CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

鈴木商店に関する本 in 兵庫県立図書館

2014年06月21日 06時11分54秒 | Weblog
兵庫県立図書館所蔵の本を図書館のHPで検索すると下記リンクのような結果になりました。
図書館で借りる時に便利なように分類も入れておきました。



拡大版は下記で見れます
http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/suzukisyoten.pdf

兵庫県立図書館では10冊まで借りることができます。
是非、ご利用ください。

6冊の検索結果ですが貸出可能な5冊を2014年6月18日から借りています。


上の写真は太陽鉱工株式会社が作製された鈴木商店物語の表紙です。

この内容については今年の3月or4月に鈴木商店のOB会 辰巳会のサイト(鈴木商店記念館)からも観れます。
鈴木商店記念館のサイトにもリンクしておきます。

http://www.suzukishoten-museum.com/

2番目の本は城山三郎の「鼠 鈴木商店焼打ち事件」丹念な取材により米騒動において長年抱かれていた
鈴木商店の汚名を晴らした力作である。

鼠とつけたのは鈴木商店の大番頭の金子直吉の俳句の号が「白鼠」であったことからか?

3番目の本は「黎明の女たち」でこの中のPage37からpage72にかけて島京子氏が幻の商社に実在したもの
鈴木商店女主人・鈴木よねについて書かれています。

Page66あたりで鈴木よねの愛孫で高畑誠一氏夫人の千代子さんへの取材で鈴木よねの人間像について書かれた
くだりがありその部分を紹介しておきます。

「祖母(鈴木よね)は大して頭のええ人とは思いませんでしたけど、父(2代目岩次郎)は大へん頭のええ人
 でした。あれほど目から鼻へ抜けるというか、何というか、それでいて包容力があって、人をそらすことが
 なかった。父ほど頭のいい人は、その後あまり知りません。遊んだのはいけなかったけど」


この本の内容について詳しく書かれているサイトにリンクさせていただきます。
  http://singetu.ddo.jp/uminaritamazu/suzuki_yone/suzuli_yone.htm

4番目の本 桂芳男著 「総合商社の源流鈴木商店」では

Page112に鈴木商店焼打ちの根本原因について鈴木商店支配人西川文蔵は次のように分析しています。

(1)寺内内閣と反対派(憲政会)の政争

(2)社会主義者の煽動

(3)大阪朝日による「後藤-鈴木」攻撃



5番目の本 日本近代化の研究 下巻 Page443-476に

「鈴木商店金子直吉における経営者機能と企業者機能」と題して井上忠勝氏が書かれています。


鈴木商店について書いた小生のブログ

 読売テレビ開局55年記念ドラマ「お家さん」

 鈴木よねの旧本宅跡 on 2013-6-24

 鈴木商店所縁の人達のお墓 in 追谷墓地 on 2013-6-24

 神戸と映画 in 神戸映画資料館 on 2013-6-8
  鈴木よねの息子(長男)2代目鈴木岩次郎が神戸新開地の映画館「聚楽館(しゅうらくかん)」
  建設のときに多額の寄付をした話題

 祥龍寺の鈴木よね社長の銅像と大番頭金子直吉、柳田富士松翁の頌徳碑

 神戸製鋼神戸製鉄所の高炉2017年度に休止。跡地で発電所を増設。
  鈴木商店から分かれた会社である神戸製鋼の話題です。

 神戸臨港線
  大正7年(1918)の地図に鈴木商店の名前が出てきます

 須磨寺 一の谷鯖大師 貞照寺前の十六羅漢石造 と釈迦如来石仏
  番頭の金子直吉が寄付をした十六羅漢像が須磨寺の境内に残っている話題です。

 インド高速鉄道計画、双日が契約 円借款で最大、着工へ(共同通信) - エキサイトニュース  鈴木商店から派生した双日に関する話題です。

 7月23日 きょうは何の日
  大正7年(1918)富山県魚津町の漁家の主婦たちが米の県外移出を阻止する集団行動を
  起こした所謂「米騒動」と同年(大正7年)8月12日に起きた鈴木商店焼き討ち
  に関する話題です。


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モッチモ・パスタ 神戸須磨店でのランチ on 2014-6-19

2014年06月20日 05時13分30秒 | 神戸情報
2014年6月19日(木)に食べたモッチモ・パスタ 神戸須磨店でのランチを写真紹介します。

モッチモ・パスタ 神戸須磨店の基本情報
住所:神戸市須磨区多井畑東町22-1  TEL:078-791-0300
ジャンル:パスタ  定休日:1月1日を除き無休
料理ジャンル:イタリア料理 イタリアン


