CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

センターサウス通り界隈の風景

2014年06月11日 07時13分07秒 | 神戸情報
神戸市中央区三宮町3丁目の南側にセンターサウス通りがあります。
この通りの周辺の写真を撮りましたので紹介します。 撮影:2014-6-8


上の写真は四国銀行とそば処 志奈野 の間の路地でこちらもセンターサウス通りの一部です。


上記路地の入り口には上の写真のような表示があります。




路地に上の2枚の写真のようなお店などを紹介した案内板地図があります。

お店の詳しい情報は下記サイトで見れます。
http://www.centersouth.com/i/index.html

また、昔の三宮町2丁目、3丁目の地図も紹介されているセンターサウスのサイト(下記)
 http://www.centersouth.com/index.html






上の2枚の写真は生ハム・チーズの直輸入のCASA di ARRECRIAのお店の玄関飾りつけ




上の2枚の写真は三宮センターサウスの通りのマンホールなど。




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神戸花時計 on 2014-6-6

2014年06月10日 07時47分12秒 | 神戸情報
2014年6月6日、神戸市役所2号館の北側にある神戸花時計の絵柄が
神戸市下水道事業のマスコットキャラクターのモグローになっていました。
(下の写真)




上の写真は図柄の説明。


上の写真は垂水下水処理場の脱水設備?の建物の壁面に神戸市建設局下水道河川部マスコット
モグローの絵です。


関連ブログ

神戸市建設局下水道河川部マスコット もぐみとモグロー

神戸の水道

直前の花時計デザイン。神戸まつりPRキャラクター「元気くん」・・・下の2枚の写真
  撮影:2014-4-25






神戸市役所の花時計 on 2014-1-15

馬のデザインの花時計がお目見え on 2013-12-6

花時計は昭和32年(1957)の神戸市市役所新庁舎の竣工を記念して設置された。
日本で初めて設置された花時計です。

現在の花時計は昭和51年(1976)に改装された二代目のものです。

第13代神戸市長の宮崎辰雄氏(1911-2000)の欧米視察経験に基づき発案され
スイス・ジュネーヴのイギリス公園に設置されていた花時計をモデルにした日本初の
花時計が製作されることになった。神戸市民や神戸市内の企業はこの計画に好意的な
反応を示し、多額の寄付金が寄せられた。この寄付金を元に花時計の製作が進められ、
市民有志から神戸市への寄贈という形で設置されることになった。

花時計の製作は神戸市役所の新庁舎(現在の2号館)建設に合わせて進められ、
新庁舎完成と同時期にその北側に設置された。1957年4月6日午前、
新庁舎開庁記念式典に続く形で始動式が行われ、花時計は稼働を開始した。


花時計の機械更新

神戸市のシンボルの一つになっている花時計の機械が平成21年(2009)2月に
更新されました。
花時計は昭和32年(1957)に完成し51年間時を刻んできました。
今年2月に100件の寄付と募金箱による650万円の寄付により製作されました。
製造、施工はセイコータイムシステム(株)です。
こうべ花時計 on 2013-8-30

花時計 in 神戸市中央区 on 2013-5-31

巳のデザインが描かれたこうべ花時計 on 2012-12-12

神戸フラワーロード

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NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第23回 半兵衛の遺言を視聴して(2014-6-8放送)

2014年06月09日 09時04分59秒 | 神戸情報
2014年6月8日、表題の番組が放送されました。

このブログではわれら神戸市の有馬温泉が初めて官兵衛紀行で紹介されたこともあり
有馬での黒田官兵衛の湯治と有馬温泉と秀吉などをメインテーマとして記事にします。

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第23回 半兵衛の遺言の基本情報

放送日:2014年6月8日
概略あらすじ:

 天正7年(1579)11月有岡城から救出された官兵衛は、栗山善助たちが拠点としていた城下の
店(銀屋)で丸2日間深い眠りに落ちた。


以降織田信長への謁見、松寿丸との再会、有馬温泉での湯治、半兵衛の軍配受理、姫路城への帰還
三木城平井山本陣へ参陣、1年近くの幽閉で会得した情けを捨てる覚悟など成長した軍師官兵衛の
誕生などと続く。

