2022年5月18日、姫路市景福寺前7−1に所在する景福寺を訪問した。景福寺は
応安2年(1369)大本山永平寺開山道元禅師より六代目にあたる通幻寂霊禅師によって
開創された名刹である。景福寺の墓所は、境内と景福寺山にある。姫路藩の藩主であった
松平 明矩(1713-1748)の墓は、景福寺山にあり墓参したので墓碑の写真を紹介します。
戒名は正眼院殿廓然無聖大居士
まず、Wikipediaより松平 明矩(あきのり)の生涯について引用紹介します。
正徳3年(1713年)、陸奥白河藩支藩の白河新田藩主・松平知清の長男として誕生した。母は側室の本多氏。
享保6年(1721年)の父の死に伴い新田藩主となるが、本家白河藩に子がいないため、享保12年(1727年)に伯父にあたる松平基知の養子となり、享保14年(1729年)閏9月2日、白河藩を相続する。知清または基知から偏諱を授かってこの頃までは義知(よしちか、初名)と名乗っていたが、基知の死後にその1字を憚ったのか、のちに諱を明矩に改めている。寛保元年(1741年)11月1日、姫路に国替となった。
延享2年(1745年)、9代将軍・徳川家重が将軍に就くと、直後に来日した朝鮮通信使の接待役を命じられたが、費用がないため藩領に臨時の御用金を課した結果、大一揆が発生し、その最中の寛延元年(1748年)に36歳で死去した。
家督は幼少の長男・朝矩が継いだ。
松平 明矩は書や芸能など文化・芸術に深い造詣をもった人物である。
上の写真は姫路藩主の松平明矩公の墓所全景 墓は荒れた状態であった。
墓所に使用されていたと思われる石材の残骸が墓の周囲に散在していました。
上の写真は松平明矩公の五輪塔
上の写真は五輪塔の前の亀趺(きふ)と呼ばれる亀のような石像がありその上に松平明矩公の
事蹟、顕彰事項などが書かれた石碑がある。文章の内容は解明できず。
上の3枚の写真は姫路市教育委員会、景福寺山史跡保存会が作成した現地説明板
上の2枚の写真は景福寺山の墓所への入り口と景福寺山史跡保存会が作成の松平明矩墓所への案内板
景福寺山の墓地には幕末に北海道で種痘をした井上元長や、勤王志士、明治期の第2代の
姫路市長らの墓もあり景福寺山史跡保存会が説明パネルをつけています。
一例として明治期の第2代の姫路市長「小畑茂穂」の説明パネルと墓碑を添付。
(下の2枚の写真)
上の写真は姫路城を見晴らせる場所に平成29年(2017)5月、景福寺山史跡保存会が
作成した説明パネル。読み難いのでそのまま転記しておきます。
慶応4年(1868)正月3日に始まった鳥羽伏見の戦いで姫路では備前藩の兵が16日の午後
景福寺山上から姫路城に向けて(大砲を)発砲した。
2013年10月には、墓所を守るため、寺と協力し、研究者や市民らが景福寺山史跡保存会を
結成した。2015年7月には中心メンバーの津山邦寧さんは墓所の調査をまとめた報告書
「景福寺とその周辺の史跡」(税抜き1500円)も出版されています。
この本は兵庫県立図書館、姫路市立図書館などの蔵書館で閲覧できます。
最後に景福寺山の墓地から観た姫路城の写真を添付して筆を置きます。
ご丁重なコメントを戴きありがとうございました。
ymgoro様の播磨の道標も訪問させていただきました
大変な労作で今後、参考にさせて頂きたいと考えて
います。このようなコメントが励みとなりブログ作成の原動力となっています。今後ともよろしくお願いいたします。