公式HP

注文したのは本日のパスタランチ 980円(税抜き)です。


まずサラダがでてきます


次にハーフバケット 奥様はメロンチーズとハチミツ 私は明太子とハチミツを選択


メインのパスタ 2人ともトマトソースを選択しました。


上の写真はモッチモ パスタ 神戸須磨店の外観です。

過去の訪問記

モッチモ・パスタ 神戸須磨店でのランチ on 2012-6-25

モッチモ・パスタ 須磨店でのランチ on 2010-10-30

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兵庫県立図書館郷土資料室でジョセフ・ヒコに関する書籍や文献、雑誌の展示が行われています

2014年06月19日 05時02分46秒 | 神戸市以外の兵庫県
明石市の兵庫県立図書館に2014年6月18日、図書館入門講座「兵庫ゆかりの人物を調べてみよう」
に出席参加及び借りていた本を返すために出かけた。

その折、表題のジョセフ・ヒコに関連する書籍などが展示されていましたので本の名前や県立図書館
の分類番号などを判る範囲でまとめてみました。また関連する内容についても補充して述べる。


ジョセフ・ヒコがどんな人物なのかを簡単に書かれたパネルが作製されていました。(上の写真)
パネルの写真にジョセフ・ヒコ (別称では浜田彦蔵、彦太郎、播州彦蔵、アメリカ彦蔵などがある)
の銅像(播磨町の中央公民館の前に銅像がある)が使用されていましたので現地の説明を添付します。




それでは本の紹介に移行します。



上の2枚の写真は展示の全体を撮ったものです。
兵庫県立図書館の郷土資料室で見れます。

上の写真はジョセフ・ヒコが明治25年(1892)に刊行された自叙伝「THE NARRATIVE 
OF A JAPANESE VOL.1 」と明治28年(1895)に刊行のVol.2(下巻)です。
日本人で初めての英文の自伝書となります。


上の写真はジョセフ・ヒコの自伝の訳本などでアメリカ彦蔵自伝Ⅰ及びⅡ 浜田彦蔵著 中川努, 山口修訳で
The Narative of a Japaneseの完全訳書です。左から7冊目から9冊目


上の写真はジョセフ彦が日本で初めて新聞を発行した26号までを収納した早稲田大学出版部刊行の
「海外新聞」です。
日本語による近代的新聞の最初の創刊はジョセフ・ヒコが岸田吟香本間清雄(潜蔵)らの協力を受けて
英字新聞を日本語訳した「海外新聞」正確には「新聞誌」で1864年6月28日(元治元年5月25日)発行
されたのが最も古いとされています。
今年の6月28日で150周年となります。
オリジナル品は播磨町郷土資料館が最近保有することになりました。(下の写真)




詳細はEOひかりテレビ歴史ロマン 2014年3月17日放送を参照(下記のWebでみれる)
http://eonet.jp/eohikari-ch/rekishi/


上の写真は新聞史に関する書籍を紹介したものです。

1864年6月28日に日本で初めての新聞が発刊された記念碑が横浜にあり記事にしていますので
リンクしておきます。
日本国新聞発祥之地の碑 in 横浜関帝廟通 on 2014-3-14


上の写真はタイトル:ジョセフ・ヒコ 副題:ジョセフ・ヒコ アメリカ市民権取得150周年記念特別展
播磨町郷土資料館が2008年10月に刊行したものです。




上の2枚の写真は播磨町郷土資料館の紹介とリーフレットが置かれていました。
播磨町郷土資料館では今年の10月4日から11月30日の会期で「ジョセフ・ヒコの生涯と新聞史」
の企画展が開催される予定になっています。


上の写真の1番左は一坂太郎著の「ひょうご幕末維新列伝」Page10-16にジョセフ・ヒコの悲劇と題して
漂流のことと新聞発行のことが記述されています。
真ん中の雑誌は2007年3月刊のBan Cul:播磨がみえる63号で著者の井上朋義氏(故人)は播磨町
古田の正願寺の住職でもありました。

播磨人物伝 新聞の父ジョセフ・ヒコ(1) 漂流、そして異文化のアメリカへ の題で
書かれています。

井上朋義が書かれたジョセフ・ヒコに関する著作は沢山あり下記のブログで纏めています。

「怒涛を越えた男たち」の石碑 in 播磨町古田の正願寺 on 2014-2-22


上の写真は左から「近盛晴嘉著のジョセフ彦 日本ブリタニカ1980年刊」
「小西聖一著の 日本初、新聞が発行された 理論社 2008年刊」
「山下 昌也著のヒコの幕末 水曜社 2007年刊」


上の写真は「歴史と神戸」「神戸史談」「Ban Cul:播磨がみえる」などです




上の写真はジョセフ・ヒコ所縁の石碑などの写真と説明パネルです。

小生のブログでも紹介していますのでリンクしておきます。

左上の写真 播磨町蓮花寺の横文字の墓
  ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その4 蓮花寺の横文字の墓

