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兵庫県立美術館[小企画]「吉田博 播磨造船所 絵画群」 の展示鑑賞 on 2020-10-21

2021年05月08日 05時37分59秒 | 神戸情報

2020年10月21日、兵庫県立美術館で「吉田博 播磨造船所 絵画群」の展示があり

鑑賞しました。

油彩画23点、鉛筆、色鉛筆、水彩が85点の作品が展示されていました。

撮影禁止であったので、リーフレットより展示の概要を憶えのため記載します。

国内外で評価を得た洋画家・版画家の吉田博(1876~1950年)が太平洋戦争の

末期、昭和19年(1944)相生市に滞在し、播磨造船所(現IHI相生事業所)で動員

された勤労学徒の作業の様子などを油絵やスケッチで描いたものです。

リアルに表現された勤労学徒の姿は今でも印象深く記憶に残っています。

スケッチブックも手にとって見ることができました。

一昨年に亡くなった義母(大正10年生まれ)からも倉敷の軍需工場に住み込みで

作業に従事した経験があるとの話を聞いています。

IHIの倉庫などで眠っていた作品約100数点を集め、兵庫県立美術館の学芸員の

出原均さんが企画されました。

作品群が発見されたのは1990年、IHIの造船部門だった相生第1工場が分社化

されてIHIアムテック(現JMUアムテック)が発足する際、工場の事務所倉庫で

吉田博の作品(油絵)12点が見つかった。発見者は初代社長の石津康二さん。

その後、2017年にアムテック第4代社長の山上和政さんと県立美術館の出原均さんの

尽力で吉田博画伯の作品群の収集作業が進み関係者の協力もあって今回の小企画展に

繋がった。



上の写真は展示会のリーフレット

展示会要項
 名称:「吉田博 播磨造船所絵画群」展

 会期:2020年10月10日~12月27日  開催場所:兵庫県立美術館(TELは078-262-0901)

 観覧料金:一般500円

上の写真は鑑賞ガイド

上の写真は出原均さんの講演会のチラシ

 

吉田博(1876-1950)の略歴は以下のとおり(Wikipediaより引用)です。

明治9年(1876)9月19日、旧久留米藩士・上田束秀之の次男として、久留米市に生まれる。

1888年(明治21年)、福岡県立修猷館に入学。
1891年(明治24年)修猷館の図画教師であった洋画家・吉田嘉三郎に画才を見込まれ、
    吉田家の養子となる。
1893年(明治26年)、修猷館を卒業し、京都で洋画家田村宗立に師事。
1894年(明治27年)、三宅克己と知り合いその影響で水彩を描き始め、三宅の勧めで上京して
    小山正太郎が主催する不同舎に入門し、後に明治美術会の会員となる。
1898年(明治31年)、明治美術会10周年記念展に、『雲叡深秋』、『雲』などを出品。

1899年23歳で、中川八郎と共に渡米し、デトロイト美術館で「日本画家水彩画展」を開催。

1900年(明治33年)には、ボストン美術館で2人展を開催し成功。
その後渡欧して、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを巡歴し、パリ万博に
おいて、日本現代画家作品展示『高山流水』が褒状を受けている。米国へ戻り、
満谷国四郎、河合新蔵、鹿子木孟郎、丸山晩霞、中川八郎などと、ボストン・アート・
クラブで「日本画家水彩画展」を開催。

1902年(明治35年)、前年に解散した明治美術会を引き継ぐ形で、吉田の発案により、
    満谷国四郎、石川寅治、中川八郎らと太平洋画会(現・太平洋美術会)を結成。
    同年、第1回太平洋画会展を開催し、『榛名湖』など13点を出品。

1903年、第2回展では『昨夜の雨』など21点を出品している。後に、太平洋画会は黒田
清輝らが創設した白馬会とともに、明治時代の画壇を二分する団体として発展していく。

1903年(明治36年)、2度目の渡米で、ボストンを拠点に展覧会を開催。
1904年、セントルイス万博に、『雨後の桜』、『昨夜の雨』など3点を出品し、銅賞碑
を受賞。この2度にわたる渡米により、画風の基礎が出来上がり、かつ豊かになった。
その後、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCなどで展覧会を開催し、
欧州諸国、及びモロッコ、エジプトを巡歴して、
1906年(明治39年)帰国。

1907年、東京勧業博覧会で『紐育ブルックリンの夕景』が2等賞を受賞。第1回文部省
    美術展覧会(文展)で、『ピラミッドの月夜』、『新月』などを出品、
    後者が3等賞を受賞し、文部省買い上げとなる。
1908年(明治41年)、第2回文展で『雨後の夕』が2等賞(最高賞)を受賞。
1909年(明治42年)、第3回文展で『千古の雪』が2等賞(最高賞)を連続受賞。
1910年には、第4回文展の審査員に任命され、1913年まで務めている。その後は、

無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)として毎年文展に出品し、1919年の帝国美術院創立後も
その展覧会である帝国美術院展覧会(帝展)に作品を発表し続けており、1924年以降、
数回にわたり帝展の委員や審査員を務めている。早くから風景画を題材とし、特に山岳
と建物を好んでモチーフに選んだ。夜の光のもつ情趣を扱った作品も多い。

1920年(大正9年)新版画の版元の渡辺庄三郎と出会い渡辺版画店から木版画の出版開始
1921年(大正10年)、『牧場の午後』及び『帆船』のシリーズを出版。
1923年(大正12年)、関東大震災により木版画と版木を全て焼失し、三度目の渡米。
   この時、渡辺木版画舗により制作した木版画7種を持参していくと好評を得た。
   また、海外では粗悪な浮世絵版画が高額で取引されているのを知り、日本人と
  して恥ずかしく思ったという。こうした経験から、これ以降、温和な画風の木版画の
   作品が多くなっていった。特大判のもので、数十度摺りとなったものもあった。
   数多くの富士山を描いた作品を見ると、葛飾北斎から刺激を受けていたと考え
   られる。ボストンを拠点に、フィラデルフィア、デトロイトなどで展覧会を開催。

1925年、欧州歴訪の後に帰国し、新宿区下落合に吉田版画スタジオを創設、木版画
   『アメリカ・シリーズ』、『ヨーロッパ・シリーズ』を自ら版元となり出版を開始。
1927年(昭和2年)、日本およびハンガリー現代版画展に40点を出品。
1936年(昭和11年)、日本山岳画協会を結成。

1937年(昭和12年)、第1回文部省美術展覧会(新文展)に『利尻姫沼』を出品し、
        李王家買上げとなる。戦時中は従軍画家として中国へ赴いている。

戦後は、欧米での知名度が高かったせいか、吉田のアトリエは進駐軍の芸術サロンの
ようになった。敗戦直後の1945年(昭和20年)の秋には、いち早くダグラス・
マッカーサー夫人も、下落合のアトリエを訪問している。米軍のバンカースクラブ
(将校クラブ)での版画講習会や、参加者をつのってアトリエ見学会が毎月開かれるなど
吉田作品の人気はきわめて高かった。
1947年、太平洋画会会長に就任し、第3回日本美術展覧会(日展)の審査員をつとめ、
     『初秋』を出品。

1950年(昭和25年)4月5日、新宿区の自宅で老衰のため死去。享年74歳。
         墓所は文京区白山の龍雲院。法名は大機院俊峰徹心居士。

 

上の写真は同時期に兵庫県立美術館で開催の皆川明「つづく」の看板

こちらの展示は人が多く観覧していました。機会があれば記事にしたいと思います。

 

上の写真は吉田博の展示会と同時開催の視覚遊戯の看板


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