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日本で最初に商用の洋式高炉をつくった大島高任

2023年10月05日 05時53分25秒 | 日本はじめて物語
本日は日本で最初に商用の洋式高炉をつくった大島高任について書いていきます。

Wikipediaによれば大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826年6月16日) - 
明治34年(1901年)3月29日)は、明治時代の鉱山学者。
父・大島周意は藩医として盛岡藩に勤めた。
文政9年5月11日(1826年6月16日)、盛岡仁王小路にて盛岡藩侍医・大島周意の長男
として生まれる。天保13年(1842年)17歳で留学、江戸で蘭方医の箕作阮甫や
坪井信道に師事し、長崎では採鉱術を学ぶ。
嘉永6年(1853年)、水戸藩主の徳川斉昭から招かれて那珂湊反射炉を建造。
大砲の鋳造に成功するが、原材料が砂鉄の為にその性能は高くはなかった。
西洋と並ぶ高品質な鉄を造るべく、良質の鉄鉱石が産出する大橋(釜石)の地に
U・ヒュゲーニン著の「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を参考として
西洋式高炉を建造、安政4年12月1日(新暦1858年1月15日)に鉄鉱石製錬による
本格的連続出銑に成功する。

このことから大島高任は近代製鉄の父と呼ばれています。
大島高任は大橋高炉の他にも計10基の高炉を築き、明治維新後の産業の発展に大きく貢献。
尚、日本で最初に洋式高炉をつくったのは薩摩藩主の島津斉彬で安政元年(1854)に
つくられていますが完成後、薩英戦争で破壊されてしまいました。

上の写真は大橋高炉の外観です。
出典:湯本豪一監修「日本人はじめて百科」④(2008)Page9
高炉内の高温の空気が下から上昇するのを利用した鉄の精錬法で、反射炉に較べて
炉内が高温に保たれるため、砂鉄よりも大きな鉄鉱石を溶かすことが可能となった。
大橋高炉には3座あり年産量は約640トンであった。

上の写真はJR釜石駅前の近代製鉄の父「大島高任」の銅像
出典:Google ストリートビュー

日清戦争の賠償金を使用して日本初の本格的な官営の製鉄所(八幡製鉄所)が建設
されました。当初、高炉の火入れに何度も失敗したが明治34年(1901)野呂景義の尽力で
操業を開始。軍艦や機械の原材料となる大量の鉄鋼を生産し、日本の重工業の
基盤を築く原動力となりました。

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