左下の写真 ジョセフ・ヒコ生誕の碑(播磨町)
  ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その2 新聞の父ジョセフ・ヒコの記念碑

右上の写真 神戸市兵庫区能福寺の日本で初めての英文による観光案内(兵庫大仏)
  ジョセフ・ヒコの英文碑

右下の写真 神戸市中央区にあるジョセフ・ヒコの旧居跡
  新聞の先駆者ジョセフ・ヒコの旧居跡(その2)

なお、ジョセフ・ヒコと奥さんのお墓は青山の外人墓地に眠っています。
  浄世夫彦之墓(ジョセフ・ヒコと妻の濱田 子(ちょうこ)の墓)in 青山霊園の外人墓地 on 2014-3-14
















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和平 神戸ガーデンシティ店でのランチ on 2014-6-16

2014年06月18日 07時16分36秒 | 神戸情報
一昨日(2014-6-16)、和平 神戸ガーデンシティ店でのランチを写真紹介します。

和平 神戸ガーデンシティ店の基本情報

住所:神戸市垂水区舞多聞東1丁目10−23   TEL:078-787-2405 、050-5797-2762
料理ジャンル:和食
公式HP:http://www.wweb.co.jp/shop/koube.html


上の写真は私が注文した松花堂お造り御膳 1,580円(税抜き)です。


上の写真は奥様が注文した四季の里セイロ御膳 1,800円(税抜き)です。

私は完食しましたが奥様は何点か不満の品がありました。



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第1回 塩屋マチアルキ on 2014-6-15

2014年06月16日 06時23分50秒 | 神戸情報
2014年6月15日(日)の午前中に表題の「第1回 塩屋マチアルキ」に参加しました。

当日は朝日新聞が2014年06月12日(木)の 大阪 朝刊 神戸・1地方で紹介記事があったことも
あり主催者も驚くような100人以上の参加がありました。

垂水おもちゃ箱のブログでさっそく記事にされていますのでリンクさせていただきます。

  http://tarumitoybox.blog.fc2.com/blog-entry-639.html

ペンネーム「塩屋大町さん」の説明は非常に良かったのですが人が多すぎて聞こえなかったことが
大半でした。

参加したことの証拠になるような写真をいくつかアップしておきます。


上の写真はB地点(塩屋谷川の橋上)での説明。
配布にリーフレットでの説明によれば 旭湯、尾崎さん宅があったことバリチュー馬の話題など


上の写真はC地点 いかなごくぎ煮発祥の地 魚友の話題 お米屋の中塚商店など。


昭和10年(1935)に魚友によりいかなごのくぎ煮が誕生したそうです。

以前に作成した小生のブログ
  いかなごくぎ煮発祥の地塩屋魚友


上の写真はD地点塩屋町公園に向かう参加者の皆様。


上の写真は曹洞宗のお寺「安養寺」の入り口。

あまり詳しい説明ではありませんが以前に書いた小生のブログにリンクしておきます。
  塩屋 安養寺





上の2枚の写真は同じくD地点 の岩井邸(現在人は住んでいない)
 当日の配布資料によれば 天野邸→北山邸→岩井邸と持ち主が変わった。
洋館の他に和館があった。 住居用ではなく社交場として利用されていたとのこと。


上の写真はE地点付近からの塩屋漁港を臨んだ遠景です。


上の写真は渡辺氏宅があった場所に残るレンガ造りの塀 現在は月極の駐車場。


上の写真はお墓のあったF地点
背景は三菱の社宅。
この三菱の社宅の敷地は山陽電鉄の会長をされていた牛場氏のお宅があったところ。

今回周らなかったが鈴木商店の別荘があった場所やロシア人のお婆さんが住んでいた場所も
配布資料で紹介されていました。

以下過去に取り上げた塩屋関連のBlog記事及び関連サイトを列挙します。
旧ジェームス邸 望淡閣

旧ジョネス邸

塩屋 旧グッゲンハイム邸

明石海峡から見た旗振山、鉄拐山、鉢伏山(須磨浦山上公園)

塩屋 山王神社

塩屋八十八ケ所

塩屋 安養寺

塩屋 西向地蔵

塩屋の町遠景

塩屋ジェームス山のライオン像

岩船不動明王石仏と千坊ケ谷廃寺

旧塩屋村 若宮神社

源平合戦戦歿者供養塔(源平塚)

塩屋村毘沙門天

亀光大明神


小田桐一良先生  塩屋の史蹟めぐり 

神戸菓子 シーホースのレアーチーズ on 2013-6-1

ケーブルテレビJ:COMチャンネル「おちゃのこsaisai」の番組で当Blogの写真が放映される

ジェームス山 塩屋カントリークラブレストランでのランチ on 2012-5-27

ジョリーパスタ塩屋浜店でのランチ on 2010-12-12

神戸塩屋漁港の防波堤延長工事 on 2010-8-30

塩屋百年百景の写真展示 in 神戸市垂水区役所

平磯緑地の万葉歌碑

塩屋芸文展
コメント (2)
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兵庫運河の歴史

2014年06月15日 16時58分26秒 | 神戸情報
2014-6-11に薬仙寺付近の防潮堤水族園の魚の展示に混じって兵庫運河ができるまでの苦労を
物語風にたパネルが目にとまったのでそのまま引用紹介します。









