CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

須磨海浜水族園「ウミガメ博士」の亀崎直樹園長が退任のニュース

2014年08月18日 07時27分00秒 | Weblog
今年(2014)の3月31日付けで須磨海浜水族園「ウミガメ博士」の亀崎直樹園長が退任
されたことは最近、新園長で副園長であった吉田裕之氏(57)の名前が新聞で
よく出てくるので薄々判っていましたが転出先などが気になっていたのでメモがわりに
書いておきます。

亀崎直樹氏(58)は「ウミガメ博士」として知られ、4月1日付で岡山理科大
生物地球学部教授に就任。同園の研究教育部長も兼務するそうです。

亀崎氏はNPO法人「日本ウミガメ協議会」前会長で、平成22年(2010)4月に公募で
須磨海浜水族園で初の民間出身園長に就任。
アカミミガメなど外来生物の調査研究や日本古来の生態系の保全活動、若手研究者の
育成などに取り組まれました。

気さくな人柄で講演会では面白い話を聞かせていただきました。
色々な企画をされ須磨海浜水族園の活性化に尽力され実績を残されたものと思います。

今後とも御健勝で活躍されることを念じています。


昨年2013年7月29日に神戸市須磨区の須磨海岸で遊泳している2頭のイルカ(リアとジーナ)
を観に行って動画を撮っています。下に添付しておきます。

イベント企画は須磨ドルフィンコースト(SDC)プロジェクト(社会実験)と
呼ばれ2013年6月13日から7月31日に実施されました。

2014年は7月1日から8月31日まで実施されています。
問い合わせは須磨水族園 (078-731-7301)
昨年作成のブログにリンクしておきます。
http://seiyo39.exblog.jp/20791837/


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西の海運王光村弥兵衛が奉納の灯籠 in 湊川神社

2014年08月15日 14時49分09秒 | 神戸情報
東の海運王岩崎弥太郎と並び称される西の海運王光村弥兵衛が湊川神社に奉納の灯籠の写真を
撮ってきましたので紹介します。 撮影:2014-8-14

最近、筆をとるのが億劫で久しぶりの投稿です。





上の2枚の写真が光村弥兵衛が奉納した灯籠です。
とにかく大きく存在感のある灯籠です。
阪神淡路大震災の前は東西対の灯籠であったが、東側が地震で倒壊し2014年8月14日現在
残されているのは西側の灯籠のみである。

奉納された時期は多分書かれているのだと思いますが確認していません。
明治5年(1872)以降明治20年(1887)までであろうと推定しています。

光村弥兵衛について簡単に紹介しておきます。

文政10年(1827)5月3日 周防国 熊毛郡光井村に生まれる
         父は水木源右衛門 母は西岡平蔵の娘
        幼名は利吉と言いその後重平、甚八、弥吉と称しさらに弥兵衛と改めた
弘化元年(1844) 商売を始める 木綿商など5年ほど営業するが廃業
         さらに製塩業を始めるが失敗

嘉永5年(1852)12月 商売の修業のため大坂、九州、倉敷、芸州などを転々とする

嘉永6年(1853) 7月13日 江戸(品川駅)に出る
         関東で各地で商売をする

安政6年?(1859) 横浜の開港に当って貿易商を営む
         外国船に水や日用品を供給のため海運業を4年ほど営む

文久3年(1863) 長州ファイブ=井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、
         野村弥吉(井上勝)の5名が横浜から英国のロンドンに向けて出発の際
         幕府から密航を察知され取り調べを受けるが光村弥兵衛は敢えて見逃し
         幕府には虚偽の報告をした。
         この結果、井上、伊藤等は無事留学を果たすことができた。
      
明治元年(1868) 神戸開港に合わせて神戸に転居
         兵庫県の初代県令(知事)の伊藤博文らから外国貿易に関して
         独占的な権益を得て財を蓄積する。
         当時、屋号は長門屋で長門屋弥兵衛と呼ばれていました
         住居は海岸通り

明治3年(1870) 運貨丸を購入

明治5年(1872) 運貨丸 造幣寮より払い下げ
         カルロ商会から内灘丸を買い取りさらに帆前船を数隻購入し

         6隻の船持ちとなった。
         毎月6のつく日 3回/月の定期航海を始め大阪富嶋に支店を置く
          (大阪以西の航海権を独占する)