一方、有岡城の攻防で尼崎城に逃亡後、行方をくらました荒木村重、天正7年(1579)
12月13日有岡城で捕らえられた122名が尼崎城外で磔(はりつけ)にされ
残った500人余りが家4軒に押し込められ焼き殺されるという前代未聞の成敗が
行われた。京都の妙顕寺に監禁されていただしをはじめ荒木の一族は京の六条河原で
処刑された。その中には妊婦や乳飲み子も含まれていた。





上の2枚の写真は有馬温泉での湯治の場面。


上の写真は黒田官兵衛が湯治した 伝 池坊左橘右衛門(いけのぼうさきつえもん)邸跡(官兵衛紀行の画面)

池坊左橘右衛門について黒田家譜などを紹介したブログを作成していますのでよかったら参照願います。

黒田官兵衛は有馬のどこで湯治したのか


同じく官兵衛紀行で7日で11回風呂に入ったとの文書が紹介されていました(上の写真)
晩年黒田官兵衛は黒田如水と号したが有馬温泉を非常に愛していたことが伺えます。

【史料名】 黒田如水書状  (慶長8年・1603)11月18日付け 黒田筑前守(長政)宛
文書全文は福岡市博物館のサイトで解説紹介されています。(下記アドレス)
  http://museum.city.fukuoka.jp/blog/news/1680/


官兵衛紀行で紹介された有馬温泉に関する写真に若干のコメントを添えて記します。
有馬温泉への観光案内は有馬温泉観光協会


上の写真は有馬温泉郷の遠景。



上の写真はねね橋(赤い橋)を中心に撮った有馬温泉。
有馬川と滝川が合流して六甲川になる地点でもあります。


上の写真は有馬温泉の秀吉像。湯けむり広場の近くにあります。






上の写真は1995年の阪神淡路大震災で倒壊した極楽寺の庫裏の発掘調査の結果
見つかった「湯山御殿」の一部と考えられる泉源、岩風呂、蒸し風呂跡や茶の湯の
庭の遺構も見つかっています。
現在、遺構の資料も含め太閤の湯殿館に保存されています。


上の写真は有馬温泉に太閤豊臣秀吉が仮の旅館を建てた遺構で有馬の地を治めていた
有馬法印(則頼)が梅林寺として残したが有馬氏が三田に移封され九鬼氏に受け継がれ
心月院山門として残った。宝暦3年(1753)に再建された。 三田市西山に所在



上の写真は湯山御殿から出土の瓦と大阪城の瓦の比較で同じ型から製造との解説あり。
出典:神戸で秀吉と出会う 神戸市教育委員会、神戸市立博物館 (2010)Page32



上の写真は有馬温泉天神泉源。


上の写真は有馬温泉郷の湯本坂の風景。右端に赤い昔ながらのポストあり。


上の写真は江戸時代の有馬温泉の様子。
南側を一の湯、北側を二の湯として夫々に10坊づつに分けられ利用する温泉宿が定められていました。



有馬温泉紹介ブログ(小生のブログ)

行基、仁西上人、豊臣秀吉のことを有馬の三恩人という。

建久2年(1191)吉野の高原寺の僧、仁西上人は熊野権現のお告げに従い有馬温泉にやってきました。
仁西上人に連れてこられた人々(平家の残党とも言われる)に十二神将にちなんで十二坊を営ませた。
十二坊は下記のとおり。
池坊、奥の坊、角の坊(休所)、二階坊、尼崎坊、中蔵坊、兵衛(北の坊)、下大坊
中の坊、横の坊、上大坊、茅の坊

有馬温泉 温泉寺 石造五輪塔を中心として on  2012-11-13

行基の像と有馬温泉 温泉寺 on 2010-9-25
温泉寺の薬師如来は草津温泉の古刹光泉寺、と(山中温泉の薬師院温泉寺
あるいは城崎温泉の温泉寺、あるいは道後温泉の石手寺の中の一つ)
と共に日本の三大薬師の一つとされています。


