛と紫琴が知り合うきっかけとなった1888年(明治21年)の懇親会にも同席していた。
紫琴との間に男児をもうけたが、結婚4年後の1889年(明治22年)に離婚。
2人目の夫・古在由直との間に4男1女をもうけるが、三男と長女は夭折。長男・由正は東洋史学者・幣原坦の
次女・澄江と結婚。次男・由重は哲学者。天文学者の古在由秀は由正・澄江夫妻の長男であり、農学者の
古在豊樹は由重の子なので、由秀と豊樹はともに紫琴の孫にあたる。
大井憲太郎との子・清水家邦(1891年生)は紫琴の兄・清水謙吉の養子となったが1901年に謙吉が亡くなり、
祖父貞幹が面倒をみたのち、小山慎平(貞幹の弟子で紫琴の姉・貞の夫。倉敷町初代町長)に育てられ、
岡山商業高校(現・岡山県立岡山東商業高等学校)、慶應義塾理財科を卒業し、古在家とも親しく交流が
あった。大学卒業後はチュコスロバキアでの外交関係その他の職についた。
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