明治7年(1874) 高島炭鉱の石炭の売買 グラバー商会から日本人の手になり
         石炭の運搬や売買の商売に従事

明治8年(1875) 大阪商船学校

明治9年(1876)12月 4隻の汽船(外輪型)を発注

明治10年(1877)西南の役で光村弥兵衛の所有する船が御用船となり兵隊を神戸から
         福岡まで輸送

         帰り便で別子鉱山の銅などを運搬し巨利を得る

明治11年(1878) 硫酸製造し支那に輸出

明治13年(1880) すべての事業を廃業(白内障で失明状態などの理由による)
          所有の汽船などは大阪商船に売却

          余生には禅学を修業

明治24年(1891)2月20日 永眠
          墓は五宮町の祥福寺



上の写真は光村弥兵衛氏の肖像です。

出展:従六位光村弥兵衛伝
中西牛郎 著 明27.11 印刷人 野村宗十郎  印刷所 株式会社東京築地活版製造所

尚、上記書籍は国立国会図書館がアーカイブ化しておりWeb上で閲覧出来ます(下記サイト)

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782047

また光村弥兵衛の一生をEOひかりの歴史浪漫でみることが出来ます。(下記サイト)

 http://eonet.jp/eohikari-ch/rekishi/


久しぶりの投稿で時間の関係もあり充分調査していない部分もあり不十分な記事となってしまいました。
後日、補完して内容を充実させていきたいと考えています。






上の2枚の写真は光村弥兵衛が祥福寺に寄進した多宝塔です。
 撮影:2008-12-22

神戸には光村弥兵衛の寄進で建設されたものが多数あります。
これらについても後日補完していきたいと思っています。

弥兵衛には、一粒種の光村利藻がいる。(以下は神戸史談会「歴史と神戸」による)
百万長者長門屋を継ぎ、慶応義塾を出たが、日本最後の遊蕩児として名高い。
逸話の多い人物だが、弥兵衛の葬儀を撮影した写真に興味を覚えて、風景や人物を芸術的に撮影し
美術印刷の道を開いた先駆者となり、乃木将軍の「水師営の会見」写真で知られる。


光村利藻は光村弥兵衛の遺産3,000万円を相続しています。
明治時代中期での金額なので今の価値だと1兆円に近い金額か?(要確認)


光村印刷株式会社の創業者である光村利藻は、日本海運業の先駆者の一人である神戸の
光村弥兵衛の長男として生まれました。
幼少の頃から写真・印刷に親しんでいた利藻は、長ずるにしたがって写真集や
美術書作りにのめり込み、明治34年(1901年)、
ついに光村印刷の前身となる「関西写真製版印刷合資会社」を設立します。




















 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BS歴史館 もうひとつの幕末維新 (2)「スーパー留学生 長州ファイブ」を視聴して on 2014-8-5

2014年08月09日 05時13分45秒 | Weblog
表記のNHK・BSプレミアムの番組を視聴しました。

番組の内容をレビューするとともに関連の事項もまとめてみました。

長州ファイブ=長州五傑(ちょうしゅうごけつ)とは、江戸時代末期(幕末)に長州藩から清国経由で
ヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した井上聞多(馨)
、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。

恥ずかしながら私は井上馨と伊藤博文しか知りませんでした。


上の写真が長州ファイブのメンバーの写真です。


上の写真は番組の様子で出演者は下記のとおりです。
渡辺真理,町田明広,榊原英資,為末大
語りは佐々木蔵之介

ここでWikipediaによる長州ファイブの解説を引用紹介します。
詳細はhttp://en.wikipedia.org/wiki/Ch%C5%8Dsh%C5%AB_Five

駐日英国領事であったエイベル・ガウワーや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)の
ウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)らの協力を得て成し遂げられた
英国留学中は、ジャーディン・マセソン創業者ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン
(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話役となった。

この5名はロンドン大学において長州ファイブ (Choshu Five) として顕彰碑が建てられており、
そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、
2003年に山口市に顕彰碑が建てられた。その碑文では、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、
伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。