有馬温泉 地獄谷 on 2010-9-25

「射場山(標高690m)と愛宕山との間の谷を地獄谷と呼んでいます。
ここは数十万年前の地殻変動でできた射場山断層です。
この谷には 鳥地獄 虫地獄 炭酸地獄などがあります、射場山断層の割れ目
から、たくさんの炭酸ガスが噴き出て、虫や小鳥などが死んだところに
その名の由来があります。また、この附近に湧き出ている炭酸水は、かって
その成分がわからず、町民から毒水として恐れられていました。
この毒水の湧き出ていた血の池という炭酸泉に目をつけた三田城主の
山崎家盛は慶長2年(1597)に温泉場をつくろうとしました。
これに驚いた町民は太閤さんに直訴し、その工事をやめさせました。
家盛は激怒し当地の住民を皆殺しにすると言ったという話が残っています。
明治以降に虫や小鳥が死んだのは炭酸ガスのためとわかりました。それから
炭酸泉の堀削が行われ、噴き出た炭酸水は良質のおいしい飲料水として
評判になりました。この地獄谷を訪れ、鼓ケ滝を巡るコースは古くから湯治客の
散歩道として親しまれ、鎌倉、室町時代の五山文学の詩集などにも登場
しています。」


有馬温泉 極楽泉源

有馬温泉 炭酸泉源

念仏寺

瑞宝寺公園

有馬温泉瑞宝園での正月

神戸の観光客 2012年は最多の3,282万人に

エリア別観光入込客数
    合計数が一致しない(エリア間移動のため)
   1位 神戸市街地  1,245万人(うち北野79万人)
   2位 須磨・舞子   410万人
   3位 西北神     333万人
   4位 神戸港     280万人
   5位 六甲・摩耶   214万人
   6位 有馬温泉    152万人
























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ホテルケーニヒスクローネ神戸 1階  くまポチ邸でのランチ on 2014-6-8

2014年06月08日 15時59分15秒 | 神戸情報
本日(2014-6-8)、ホテルケーニヒスクローネ神戸1階の くまポチ邸でランチをいただきましたので
写真紹介します。

ケーニヒスクローネ くまポチ邸の基本情報

住所:神戸市中央区三宮町2-3-10 ホテルケーニヒスクローネ神戸 1F・2F
TEL:078-331-7490
料理ジャンル:洋食
公式HP:http://konigs-krone.co.jp/

2013年12月17日のホテルケーニヒスクローネ神戸の開業に先立ち
2013年12月12日、ホテル内直営店として開店


以下、Wikipediaより引用紹介
株式会社 ケーニヒスクローネは、兵庫県神戸市中央区御幸通に本社を置く洋菓子メーカーである。1977年創業。全国の有名百貨店を中心に店舗展開している。
株式会社ケーニヒスクローネは1983年に設立された。
ケーニヒスクローネとはドイツ語で「王冠」(Königskrone)を意味し、クマをモチーフにした同社のイメージキャラクターも王冠を頭に乗せている。また、当て字で「継荷比州吼浪音(荷を継(つな)ぎ、州(くに)に比(ひとし)くす、吼(ほ)ゆる浪の音)」とも表記され、洋菓子という商品を作りながら、日本という国と一緒になって、隆盛(大きな波)のごとく伸びて行こうという想いも込められている。







当日ちゅうもんしたのは奥様も私もくまポチランチ(ビーフシチュー)で 1,620円(税込)です。
パンと飲み物はおかわり自由です。
パンを食べすぎてお腹いっぱいになりました。修養が足りません・・・反省。
パンとサラダが美味しかった。


上の写真はメニュー表です。

大きく拡大したものはこちら
 


上の写真はお店のシステムを紹介した案内板です。


上の写真はお店の外観です。





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銅版画(エッチング)の作品 on 2014-6-6

2014年06月07日 05時07分59秒 | Weblog
2014年6月6日に印刷した銅版画の作品を紹介します。

兵庫県立美術館のエッチングの教室に通い出したのは2010年10月ですので約3.5年少しを経過しています。
相変わらず芸術センスなし落ちこぼれナンバーワンの生徒さんです。


上に添付したのが作品で明石の名所や名物をてんこ盛りにしました。

使用している技法はエッチングとアクアティントです。



上に添付したものは水彩で色彩をつけたものです。


過去にこの作品に近いものも制作しています。(下の作品)