上記の3と4のパネルで神田兵右衛門が新川運河を明治9年(1876)に作った内容が書かれています。

神田兵右衛門の顕彰碑は和田神社にあります(その写真を下に添付)


文章の内容は下記のとおり。
「神田翁彰徳碑
兵庫県知事正三位勲一等服部一三篆額

 求めて得ざる者は名にして、得て失ひ易き者は望なり。衆望の之に帰し、人之を服慕し令名益々盛なるは実に難し。神田翁の如き難ずる者も難ぜず。謙にして愈々顕はる。其積徳の致す所、偉と謂ふベきなり。翁、名は胤保(たねやす)、号は松雲、播州印南郡大塩村梅谷庄左衛門君の第三子。天保十三年二月十八日を以て生る.安政三年六月兵庫神田氏の養ふ所となる。(養子となる)慶応元年九月家を嗣承し父の称兵右衛門を襲ふ。明治元年二月会計宮御用掛となり東征の出納を掌る。時に姫路藩未だ順逆をつまびらかにせず向背決せず。岡山兵来りせまる。上下紛擾し藩老高須隼人、薩将岩下氏と謀り以って帰順す。翁此議に参与し周旋甚だ力む。盗を防ぎ暴をふせぐの法制未だ定まらず。翁即ち議して町兵隊を編し以て不慮を警す。又教育の急務たるを論じ、学堂を建置す。命じて明親館といふ。五年学制始めて定まる。すなわち小校十数を設く。又地を購ひ拡張す。今の兵庫尋常小学の地是也。港湾未だ全からず。新川杜を籾(はじ)め、新渠をうがち九年七月川成る。翁まさに区長たり。故に名を避け実を修めえ事に当り竣工す。地を得ること九千余坪、湊西区財産となし、又官に請うて、瀕海(海辺)の地一満有余坪を得、諸街(緒町)に分配し以って共有財産と為す。凡そ埠頭(はとば)の地船舶の遭難発する者あれば害の大小、貨の多寡に準じ費金を課賦し、俗に浦仕舞と呼ぶ。これ他人の禍難を利するなり。翁痛論して之を除く。翁天資忠恕(思いやりの心)敦厚(親切で手厚い)、謙(謙虚)にして克(自制する)。成人皆心服す。凡そ議会には悉く之に参じ町に於て市に於て県に於て長となり、或は常に員となる。郡区経済を分離し、社局を創立する等、諸の大項より以って学務衛生殖産、勧商に至るまで心を尽さざる所なし。その水利に於て最も力を致すと云ふ。(水道市設委員長として、神戸市水道布設に尽力) 三十二年九月官 藍綬褒章を賜ひ銀杯之に副ふ。四十二年十二月特旨を以って、従六位に叙せらる。今玄康戌翁年七十、市民同志相謀り碑を建て以て其徳を彰せんと欲して来りて余に文を請ふ。ああ名声■然(めいせいきょうぜん)。衆すなわちこれを後世に顕はさんと欲す。齢古希にのぼり(達し)衆すなわちいよいよ高きを祈る。其衆望を得るの厚きことかくの如し。以って銘せざるべからず。銘に曰く 摩耶の山 武庫の海 徳深く 衆以って相比ぶ 論を立てて 忠誠 勲功これ偉なり 理水殖財沢、都市に遍し望の帰する所 僉済美(みなさいび)を推す(父祖の業を承けて成功する事)上寿(長寿)奚(いずくん)ぞ疑はん 君子(やはらぎ)を楽しむ。

明治四十三年庚戌十月
浪華 南岳藤沢恒 撰
従五位勲四等大邨屯書」


詳細な紹介記事(小生のブログ)
  http://seiyo39.exblog.jp/10180127/









上記のパネルの文章とは違いますが同じ内容で兵庫運河ができるまでの過程を小生の
ブログでもまとめています。
  http://seiyo39.exblog.jp/17753032/

通常、船が兵庫の港に入るためには和田岬をまわらなければならなかった。
兵庫の和田岬付近では高い波が発生し、強い南風が吹く為、海難事故が多かった。
東西に大きな運河を掘れば、和田岬を回ることなく安全に兵庫津に入港することができる。
この運河計画は明治7年の兵庫新川(出在家町から島上町の半円形の新川運河)
開設の時からあったが、実行できなかったものである。
上記の新川運河の建設に功があったのが神田兵右衛門と島田重五郎である。