2006年には、この5名の渡航前後の様子を描いた映画『長州ファイブ』が製作された。


同じくWikipediaによる解説で彼らが留学の準備からロンドン到着までを記述されています。

準備

1863年4月18日(旧暦。以下1873年12月2日まで同様、翌日以後はグレゴリオ暦)、井上、山尾、野村の
3名、藩主より洋行の内命を受ける。
4月28日には洋行のため、井上は野村と共に京都を発ち、5月6日に江戸に到着した。

5月7日、駐日英国総領事エイベル・ガウワーを訪ね洋行の志を述べ、周旋を依頼する。ガウワーからは
船賃が700ドル(約400両)、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされる。
江戸到着後さらに2人(伊藤・遠藤)増え、5人分つまり5000両が必要になった。
洋行にあたって藩主の手許金から1人200両(井上・伊藤・山尾の3人で600両)を支給されたが当然
足りなかった。そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保
していた1万両の準備金があったので、佐藤は「藩邸の代表者が保証するなら5000両を貸す」と
いうことになり、藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決してもその志を遂げたいと半ば脅迫的に
承諾させ、5000両を確保することができた。


出立

5月12日、ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)で横浜を出港し、
上海に向かう。このとき、井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶことを恐れ、志道家を離別している。

5月18日頃 上海に到着し、ジャーディン・マセソン商会上海支店の支店長に面会した。話が通じず、
結局支社長は「お前達は何のために洋行するのか?」と聞いているらしいことは分かった。
そこで「海軍を研究する」と言おうとして「ネイヴィー」とすべきところを間違って「ネビゲーション」
の一言を発した者がいた。この言葉を支社長は「ナビゲーション=航海術」と理解した。
当時の上海は東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していた。彼らは、上海の繁栄と100艘以上の
外国軍艦およびその他の蒸気船を目の当たりにして、攘夷」という無謀なことをすれば日本はすぐに
滅ぼされてしまうだろうとの判断から「開国」へと考えを変えていった。
上海からは、井上と伊藤は約300トンのペガサス号で出港し、他の3名は10日ほど後に5、600トンの
ホワイト・アッダー号で出港した。ロンドンまでの旅程は、“航海術を学ぶ”ということと理解されて
いたので、水夫と同格の扱いで非常に困苦し、日本人を「ジャニー」と呼び軽蔑されていたと感じている。
便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、嵐の時には身体を縄で縛って
危険から保護した。
さらに伊藤は下痢で苦しんだため、「実にその困難の状は筆舌の能く尽す所でなかった」という。

11月4日、ロンドンに到着する。


約4か月の道のりであった。

ロンドンで長州ファイブを援助したのはロンドン大学(UCL)の化学者Alexander Williamsonであった。
下記のサイトにA.Williamsonの紹介記述があります。ロンドン大学の顕彰碑の写真もあり。

 http://www.rsc.org/chemistryworld/2013/06/choshu-five-5-japan-science-chemistry-williamson


NHKの番組では攘夷論者であった5人の留学生が開国論者に変わっていったこと。
また初めて日本人になった5人との解説もあった。

さらに番組では文久3年(1863)5月10日に下関海峡でアメリカの商船「ペムブローク号」が
長州藩の軍艦「庚申丸」と「癸亥丸」から突如砲撃を受ける事件とその後もフランス、
オランダなどのふねが砲撃される事件をロンドンで知った5人はいくら海軍などの勉強を
続けても国が滅びては何もならないと井上馨らに帰国を決意させることになります。


番組では上の写真のように解説されました。

元治元年(1864)3月、長州ファイブ密航者5名は日本発の「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも
幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道に驚き、
井上と伊藤は直ちに帰国を決意する(一説には薩英戦争の取材記事であったとする説もある)。