過去の作品
2014年2月-3月の銅版画作品 メルヘン


2014年1月-2月の銅板画作品「花と鳥」


銅版画作品 「Modern and KANNON-SAMA」 on 2013-12-6


エッチング(銅版画)の作品 on 2013-11-22


2014年7月-8月の作品「夏」


エッチング(銅版画)の下絵デッサン 須磨寺塔頭 桜寿院の前の石造地蔵尊

エッチング(銅版画)作品 須磨寺 三重塔 on 2012-8-10

2012年兵庫県立美術館 春季美術講座 エッチングの作品 鉄人28号 on 2012-6-1


銅版画の下絵ドラフト&銅版画(エッチング) 清涼寺阿弥陀如来坐像 on 2012-2-7


本日の銅版画作品 盧舎那仏蓮座の釈迦如来 on 2011-12-2

エッチング(銅版画)作品の下絵 無動寺  on 2011-9-6


エッチング(銅版画)作品 黄色ショウジョウバエ on 2011-8-5

エッチング(銅版画)作品 智光曼荼羅 2011-6-24

エッチング(銅版画)作品 平等院鳳凰堂 on 2011-2-4


エッチング(銅版画)の下絵
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三宮 芙美 (鳥料理)でのランチ on 2014-6-6

2014年06月06日 17時43分06秒 | 神戸情報
2014年6月6日(金)、銅版画で兵庫県立美術館に行く日である。12時30分過ぎに上記の教室が
終了し、帰路途中の三宮で表題の鳥料理の「芙美」でランチをいただきました。写真紹介します。


芙美の基本情報

住所:神戸市中央区雲井通7-1-1 ミント神戸 B1F M-KITCHEN
TEL:078-221-0020
料理ジャンル:鳥料理、丼 他



上の写真は当日注文した親子丼です。 820円(税込)でした。





上の写真はランチのメニュー表です。ふわふわだし巻丼が名物です。(以前に食べた)卵がフワフワ
していて中々美味しい。


上の写真は芙美の店の外観です。



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JR高円寺駅南の寺社めぐり その8(最終回) 善明山 西照寺 on 2014-3-16

2014年06月05日 05時35分09秒 | 東京情報
2014年3月16日(日)、JR高円寺駅の南側にある寺社を散策しました。

今回はその第8回で善明山 西照寺を紹介します。
今回をもってJR高円寺南側の寺社めぐりシリーズは終了します。


これまでの散策記

第1回  宿鳳山 高円寺

第2回  高円寺氷川神社(気象神社) 

第3回  如法山 長善寺(赤門寺)

第4回  瑞祥山 鳳林寺

第5回 祥雲山 福寿院

第6回 永昌山 宗泰院

第7回 万寿山 松応寺

善明山 西照寺の基本情報

住所:東京都杉並区高円寺南2丁目29−3  TEL:03-3311-7534
宗派:曹洞宗 山号:善明山 御本尊:釈迦如来坐像


Google地図による西照寺の位置



上の写真は善明山 西照寺の入り口の山門です。


上の写真は西照寺の境内です。


上の写真は真新しい説明板です。そのまま引用紹介します。

「当寺は普明山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によれば、日比谷村(現千代田区内幸町)の漁夫により海中から拾いあげられた阿弥陀如来像が安置された御堂を、天正2年(1574)に開山文竜和尚が一寺としたのが開創と伝えられています。
その後、徳川家康の江戸入府による江戸城大築営のため、寺域は武家屋敷地となり、慶長17年(1612)芝金杉(現港区芝1丁目)に移転しました。しかし寛永20年(1643)類焼に遭い、寺地は御用地となり、拝領した替地は狭くて本堂の再建も不可能なため、寛文5年(1665)に至って芝白金台町(現港区白金2丁目)の地を買収して移転し、寺を再興しました。 この再興に力を尽くしたのが中興開基でもある岡田豊前守善政で、以来当寺は代々岡田家の菩提所となっています。この後、当寺は観音堂・鐘楼堂等の堂宇も整え、江戸西方三十三観音の第26番札所ともなり、門前には町屋が並び大いに賑わったと伝えられます。
明治維新の折に、当寺は倒幕派の放火によって伽藍を全焼しましたが、明治10年(1877)頃には復興を果たしています。再建された堂舎には明治女学校の講師であった島崎藤村が寄宿していたといわれています。
永く御府内にあった当寺も、東京発展のなかで寺域が区画整理の対象となり、明治44年(1911)現在の地に移転しました。
なお、当寺には室町時代末期の阿弥陀如来坐像、承応2年(1653)銘のとろけ地蔵、南町奉行所山村良旺や書家佐瀬得所の墓、江戸期建築の格式を持つ道了堂、心越禅師の山門額字書幅など多くの文化財が所蔵されています。
  平成26年2月 杉並区教育委員会」






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播磨町でジョセフ・ヒコの史跡めぐりと琵琶弾き語り鑑賞ウォーク on 2014-6-4