上記の構想を実現させたのが魚問屋や内国貿易で成功した八尾善四郎である。

八尾善四郎は東京の安田善次郎の支援を得て神戸の武井守正、石井村の谷勘兵衛
飾東郡の近藤薫、西尻池町の藻川豊三郎らが出資し明治26年(1893)11月に
資本金35万円の兵庫運河会社を設立し事業を実施した。
 明治29年(1896)1月30日に起工式。しかし、運河予定地の地主達からは
運河が耕作地を分断する上灌漑用井戸に塩水が混入するやも知れぬとの反対
(補償求める)や日清戦争後の地価高騰などにより土地の買収に困難を極めた。
しかも、運河口より100間ばかりのところが浅瀬であり、吃水の深い船が運河へ
近づくのは危険であり、そのため、運河を掘った土で浅瀬を埋め、島を作り
西南からの風波を防ぎ出入りの船の便宜を図りながらの工事で、大変な苦労をして
東尻池町から岬町を経て兵庫新川までを結ぶ大運河が完工したのが
明治31年(1898)4月のことである。
上記の島が現在の刈藻島である。

この困難を極めた事業では最初、八尾善四郎に協力していたものも次々と去り、
最後には八尾善四郎ただ一人で行ったといわれている。

八尾善四郎はこの事業に私財のほとんどつぎ込み完成に到った。
この兵庫運河の建設は明治34年竣工の湊川付け替え工事、明治38年に竣工の
烏原貯水池(水源地)と共に神戸における明治期の3大土木事業
と言われています。





上の2枚の写真は関連のパネルと2枚のパネルの遠景です。

新川運河のキャナルプロムナードには兵庫運河の歴史という表題のパネル解説がありそれらについても
そのまま引用紹介します。


上のパネルが兵庫運河の歴史を説明した文章です。



上の2枚の写真は詳細説明のパネルです。

改めて2014-6-11撮影の兵庫運河の写真と八尾善四郎の銅像の写真を添付しました。
(下の3枚の写真)











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法然上人の名号石と千僧寺跡

2014年06月14日 06時56分36秒 | 神戸情報
和田神社の本殿の裏手で神戸市兵庫区和田宮通3-2-29の地に本日紹介する法然上人名号石と
千僧寺跡があります。 撮影:2014-6-11





上の写真が法然上人の名号石の入り口部です。


上の写真は説明板です。






上の2枚の写真摂津名所図会の千僧寺跡と薬仙寺付近を中心としたものです。
千僧寺跡の説明には次のように書かれています。

千僧寺旧跡(せんそうじのきゅうせき) 薬仙寺の南にあり。
この古跡、今兵庫津の三昧となる。むかしは万年山と号し、解脱上人の開基なり。行基僧正も.
ここに来たつて、一千人の僧を聚めて供養ありしより、寺の号とす。
また『浄土正源名義集』に日く「承元年中、法然上人讃州下向の時、この寺にて阿弥陀経一千巻、
念仏一百万遍を修して法会を行ひたまふ霊地なり」と云々。
六字石塔(法然上人の筆跡なり。かの法莚の時、供養のためここに建てたまふ。
今三昧の中にあり。世に名高し。


「由緒あるまち兵庫」(兵庫区役所広報相談課編、昭和50年11月発行)のPage115の説明によれば、
名号石は、兵庫の古くからの共同墓地である「外墓(ソトバカ)」の中にあった。
外墓の地は以前千僧寺という寺があったと伝えられている。
現在の名号石は江戸時代のもので、建替えられたものかも知れないとのこと。





上の2枚の写真は法然上人の名号石が収められたお堂の遠景と近景です。

肝心の南無阿弥陀仏の六字が刻まれた石碑(お堂の中に安置)の写真を撮っていないので後日補充しようと
思っています。

現在はこの名号石の掲載されているサイトへリンクさせていただきます。
http://blogs.yahoo.co.jp/asan19431007/43668409.html

元祖大師諸国二十五番霊場 第六番 名号石と書かれた石碑が入り口にあるが
法然上人二十五霊場についてWikipediaより引用紹介します。

法然上人二十五霊場(ほうねんしょうにんにじゅうごれいじょう)は、浄土宗の開祖である
法然ゆかりの寺院二十五箇所を巡る霊場巡拝である。

円光大師二十五霊場とも言い、宝暦年中(1751~63)のころ、大阪・難波の順阿、京都・洛西の
廊誉という2人の僧の発起によって、法然と御縁の深い霊場二十五ケ所を巡拝したことに始まるといわれ、
大正13年(1924年)に史実、や記伝などに徴して若干の寺院の更改[1]が行われたが、
昭和34年(1959年)3月法然上人750回忌を迎えるに際して、『元祖法然上人霊蹟巡拝の栞』が刊行され
遺跡を紹介しているが、宝暦年中のものを踏襲している。1974年に浄土宗開宗800年を記念し、再興された。
また、当霊場は浄土宗の寺院を中心にした巡拝であるが、法然の御霊跡を巡る霊場であるので真言宗や
天台宗などの寺院も含まれている。