以上Wikipediaより

1864年4月中旬ロンドンを発った井上と伊藤は6月10日頃横浜に到着。
井上は伊藤と共に駐日英国総領事ガウワーに会い急遽帰国した説明をしたところ、
ガウワーは4カ国(英・米・仏・蘭)が下関を襲撃する計画があることを告げた。
両名は故国の安危に関する大事件と受け取り、英国公使館の通訳アーネスト・サトウを
介して公使ラザフォード・オールコックと会見し、自分たちが長州藩に帰って
藩論を一変したいと説明し、停戦講和を願った。駐日英国公使は「フランス、アメリカ、
オランダの公使と協議して確答するから数日間居留地のホテルに宿泊して待つように、
その際長州人と分からないように日本語を使ってはならない」と申し渡された。
2人に対してホテルのボーイ等は「今回ホテルに来たポルトガル人の顔付きは日本人に
似ている、けちで金銭を使わぬには驚いた、金銭を使う道を知らぬのではあろうが、
彼ら2人の風貌から見てもポルトガル人の中でも最下等の貧乏野郎」など、言葉が
分からないものと思って勝手なことを話していた。
やがて英国公使から連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいと、
藩主あての公使からの書簡を手渡された。書簡に対する返答は、到着から12日後と決まった。

以上はWikipediaより引用。

1864年8月5日上記4か国の艦隊が下関の砲台を次々に砲撃し下関海峡の砲台は悉く破壊され
弾薬などは海中に投棄されました。

上の写真は4か国の連合艦隊の陸戦隊が1864年8月6日に砲台を占拠した様子。


8月8日には高杉晋作を正使とし井上・伊藤は通訳として降伏交渉し停戦協定を結びます。


上の写真は番組で紹介された3名の写真です。

wikipediaには6月以降の井上・伊藤の行動を詳細に記載しています。

6月18日、英国艦に乗り、豊後姫島まで送られる。
6月24日、山口に着き、藩の事情を聞くと、「幾百艘の軍艦が来襲しても死力を尽くして防戦する」
      という藩の方針が決定しているとのことであった。
6月25日、井上は伊藤と共に藩庁に出頭し、海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、開国の
     必要性を訴える。伊藤は、攘夷論者を警戒して春山花輔と変名する。
6月26日、藩主の下問に応じて、井上は伊藤と共にそれぞれ海外の事情を進言する。
      しかし、藩の趨勢から方針転換は困難という。
6月27日、井上と伊藤が希望していた御前会議が開かれる。藩の重役達の前で西洋事情を
   話しても理解されず、西洋文明を説明しても「ホラを吹くにもほどがある」と嘲笑される。
   攘夷論者からは命を狙われるほどの意識のギャップに、井上と伊藤は隔靴掻痒の思いであった。
6月29日、藩主の立場としては、藩士の攘夷熱は抑えがたい状況に到る旨を、毛利登人から井上に
    伝えられる。これに対して井上は、「藩政府員が『防長2州が焦土と化しても天勅を
    奉じて攘夷を遂行する』とは、その言葉は美しいようであるが1敗の結果、一同討ち死に
   しても藩主一人残る理由はないからその最後の決心があるか?」を藩主に伝えるよう要請した。
7月2日、井上は、藩主より英国軍艦に行き、止戦のための交渉をするように命ぜられる。
7月5日、井上は伊藤と共に姫島の英国艦に行き、攻撃猶予を談判するも成らず。
7月21日、井上は、脱走の罪で萩の実家に幽閉中の高杉晋作を訪問する。
8月4日、井上は藩より外国艦との交渉をするように命ぜられ、8月5日に前田孫右衛門とで小船に乗り、
    艦隊に向かう。途中で約束の時間が過ぎたため、イギリス、フランス、アメリカ、
     オランダの四カ国の艦隊が下関を砲撃する。8月7日には艦隊の兵士2千名が上陸した。
8月8日、井上は講和使節宍戸刑馬(高杉晋作の仮称)に従い、伊藤と共に講和使節として英国艦に
    行くが、失敗する。 藩では征長の軍に対しても応戦しなければならず、やむを得ず
    井上や高杉らに外艦の対応を指示したものである。
8月9日、井上は外国兵による大砲の分補に立ち会う。
8月10日、井上は講和使節として毛利登人に従い外国艦に行くが、談判ならず。
8月14日、井上は講和使節宍戸刑馬に従い外国艦に行き、講和条約を締結する。
    英国海軍オーガスタス・レオポルド・キューパー提督は長州藩の発砲に対して賠償金を
    要求したが、「これは朝廷・幕府の命に従った事で我が藩の私意によったものではない。
    4カ国公使から幕府に請求するのが筋である」として責任転嫁することが出来た。
    これは高杉の機転によるものであった。一方で和議に反対する攘夷論者は多く、
    山口に滞在する公卿(三条実美、四条隆謌、東久世通禧)らは毛利定広に対して抗議し、
    藩政府員は困って「あれは高杉、井上、伊藤らが藩主を篭絡してやったことで」などと
    逃げ口上もあり、井上は帰国以来命を狙われるのは当然という時期であった。