2014年06月04日 18時03分04秒 | 神戸市以外の兵庫県
元治元年(1864)年6月28日 旧暦でが元治元年(1864)5月25日はジョセフ・ヒコ( ジョセフ彦、浜田彦蔵)が
日本初の活字を使用した本格的な邦字新聞「海外新聞」を発刊した日である。
場所は横浜市の中華街の関帝廟の近くで横浜の元居留地141番でジョセフ・ヒコの居館も兼ねていた。


山陽電車ではジョセフ・ヒコの海外新聞発行150年を記念して「ジョセフ・ヒコの史跡めぐりと
琵琶弾き語り鑑賞ウォーク」が企画され2014年6月4日に実施されます。

これに先立ち予想されるコースを先取りして写真とともに紹介します。

(1) 集合場所 向ケ池公園  10:00

   
   
    向ケ池公園の看板と彫刻作品展示とその説明板です。 2011-3-26撮影

   
   山陽電鉄播磨町駅を下車すると徒歩2分圏内に向ケ池公園の他に播磨町役場、公民館、図書館
   商工会などがあります。

(2)播磨町中央公民館の前のジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の銅像

   播磨町公民館の正面玄関の脇に、本日写真紹介しますジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の
   銅像があります。

   
   
   

   この銅像は1980年4月12日に播磨町ライオンズクラブが寄贈したものです。
      
    「浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、旧字体:濱田彦藏、天保8年8月21日(1837年9月20日)
     ー明治30年(1897年)12月12日)は幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる。
      洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)。幼名は彦太郎(ひこたろう)。
      帰国後は「アメ彦」の通称で知られた。

     播磨国加古郡阿閇(あへ)村古宮(現・兵庫県加古郡播磨町)で生まれる。
     幼い頃(1841年 彦太郎4歳)に父を、嘉永3年(旧暦で5月18日=1850年6月27日)、
     彦太郎13歳の時に母を亡くす。
     その直後に義父の船(住吉丸)に乗って海に出て
     途中(熊野 久喜または九鬼)で知人の船である栄力丸に乗り換えて
     江戸に向かう航海中、その船が10月29日(11月22日)に
     紀伊半島の大王岬沖で難破。(彦蔵が14歳の時である)
     2ヶ月太平洋を漂流した後、12月21日(1852年1月22日)に南鳥島付近で
     アメリカの商船・オークランド号に発見され救助される。 」
     オークランド号はサンフランシスコに到着(1852年3月4日)し20日間ほどが
     過ぎた頃、ポーク号という船に乗り換えさせられボルチモアのマークスという記者
     がやってきてネゲレオタイプ(銀板写真法)で写真が撮られました。」

      以上Wikipediaより一部加筆

     下の写真は生家です。(今回はコース外)
      
      

      上の写真はThe Narrative of a Japaneseに掲載されているジョセフ・ヒコの
      生家のイラストです。
        出典:The Narrative of a Japanese
       What he has seen and the people he has met in the course of the last forty years
       By JOSEPH HECO Edited by James Murdoch,M.A
        (FROM THE TIME OF HIS BEING CASTWAY IN 1850 DOWN TO THE FIGHT OF SHIMONOSEKI
     小生のブログでの紹介(下記サイト)
      http://seiyo39.exblog.jp/18443787/


     下の写真(Wikipediaより)が濱田彦蔵=ジョセフ ヒコの14歳の写真です。   
   

  (3)ジョセフ・ヒコ生誕の地の碑

     
     上の写真はジョセフ・ヒコ生誕の地の碑。石碑の場所は539号線で新島に向かい播磨大橋の
     手前で新島に向かって右手にあります。その右手は喜瀬川地図は下記サイトで紹介。
      
        http://seiyo39.exblog.jp/15128849/      

   (3’)播磨小学校  新聞の父濱田彦蔵の碑  行かないか?