札所は中国・四国地方から近畿地方に渡る。また、二十五箇所の霊場を巡拝するのは、法然上人御入寂の
御命日である一月二十五日や、念仏来迎の聖衆の二十五菩薩の数に因むとの説である。



第一番
誕生寺 浄土宗 岡山県久米南町誕生寺里方808 法然上人御誕生地

第二番
法然寺 浄土宗 香川県高松市仏生山町甲3215

第三番
十輪寺 浄土宗西山禅林寺派 兵庫県高砂市高砂町横町1074

第四番
如来院 浄土宗 兵庫県尼崎市寺町11

第五番
勝尾寺二階堂 高野山真言宗 大阪府箕面市勝尾寺

第六番
四天王寺六時堂 和宗 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18

第七番
一心寺 浄土宗 大阪府大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69 骨仏の寺

第八番
報恩講寺 西山浄土宗 和歌山県和歌山市大川117

第九番
知恩教院 奥院 浄土宗 奈良県葛城市當麻1263 當麻寺奥院

第十番
法然寺 浄土宗 奈良県橿原市南浦町908

第十一番
東大寺指図堂 華厳宗 奈良県奈良市雑司町

第十二番
欣浄寺 浄土宗 三重県伊勢市一ノ木2丁目6-7

第十三番
清水寺阿弥陀堂 北法相宗 京都府京都市東山区清水町1丁目

第十四番
正林寺 浄土宗 京都府京都市東山区渋谷通東大路東入三丁目上馬町

第十五番
源空寺 浄土宗 京都府京都市伏見区瀬戸物町745

第十六番
光明寺 西山浄土宗 京都府長岡京市粟生西条丿内26-1 粟生光明寺

第十七番
二尊院 天台宗 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町

第十八番
月輪寺 天台宗 京都府京都市右京区嵯峨清滝月ノ輪町37

第十九番
法然寺 浄土宗 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺立石町1

第廿番
誓願寺 浄土宗西山深草派 京都府京都市中京区新京極桜之町453

第廿一番
勝林院 天台宗 京都府京都市左京区大原勝林院町

第廿二番
知恩寺 浄土宗 京都府京都市左京区田中門前町103 百万遍

第廿三番
清浄華院 浄土宗 京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町395

第廿四番
金戒光明寺 浄土宗 京都府京都市左京区黒谷町121 黒谷さん

第廿五番
知恩院 浄土宗 京都府京都市東山区林下町400 ちよいんさん

縁故本山
禅林寺 浄土宗西山禅林寺派 京都府京都市左京区永観堂町48 永観堂

特別霊場
青龍寺 天台宗 滋賀県大津市坂本4220 (元)黒谷青龍寺


大正13年(1924年)に史実、や記伝などに徴して若干の寺院の更改された内容
3番・十輪寺が室津・浄運寺に、6番・四天王寺・六時堂が兵庫・元祖教会(名号石)に
、8番・報恩講寺が高野山・円光大師廟に、11番・東大寺・指図堂(宝暦版では竜松院)が同・大仏殿に、
17番・二尊院が嵯峨・清涼寺(釈迦堂)に、18番・月輪寺が太秦・西光寺に、19番・法然寺が
鹿ケ谷・法然院に、20番・誓願寺が比叡山西塔黒谷・報恩蔵にそれぞれ改められていた。



上の写真は天保15年(1844)11月に中興の再建され法然上人御真筆の御名号石を御本尊として
安置された証拠である石碑です。

太平洋戦争により、本堂その他の建物が焼失したが、御名号石だけ残り昭和27年6月中旬、御堂が再建された



上の2枚の写真はお堂の中興に努力された方々の銘が刻まれた石製の門


上の写真は門の横にある水鉢



上の2枚の写真は境内の灯籠、地蔵様など。
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神戸市電 1103号車の展示 in 御崎公園

2014年06月13日 06時28分43秒 | 神戸情報
ノエビアスタジアムに隣接する御崎公園に展示されている神戸市電 1103号車の写真を撮りましたので紹介します。
撮影:2014-6-11






上の2枚の写真が御崎公園の神戸市電 1103号車の展示です。


上の写真は説明板です。

説明をそのまま引用紹介します。

「この市電は、昭和29年(1954年)、神戸市交通局長田車両工場製の車両としては
最後の車両として誕生しました。
速度・乗り心地を重点に車両の近代化を図った防振防音電車で当時としては
画期的な性能を誇り、皆様に愛され親しまれてまいりました。
昭和46年(1971)市電の廃止後は、広島市の広島電鉄(株)に移譲され行先表示器
など一部改造をうけて平成14年(2002年)まで活躍していましたが老朽化
による廃車を機に旧神戸市電 和田運輸事務所のありました当地へ里帰りしました」