番組ではこの停戦協定がなければ京都まで4か国の連合軍が攻め込んでいたと東大史料編纂所
教授の保谷徹教授による資料が紹介されています(下の2枚の写真)





さらにこの交渉が上手くいかなかった場合、日本は多額の賠償金を背負うことになり、明治期の
近代化に重大な影響があったと保谷教授が述べられています。下の写真



ばんぐみでは鹿児島純心女子大学副学長の犬塚孝明さんの資料が紹介されていました。(下に添付)







ロンドンに残った遠藤、野村、山尾の3人は、薩摩藩からの密航留学生たちの存在を知り、交遊している。
遠藤は1866年(慶応2年)、野村と山尾は1868年(明治元年)11月19日に帰国した。



上の写真は明治期に撮影された長州ファイブ(初めて日本人になった人々)です。


誰もが知っている伊藤博文は大日本国憲法制定の業績。


井上馨は鹿鳴館外交の業績。


遠藤謹助は国産の造幣で業績。

ばんぐみではお雇い外国人の月給が安くても200円。当時の一般労働者の月給は5円であった。


上の写真は図解 幕末・明治維新 長濱真理子著 西東社(2007)のPage199より引用


山尾庸三は工業の父と呼ばれ工部大学校の設立などで業績


井上勝は鉄道の父と呼ばれ明治5年(1872)新橋と横浜間の鉄道敷説の紹介がありました。

昨年(2013年)は長州ファイブロンドン渡航から150年ということで記念行事がありました。

関連サイト
 http://www.uk.emb-japan.go.jp/jp/event/2013/choshu/info.html
  150周年記念行事

 http://sequinsandcherryblossom.com/2013/12/22/university-college-london-choshu-five/
  UCL関連

 http://www.soci.org/News/London/Choshu-Five
  UCL関連

 http://www.theeast.org/?p=220815
  2006年に映画化

 http://wn.com/choshu_five
  2006年に映画化

 2006年に映画化された時の基本情報<(DVD)/u>

オリジナルネーム Choshu Five Chosyu Edition [Limited Edition]
発売日 2007年09月28日
キャスト Ryuhei Matsuda, Toshio Kakei, Yukiya Kitamura, Daijiro Harada, Takaaki Enoki, Susumu Terashima
監督 Takumi Igarashi
スクリーンの形式 16:9 Wide Screen
オーディオ Japanese Dolby Digital Stereo
副題 None
年 2006
上映時間 119 Minutes
ジャンル 日本映画
バージョン 日本版
PAX-Code PAX0001698266
カタログナンバー KMVP-28065

  http://ameblo.jp/yorkshare/entry-11731622521.html
   江戸老人のブログ  ロンドンの薩長同盟

  「杉孫七郎(すぎ まごしちろう)-長州ファイブより先に世界を見た男」










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原爆死没者慰霊式 平和祈念式(平和記念式典)in 広島 on 2014-8-6

2014年08月07日 06時36分10秒 | Weblog
2014年8月6日、69回目の原爆死没者慰霊式 平和祈念式(平和記念式典)が挙行され
NHKテレビで8時から8時38分までLIVE中継がありました。

この中から式典の様子を写真紹介します。
式典のスケジュール(下記)

 1開式           (8:00)
 2原爆死没者名簿奉納    (8:00)
 3式辞           (8:02)
 4献花           (8:07)
 5黙とう・平和の鐘     (8:15)
 6平和宣言         (8:16) 広島市長
 7放鳩          
 8平和への誓い       (8:22) 子供代表
 9あいさつ        (8:26) 内閣総理大臣
 10ひろしま平和の歌(合唱)(8:40)
 11閉式          (8:45)

