NHKラジオの「きょうは何の日 5月29日」を聴取しましたので内容を紹介します。
放送では下に添付の4つの項目が紹介されていました。
・大正2年(1913)ストラヴィンスキーが作曲したバレー楽曲「春の祭典」が初演
・昭和17年(1942) 与謝野晶子が死去
与謝野晶子の生誕地は堺市です。関連ブログにリンク。
堺散策 その8 与謝野晶子生家跡 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
・昭和28年(1953)エドモント・ヒラリーとネパール人のシェルパ テンジン・ノルゲイが
世界最高峰のエベレストに初登頂
・平成27年(2019)鹿児島県 口永良部島の新岳で噴火 最高レベルの噴火警戒レベル5が発令
写真が無いと寂しいのでJR西日本日生駅の前にある駅前公園で与謝野晶子の歌碑の
写真を添付しました。撮影:2019-1-21
上の写真は歌碑の全景です。
上の写真は歌碑の歌の部分で国立公園ひなせ諸島のあとに
「妻恋ひの 鹿海こゆる話聞き それかと見れば 沖の鶴島」と書かれています。
上の写真は歌碑の説明書きです。
「与謝野晶子先生之歌碑
昭和8年6月、与謝野鉄幹・晶子御夫妻は、正宗敦夫氏らと共に、日生諸島での
舟遊びに興じ、その美しい景観に心をうたれ、心情を数首の歌に託された。
書は与謝野晶子先生の御令孫、与謝野馨(衆議院科学技術委員長)によるものである。
平成二年五月吉日 日生町」
与謝野晶子についてWikipediaより引用紹介します。命日は昭和17年5月29日
与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年(明治11年)12月7日 -
1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の
「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
鳳志ようは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・
甲斐町西1丁[1])で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女
として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から
疎まれて育つ[2]。 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。
9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)
に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、
「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)[3]『文学界』や紅葉、
露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であった。
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、
1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の
関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。
翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)
を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人
出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。
1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。
1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で
始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに
行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[4]、また『新訳源氏物語』の
序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を
開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた
(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が
組まれた[5]。 5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスの
マルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、
ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著
『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、
女性教育の必要性などを説いた。
1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともに
お茶の水駿河台に文化学院を創設する。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を
成立させる。 子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の
職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。
来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらって
いたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、
残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動と
エネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
1940年5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる。
同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去[6][7]。
戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉[7]。墓は多磨霊園にある[8]。
本日(2022-5-29)は兵庫県相生市に於いて3年ぶりにペーロン祭が開催されますので
過去の動画を紹介しておきます。相生ペーロン祭
2019年 相生ペーロン祭 on 2019-5-26 その1
相生でペーロン競漕 水上の戦い熱く 神戸新聞 2015年5月31日
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