上の写真はノエビアスタジアム。


神戸市電について関連年譜を記しておきます。Wikipediaより引用

明治43年(1910)4月5日 春日野~兵庫駅前 神戸電気鉄道(神戸市電の前身)が開業
               5.857km

大正2年(1913)5月1日 神戸電気鉄道が神戸電燈と合併し神戸電気に社名変更
  

大正6年(1917)8月1日 買収により神戸電気が神戸市電気局として神戸市電となる
   この時点で軌道延長12.27km、車両は94両(木造単車90両、散水車4両)

昭和3年(1928)11月9日 天皇即位大典奉祝花電車を運転

昭和8年(1933)4月1日 塗色に緑色を採用

昭和10年(1935)12月25日 路面電車としては日本初のクロスシート車(ロマンスカー)700形を投入

昭和17年(1942)5月19日 神戸市電気局から神戸市交通局に改称

昭和26年(1951)3月31日 集電装置をビューゲル化

昭和26年(1951)12月20日 荷物電車制度を廃止

昭和28年(1953)10月1日 石屋川線六甲口 - 石屋川間が開通し、路線長が35.6kmと過去最長となる

昭和41年(1966)5月1日 税関線(三宮阪神前 - 税関前間。現在のフラワーロードに当たる)を廃止
             路線縮小を前提とした廃止が始まる。

昭和42年(1967)10月21日 市議会、市電の全廃を中心とした「交通事業財政再建計画案」を議決

昭和43年(1968)4月14日 ワンマン運転開始

昭和46年(1971)3月13日 神戸市電 全線廃止



路線 Wikipediaより引用

栄町線:(滝道分岐点:三宮阪神前南方) - 楠公前 - 兵庫駅
税関線:(滝道分岐点:三宮阪神前南方) - 税関前
東部国道線:(三宮分岐点:三宮阪神前北方) - 脇浜町
布引線:(滝道分岐点:三宮阪神前南方) - 上筒井一丁目
石屋川線:上筒井一丁目 - 石屋川
山手上沢線:加納町三丁目 - 大倉山 - 長田
平野線:有馬道 - 平野
楠公東門線:楠公前 - 大倉山
湊川線:新開地 - 湊川公園西口
兵庫線:楠公前 - 築島 - 西柳原 
尻池線:築島 - 松原通三丁目 - 東尻池二丁目 - 長田
和田線:中之島 - 和田岬 - (高松橋分界点:東尻池八丁目南方)
高松線:東尻池二丁目 - (高松橋分界点:東尻池八丁目南方)
須磨線:東尻池二丁目 - 須磨駅前
板宿線:大橋町九丁目 - 板宿



上の写真は路線図(Wikipediaより)


関連ブログ

電気鉄道事業発祥地の碑 in JR京都駅前 on 2012-3-21

日本最初の電気鉄道(チンチン電車)は明治28年(1895)、京都の岡崎公園一帯で
開かれた博覧会への客輸送のため、明治28年(1895)2月1日に伏見(油掛通)と
京都駅の間の6Kmの区間で開通しました。
京都市民に親しまれた市電は昭和45年(1970)まで走りました。
伏見下油掛通りにも昭和45年(1970)2月1日に碑が建立されているようです。

電気鉄道(チンチン電車)ができた背景ですが、京都では 琵琶湖疏水を利用した
水力発電所が 明治23年(1890)に完成し, その電力を利用して上述のとおり
明治25年(1892)に 日本で最初の電気鉄道 (電車) が開通した。
開通当初は、東海道線に踏切があって その南側が起点となっていたが 明治34年に
高倉跨線橋が完成して, 京都駅北側の路線と接続された。

我ら神戸での路面電車ですが神戸市電全線廃止は 昭和46年(1971)です。
市電で現在残っているのは広島市、長崎市、高知市など数少なくなってしまいました。


神戸市電のYoutube動画

神戸市電保存車両見学マップ(神戸市サイト)

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マー君完封逃すも日本人6人目の新人10勝(日刊スポーツ) - goo ニュース