       

       この碑は昭和35年12月12日に建立されたもので、ジョセフ ヒコ記念会の
       会長であった近盛晴嘉氏がジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の偉業を
       讃えた碑文を執筆されています。

      



   (4)蓮花寺

      ジョセフ・ヒコが両親と兄弟のために蓮花寺に明治3年(1870)11月
        に建てた横文字の墓


       
        上の写真は正面で親族の戒名が刻まれています。
     
        心観浄念信士  多分義兄
        弘覚自性信士  多分祖父  安政三丙辰十二月二十三日
        修善即到信女  実母     嘉永三庚戌五月十有八日
        秋覚良秀信士  養父     元治甲子年七月廿有八日

         養父の名前は浜田 吉左衛門
         上の右に書いた年月日(旧暦)は没年(墓石の左側に書かれています)です。

       
        上の写真は英文で下記のように刻まれています。現在の姿では詠み難い。
          Erected
          to the
          Memory
          of his
          Parents &
          Family
          by
          Joseph Heco
          December
          1870


        説明板へのリンク

        蓮花寺紹介のサイト(小生のブログ)
         http://seiyo39.exblog.jp/15150921/


   (5)石ケ池公園(休憩?)   写真なし


   (6)正願寺 永力丸漂流150年記念碑 
       

      

      

      

     播磨町古田の正願寺にある表記「怒涛を越えた男たち」の石碑の写真 撮影:2014-2-22

     2014-2-22の訪問記


   (7)播磨町郷土資料館、大中遺跡公園、兵庫県立考古博物館  ゴール

       小生のブログで紹介
        http://seiyo39.exblog.jp/15157431/

  
   上の写真は当日の昼食の風景。


  (8)琵琶弾き語り鑑賞

     
      川村旭芳さんの琵琶弾き語り鑑賞に先立ち播磨町郷土資料館の宮柳靖館長から
      ジョセフ・ヒコの簡単な解説がありました。

   17人の栄力丸乗組員が遠州灘沖から暴風雨にあい52日間漂流したが全員がオークランド
   に救助され無事であった要因について述べられました。

   17名の平均年齢が31.5歳と若かったこと、以前に漂流した経験者が3名いたからと説明。
   
   10代・・・・2名
    ジョセフ・ヒコ(13歳)と仙太郎(サム・パッチ 倉助 倉蔵)18歳

   20代・・・・7名
    民蔵(大吉)25歳、次作(トラ)28歳?、清太郎(性兵衛 本荘善次郎)26歳
    興太郎(利七、文太 佐伯文太)27歳、亀蔵 22歳、徳兵衛 29歳
    安太郎 25歳

   30代・・・・5名
    岩吉(ダン 伝吉 Dan Ketch)33歳、喜代蔵(助兵衛、久蔵 浜本帰平)37歳
    源次郎(浅右衛門 山口洋五郎 山口洋右衛門)38歳、京助 31歳
    幾松 37歳

   40代・・・・2名
     甚八 43歳、長助 48歳

   60代・・・・1名
     萬蔵 60歳

  栄力丸の漂流&救助に関する記事
   ジョセフ・ヒコなど17人の栄力丸乗組員が米国のオークランド号により救出される



上の写真は川村旭芳さんの琵琶弾き語りの前の前座説明。

参考:須磨寺大茶会での川村旭芳さんの筑前琵琶弾き語りと井上由理子さんの白拍子の舞と語り
で演題は「源平絵巻 祇王と仏」

  第31回 須磨大茶会 0n 2012-4-29


追記:6月7日のイベント情報

  日時:2014年6月7日(土)13時30分~15時
   ジョセフ・ヒコ新聞発行150周年記念
  「播磨町歴史講座」にて、川村旭芳の母 川村素子が
   播磨町郷土資料館館長との対談形式で講演いたします。
【会場】 兵庫県 播磨町中央公民館 視聴覚室
(山陽電鉄「播磨町」駅より南へ徒歩約3分)
【主催・お問合せ】 播磨町郷土資料館 tel:079-435-5000
     予約不要、当日先着順受付



ジョセフ・ヒコ関連のブログ(小生のブログ)

  ジョセフ・ヒコが通訳として来日したアメリカ領事館跡(本覺寺)訪問記 on 2014-3-14

  
  浄世夫彦之墓(ジョセフ・ヒコと妻の濱田 子(ちょうこ)の墓)in 青山霊園の外人墓地 on 2014-3-14

  
  ジョセフ・ヒコなど17人の栄力丸乗組員が米国のオークランド号により救出される

  日本国新聞発祥之地の碑 in 横浜関帝廟通 on 2014-3-14

  新聞の父 ジョセフ・ヒコが小惑星の名前に



ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)はギネスブックに残るようなはじめ物語が多数
ありますので紹介します。