雨の中での平和祈念式典の挙行は43年ぶりだそうです。
1945年8月6日 8時15分 人類史上初めての原子爆弾が広島に落とされました。

その年に亡くなった被爆者は約14万人。

上の写真は平和祈念式典が挙行された広島平和記念公園

松井市長と遺族代表により、この1年間に死亡が確認された被爆者5,507人の原爆死没者名簿が
慰霊碑に奉納されました。
これで通算29万2,325人の原爆死没者名簿が慰霊碑に奉納されたことになります。


上の写真は「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれた慰霊碑。

NHKの番組では被爆体験者の3人の紹介と子供たちの活動を紹介


爆心地から700m離れた旧日本軍司令部で連絡係をしていた岡ヨシエさん(当時14歳)は
庶民の声は届かず政治家の判断で戦争に巻き込まれていく危険性を訴えておられました。


藤森俊希さんは1945年当時1歳で爆心地から2.3Km離れたところで被ばく、今年の2月13日-14日に
メキシコで開催されたSecond Conference on the Humanitarian Impact of Nuclear Weapons で
被爆者の一人として原爆の悲惨さについてプレゼンテーションされたことについて報道されていました。

会議の内容については下記サイトで詳細に紹介されています。
http://www.sre.gob.mx/en/index.php/humanimpact-nayarit-2014


上の写真は広島県被団協の坪井直理事長、式典のあと被爆者の声を安倍総理に伝えるとの
紹介解説がありました。
坪井氏は1945年8月6日、広島工専(現在の広島大学工学部)への通学途中、爆心地から1.5kmの地点で被爆した
そうです。


上の写真は小学校の講堂で式典の様子を観覧している児童の紹介画面。


上の写真は平和宣言を読み上げる松井一実広島市長。

平和宣言の全文は下記のとおりです。

「被爆69年の夏。灼(や)けつく日差しは「あの日」に記憶の時間(とき)を引き戻します。1945年8月6日。一発の原爆により焦土と化した広島では、幼子(おさなご)からお年寄りまで一日で何万という罪なき市民の命が絶たれ、その年のうちに14万人が亡くなりました。尊い犠牲を忘れず、惨禍を繰り返さないために被爆者の声を聞いてください。

建物疎開作業で被爆し亡くなった少年少女は約6,000人。当時12歳の中学生は、「今も戦争、原爆の傷跡は私の心と体に残っています。同級生のほとんどが即死。生きたくても生きられなかった同級生を思い、自分だけが生き残った申し訳なさで張り裂けそうになります。」と語ります。辛うじて生き延びた被爆者も、今なお深刻な心身の傷に苦しんでいます。

「水を下さい。」瀕死の声が脳裏から消えないという当時15歳の中学生。建物疎開作業で被爆し、顔は焼けただれ、大きく腫れ上がり、眉毛(まゆげ)や睫毛(まつげ)は焼け、制服は熱線でぼろぼろとなった下級生の懇願に、「重傷者に水をやると死ぬぞ。」と止められ、「耳をふさぐ思いで水を飲ませなかったのです。死ぬと分かっていれば存分に飲ませてあげられたのに。」と悔やみ続けています。

あまりにも凄絶(せいぜつ)な体験ゆえに過去を多く語らなかった人々が、年老いた今、少しずつ話し始めています。「本当の戦争の残酷な姿を知ってほしい。」と訴える原爆孤児は、廃墟の街で、橋の下、ビルの焼け跡の隅、防空壕などで着の身着のままで暮らし、食べるために盗みと喧嘩を繰り返し、教育も受けられずヤクザな人々のもとで辛うじて食いつなぐ日々を過ごした子どもたちの暮らしを語ります。

また、被爆直後、生死の境をさまよい、その後も放射線による健康不安で苦悩した当時6歳の国民学校1年生は「若い人に将来二度と同じ体験をしてほしくない。」との思いから訴えます。海外の戦争犠牲者との交流を通じて感じた「若い人たちが世界に友人を作ること」「戦争文化ではなく、平和文化を作っていく努力を怠らないこと」の大切さを。