2014年06月12日 18時09分50秒 | Weblog
マー君完封逃すも日本人6人目の新人10勝(日刊スポーツ) - goo ニュース


<マリナーズ2-4ヤンキース>◇11日(日本時間12日)◇セーフコフィールド

 ヤンキース田中将大投手が先発して6安打2失点完投し、トップに並ぶ10勝目(1敗)を飾った。11三振を奪った。完投勝利は今季2度目。

 日本人投手の新人での2ケタ投手は、95年野茂、02年石井一、07年松坂、10年の高橋尚、12年ダルビッシュ以来、6人目の快挙となった。

 3回まで完ぺきに抑える最高の立ち上がりを見せた。5回途中から6回にかけて5者連続三振もマーク。8回1死一、三塁のピンチでは二飛で併殺に取るというツキも味方した。

 9回1死一塁からマリナーズ・カノに2ランを打たれ、完封は逃したが、最後まで投げきった。

 「全体的にはまとまっていて良かった。特別制球が良かったわけじゃないが、ストライクゾーンに球を集めて勝負できた」と振り返った。

 完封目前での1発には「あの球を左中間にホームランを打たれた経験があまりないので、失投とは思わない。切り替えられた」と語った。
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和田岬線 和田旋回橋 on 2014-6-11

2014年06月12日 05時22分01秒 | 神戸情報
2014年6月11日に和田岬線 和田旋回橋の写真を撮ってきましたので紹介します。


上の写真は住吉橋方面から撮った和田岬線 和田旋回橋です。



上の写真は材木橋方面から撮った和田岬線 和田旋回橋です。


上の写真は昭和60年(1985)に描かれた絵画で市民グラフこうべの1986年12月号(No.170)に紹介された上中孝三さんの油絵「運河風景」です。兵庫運河にかかる和田旋回橋と住吉橋が描かれています。

拡大版はこちら


上の写真は和田岬駅に掲示されている和田旋回橋の説明。


上の写真は和田岬線 和田旋回橋の所在地を示した地図です。新川運河プロムナードに設置の説明板より引用。

大きな地図はこちら。

和田旋回橋はJR和田岬線の兵庫駅と和田岬駅との間で兵庫運河を渡る橋長15.5mの橋梁であり、旋回式可動橋が特徴である。山陽鉄道による和田岬線は明治23年(1890)7月8日に開通しました。その後明治32年(1899)兵庫運河が開通したため船の運航を可能にするため明治32年(1899)12月に和田旋回橋が完成しました。日本最古かつ最初の鉄道可動橋であるが、昭和初期に回転機構がすべて撤去され固定されている。
正確な年月日は不明である。(調査が足りない)

Wikipediaより和田旋回橋の仕様を引用紹介します。

種別 - 鋼鉄道橋
形式 - 上路式プレートガーダー[2]
橋長 - 15.5m
径間数 - 2
支間 - 7.7m
線数 - 単線
活荷重 -
竣工 - 1899年(明治32年)12月
施主 - 兵庫運河株式会社
橋梁設計 -
橋桁製作 -

和田旋回橋はレンガ造りの橋台2基と橋梁1基からなり橋梁はイギリスから輸入された回転桁で
ありました。可動橋には、跳ねあげ橋(挑開橋)・・・ハーバーランドの跳ね橋、橋桁が上昇する橋
(昇開橋)・・・隅田川の勝鬨橋が有名
など種類分け出来るが、旋回橋は橋桁が水平方向に回転するものです。

旋回橋で今も稼働している橋の例は、天橋立の小天橋、黒部市の生地中橋等がある。


話題を変えて和田岬線について述べていきます。




上の2枚の写真はJR和田岬線の和田岬駅です。


上の写真は和田岬駅の説明板です。
かって(明治23年から明治28年)は和田岬町駅と呼ばれていたこと、昭和20年(1945)に現在地に移設されたこと、平成21年(2009)に旧駅舎と付属建物が撤去されたことなどが書かれています。


上の写真は現在の時刻表です。


上の写真は和田岬線の関連年表です。

拡大版はこちら。





上の2枚の写真は和田岬線の周辺地図でかってあった路線についても解説掲示されています。

拡大版はこちら

 拡大1

 拡大2

和田岬線は明治22年(1889)6月、海岸との連絡のため、兵庫停車場(兵庫駅)から分岐し和田崎にいたる支線として、2.7Kmの施設を申請、明治22年(1889)9月30日に免許を受け工事が着手されました。明治23年(1890)
7月3日に完成し8日から旅客・貨物の営業が開始されました。和田岬線の路線は現在和田岬駅構内で終結していますが、かっては和田岬駅より先へ線路が伸び、三菱重工兵庫工場への専用線となっていました。駅前の道路には市電が通り、平面交差を避けるため市電は専用軌道の上を通っていました。(下の写真を参照)








神戸市電について関連年譜を記しておきます。

明治43年(1910)4月5日 春日野~兵庫駅前 神戸電気鉄道(神戸市電の前身)が開業

大正2年(1913)5月1日 神戸電気鉄道が神戸電燈と合併し神戸電気に社名変更

大正6年(1917)8月1日 買収により神戸電気が神戸市電気局として神戸市電となる

昭和46年(1971)3月13日 神戸市電 全線廃止




上の2枚の写真は鐘紡100年記念病院付近の和田岬線です。




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