1)日本人として禁教後最初にキリスト教の洗礼を受けた。
    1854年10月30日 USA ボルチモアの教会
    名前は Cathedral of The Assumption B.V.M
B.V.Mはラテン語でBeata Virgo Maria出英語では
    Blessed Virgin Maryとなり聖少女マリアと直訳できる。
    この教会は1806年に建てられたものであるが現在もある由緒ある
    教会である。

2)日本人として初めてUSAの大統領(ブキャナン大統領)と合う
    1857年 11月25日

   1962年3月12日にはリンカーン大統領とも会っています。

3)日本人として初めてアメリカの市民権を得る
   1858年6月30日

4)日本人で初めて6,000mの深さの海底を調査。
   1858年9月~11月 測量船の小帆船 クーパー号(ブルック艦長)

5)日本のアメリカ領事館で初めての日本人通訳
   1859年 5月29日 事前に駐日公使ハリスと上海で合流


6)日本で初めて新聞 海外新聞を発刊
   新暦で元治元年(1864)6月28日 旧暦では1864年5月25日

7)初めての国立銀行条例をつくる。
   1872年渋沢栄一の下で英国人のシャンド(Alexander Allan Shand)
と協働でつくった。

8)神戸で初めての電灯にヒコの精米所の蒸気機関が使用される。
    1884年12月

9)日本人初めての英文の自伝書 The narrative of a Japaneseを発刊
    上巻は1892年 下巻は1895年に刊行




    

   

       


       






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JR高円寺駅南の寺社めぐり その7 万寿山 松応寺 on 2014-3-16

2014年06月04日 08時56分18秒 | 東京情報
2014年3月16日(日)、JR高円寺駅の南側にある寺社を散策しました。

今回はその第7回で万寿山 松応寺を紹介します。


これまでの散策記

第1回  宿鳳山 高円寺

第2回  高円寺氷川神社(気象神社) 

第3回  如法山 長善寺(赤門寺)

第4回  瑞祥山 鳳林寺

第5回 祥雲山 福寿院

第6回 永昌山 宗泰院


万寿山 松応寺の基本情報

住所:  東京都杉並区高円寺南2丁目30−1  TEL:03-3311-8020
宗派:曹洞宗  山号:万寿山 御本尊:聖観音坐像


Goo地図はこちら


杉並区教育委員会による説明板の内容をそのまま引用紹介します。

「当寺は、万寿山と号する曹洞宗の寺で、現在の本尊は聖観音坐像です。(戦火で本尊釈迦牟尼仏を
消失したため) 寺伝によると明暦2年(1656)浅草八軒寺町(現台東区寿2丁目)に開創されました。
開山は大松寺(現北区西ヶ丘1丁目)5世の悦州舜喜大和尚で、開基は雪岩長卯大和尚です。
山門に掲げる万寿山の山号は江戸時代の高名な書家高玄融の筆になるものです。
江戸時代の当寺は、与力・同心など武家寺として栄えていましたが、墓地が狭小なことから
大正7年6月に寺院の維持発展のため、現在地に移転して来ました。
当寺の歴史については、昭和20年の戦火で全焼し、本尊はじめ、寺宝・寺録などの全てを消失した
ため、詳細は、明らかではありません。
現在の本尊は、禅宗様式の濃い仏像で、藤原時代の様式を模したと思われるふっくらした円満な
お顔に特徴があります。
なお、当寺には「農政本論」「経済要録」「開国要論」等の著者で江戸時代の農政学者佐藤信淵
(1850年歿)の墓があります。
   昭和61年1月   杉並区教育委員会」


上の写真は入り口の山門。











上の写真は境内風景。






上の写真は「農政本論」「経済要録」「開国要論」等の著者で江戸時代の農政学者佐藤信淵(1850年歿)の墓


佐藤 信淵(さとう のぶひろ)についてWikipediaより引用紹介します。

佐藤 信淵、明和6年6月15日(1769年7月18日) - 嘉永3年1月6日(1850年2月17日))は、江戸時代
後期の絶対主義的思想家であり、経世家(経済学者)、農学者、兵学者、農政家でもある。
出羽国雄勝郡郡山村(現秋田県雄勝郡羽後町)出身。
通称は百祐、字は元海、号は松庵・万松斎・融斎・椿園。