子どもたちから温かい家族の愛情や未来の夢を奪い、人生を大きく歪めた「絶対悪」をこの世からなくすためには、脅し脅され、殺し殺され、憎しみの連鎖を生み出す武力ではなく、国籍や人種、宗教などの違いを超え、人と人との繋がりを大切に、未来志向の対話ができる世界を築かなければなりません。

ヒロシマは、世界中の誰もがこのような被爆者の思いを受け止めて、核兵器廃絶と世界平和実現への道を共に歩むことを願っています。

人類の未来を決めるのは皆さん一人一人です。「あの日」の凄惨(せいさん)を極めた地獄や被爆者の人生を、もしも自分や家族の身に起きたらと、皆さん自身のこととして考えてみてください。ヒロシマ・ナガサキの悲劇を三度繰り返さないために、そして、核兵器もない、戦争もない平和な世界を築くために被爆者と共に伝え、考え、行動しましょう。

私たちも力を尽くします。加盟都市が6,200を超えた平和首長会議では世界各地に設けるリーダー都市を中心に国連やNGOなどと連携し、被爆の実相とヒロシマの願いを世界に拡げます。そして、現在の核兵器の非人道性に焦点を当て非合法化を求める動きを着実に進め、2020年までの核兵器廃絶を目指し核兵器禁止条約の交渉開始を求める国際世論を拡大します。

今年4月、NPDI(軍縮・不拡散イニシアティブ)広島外相会合は「広島宣言」で世界の為政者に広島・長崎訪問を呼び掛けました。その声に応え、オバマ大統領をはじめ核保有国の為政者の皆さんは、早期に被爆地を訪れ、自ら被爆の実相を確かめてください。そうすれば、必ず、核兵器は決して存在してはならない「絶対悪」であると確信できます。その「絶対悪」による非人道的な脅しで国を守ることを止め、信頼と対話による新たな安全保障の仕組みづくりに全力で取り組んでください。

唯一の被爆国である日本政府は、我が国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増している今こそ、日本国憲法の崇高な平和主義のもとで69年間戦争をしなかった事実を重く受け止める必要があります。そして、今後も名実ともに平和国家の道を歩み続け、各国政府と共に新たな安全保障体制の構築に貢献するとともに、来年のNPT再検討会議に向け、核保有国と非核保有国の橋渡し役としてNPT体制を強化する役割を果たしてください。また、被爆者をはじめ放射線の影響に苦しみ続けている全ての人々に、これまで以上に寄り添い、温かい支援策を充実させるとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう求めます。

今日ここに、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、「絶対悪」である核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向け、世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。



平成26年(2014年)8月6日

広島市長 松井 一實」


英語版はこちら


過去の平和宣言の文章は下記サイトで確認できます。

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/0000000000000/1111135185460/index.html


上の写真は平和への誓いの画面


上の写真は安倍首相の挨拶

 
関連サイト

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1406368047750/index.html
英語での広島平和宣言読み上げ

平成24年 広島平和記念式典 on 2012-8-6

核廃絶の願いは世界に届くか? 2010年広島の平和記念式典を視聴して

原爆死没者慰霊式 平和祈念式(平和記念式典)in 広島 on 2011-8-6


被爆66周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 in 長崎 on 2011-8-9


















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つなぐ平和・2014夏

2014年08月06日 04時55分56秒 | Weblog
<つなぐ平和・2014夏>憲法全文を書き写した90歳の楠さん、広島平和宣言に苦言 集団的自衛権、明確に反対を /広島(毎日新聞) - goo ニュース


2014年8月3日(日)15:41 毎日新聞(著作権者) 


 6日の広島平和記念式典で広島市の松井一実市長が読み上げる平和宣言で、閣議決定された集団的自衛権の行使容認について触れないこととなった。「戦争につながる」などとして、市に宣言に反対を盛り込むよう求めた署名は5591筆に及んだが市民の思いは届かなかった。第二次大戦後、旧ソ連に抑留された楠忠之さん(90)=西区=も署名を寄せた一人。1947年に日本国憲法全文をしたためたノートを今も大切に保管しており、明確に反対しない市の姿勢に疑問を呈している。【加藤小夜】

 楠さんは広島高等師範学校(現・広島大教育学部)を卒業した43年、海軍予備学生に志願。「当時は『正義の戦い』と信じていた」。満州(現中国東北部)の旅順に渡り、終戦後は旧ソ連・マルシャンスクの国際収容所に抑留された。