明和6年(1769年) - 出羽国雄勝郡で生まれる。
天明 - 寛政年間 - 父の遺言に従い諸国を遍歴する。東北・中国地方への度々の旅行で見聞した農村の
           悲惨な間引きに最も心を痛めた[1]。
寛政4年(1792年) - 江戸京橋柳町にて医業を始める。
寛政9年(1797年) - 母が死に、上総国山辺郡大豆谷(まめざく)村(現千葉県東金市)に移る。
文化10年(1813年) - 江戸日本橋富沢町で医業を営む。
文化12年(1815年) - 平田篤胤に入門。
文化13年(1816年) - 医業廃業。吉川源十郎一件に連座して入牢。江戸所払いにより、下
            総国船橋大神宮(現千葉県船橋市)に移る。
文化14年(1817年) - 大豆谷村に移る。
文政6年(1823年) - 『混同秘策』を著す。
文政8年(1825年) - 『天柱記』を著す。
天保3年(1832年) - 江戸所払いにより、武蔵国鹿手袋村(現埼玉県さいたま市南区)に移る。
           『農政本論』を著す。
天保4年(1833年) - 『内洋経緯記』を著す。
天保10年(1839年)には親交のあった渡辺崋山、高野長英、小関三英とともに蛮社の獄に連座したが、
            わずかに罪を免れる。
天保11年(1840年) - 綾部藩の藩主九鬼隆都に招かれて勧農策を講じた。やがて、かれの学識は
         老中首座であった水野忠邦の買うところとなり、その罪も許されて、忠邦の諮問に
         応ずるために『復古法概言』を著した(弘化2年刊行)。
        信淵は幕府専売制ともいうべき「復古法」を実施し、流通を幕府の手によって直接統制し、
         流通過程からの収奪による富国策を提示した。
天保12年(1841年) - 盛岡藩に仕官。
嘉永3年(1850年) - 死去。墓は浅草松応寺(現在は杉並区高円寺南2-29に移転)
明治15年(1883年) - 朝廷から正五位を追贈される。
明治42年(1909年) - 平田神社に合祀され、彌高神社と改称された神社の祭神となる。







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JR高円寺駅南の寺社めぐり その6 永昌山 宗泰院 on 2014-3-16

2014年06月03日 06時50分44秒 | 東京情報
2014年3月16日(日)、JR高円寺駅の南側にある寺社を散策しました。
暫く記事追加を御無沙汰していましたがこのシリーズを再開します。

今回はその第6回で 永昌山 宗泰院を紹介します。


これまでの散策記

第1回  宿鳳山 高円寺

第2回  高円寺氷川神社(気象神社) 

第3回  如法山 長善寺(赤門寺)

第4回  瑞祥山 鳳林寺

第5回 祥雲山 福寿院


永昌山 宗泰院の基本情報

住所:東京都杉並区高円寺南2丁目31−5  TEL:03-3311-3010
宗派:曹洞宗  山号:永昌山 御本尊:釈迦牟尼仏


Goo地図はこちら
 


杉並区教育委員会の説明板(下の写真)をそのまま引用紹介します。



当寺は山号を永昌山と号する曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼仏です。寺伝によれば、嘯山春虎和尚が天正12年(1584)、麹町表四番町(現千代田区四番町)に草庵を結んだのが始まりといわれています。開山は小田原万松院の格峰泰逸和尚で、文禄2年(1593)に、幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整えました。
その後、元和2年(1616)に至り、寺地が旗本の屋敷地と定められたため、市ヶ谷左内坂に境内地を拝領して移転、寺院の取締りにあたる市ヶ谷組寺院触頭を命ぜられています。
当寺の檀家は旗本・御家人・尾張藩士などの武家350家とその出入上人などで、本堂・開山堂・客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋・槍小屋・馬小屋など十六棟の伽藍を有する旗本寺として隆盛を誇ったといわれています。
明治維新の変動により当寺も一時、寺勢が衰えましたが明治20年代には復興し、明治42年、陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在の地に移転しました。
宝暦7年(1757)建立の本堂、寛延3年(1750)建造の開山堂は、そのまま移築したもので、江戸中期建造の開運弁天堂(尾張藩主の持仏堂といわれる)とともに区内有数の古い建造物です。
なお、当寺には他に類をみない乳房を嬰児にふくませている木彫の「子授け地蔵尊」が安置されているほか、明治の俳人原月舟の句碑、幕末の名剣士すずきは無念流の始祖鈴木大学重明、相撲年寄松ヶ根・東関の墓などがあります。
 昭和60年3月 杉並区教育委員会







朝の早い時間で門が開いておらず中に入れず外観のみです。





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