 零下30度での作業にも耐え、47年12月に帰国。爆心地付近にあった下宿先の住民は、結婚や就職で広島を離れていた人を除いて、亡くなっていた。「正しいと思っていた戦争で、こんな悲惨なことに…」と思い知らされた。

 焼け跡にできた図書館で、初めて目にした新憲法は、日英両語で併記されていた。「戦争を起こすのは政府だ」。衝撃を受け、A5版のノートに全文を書き写した。広島文理科大(現広島大)の教育学部に再入学すると、50年に朝鮮戦争が勃発し、再び核兵器が使われる恐れが取りざたされた。教授も巻き込み、集まった核兵器の禁止を求める署名は10万筆近くになった。全世界から5億もの署名が集まり、米国が核兵器を使用することはなかった。「世界の世論が政治を動かした。運動の原点です」。現在は被爆建物の保存運動に尽力する。

 行使容認の閣議決定を主導した安倍晋三政権には「戦争を知らない安倍さんが、総理の立場で解釈をゆがめることは許し難い」と憤る。平和宣言で集団的自衛権の行使容認への懸念を表明する長崎市に対し、憲法の崇高な平和主義に触れながらも、それを脅かすものへの批判を避けた広島市。楠さんは「なぜ遠回しに言わなきゃならんのか。平和主義に反する集団的自衛権には、明確に反対してしかるべきだ」と語った。


戦争体験者の貴重なご意見です。

関連サイト

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1406368047750/index.html
英語での広島平和宣言読み上げ

核廃絶の願いは世界に届くか? 2010年広島の平和記念式典を視聴して

原爆死没者慰霊式 平和祈念式(平和記念式典)in 広島 on 2011-8-6


被爆66周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 in 長崎 on 2011-8-9
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第10回 毛利来襲(2014-3-9放送)の舞台となった英賀城跡

2014年08月03日 15時30分23秒 | 神戸市以外の兵庫県
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第10回 毛利来襲(2014-3-9放送)の舞台となった英賀城跡について
2014年8月2日17時48分からのNHK番組「ひょうご 官兵衛を訪ねて」で紹介されていましたので
その内容を中心として過去の訪問記も加えて紹介します。

姫路の黒田官兵衛ゆかりの地訪問記 on 2014-6-25 その7 亀山本徳寺

英賀城跡と英賀合戦


なお、第10回の放送日にも官兵衛紀行で英賀城土塁跡が紹介されていました。


まず英賀城跡の所在地について空から写真を交えて紹介(上の写真)
英賀城跡と英賀合戦でも地図を添付。

毛利来襲のあったのは天正4年(1567)5月のことです。

小寺政職が織田方に味方するとの情報を知った毛利輝元は天正4年(1576)5月、
毛利軍の浦宗勝(うらむねかつ)が5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある
英賀村(あが村=兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸します。

浦宗勝の本陣は播磨における一向宗の拠点英賀御堂です。





上の写真は毛利軍の水軍5,000が上陸した田井ケ浜です。当時の海岸線は新幹線が通っているあたりだった。

黒田官兵衛、夜明けに500の兵で毛利軍を急襲。毛利兵は撤退し勝利を得る。
ドラマでは前線の後方にいた農民が太鼓、法螺、旗をかざして援軍が来たように毛利軍に
思わせたため百戦練磨の毛利の猛将、浦宗勝に退陣の判断をさせた。

英賀合戦の勝利に対し黒田官兵衛は信長より荒木村重を介して感状を受けています。

織田信長はこの頃安土桃山城を築城しており、石山本願寺を包囲していた信長軍勢は
天王寺砦で苦戦しており信長自ら前線に参戦、足に銃弾を受けて落馬するが秀吉の
鉄砲隊に危ういところを救出される場面がありました。




上の写真は英賀神社の正面入り口と裏手の土塁跡です。


上の写真は司馬遼太郎の播磨灘物語の碑です(英賀神社内)


上の写真はかって英賀御堂のあった夢前川です。

英賀御堂の位置は前述の英賀城跡と英賀合戦の一番上の地図に
載っていますので参照してください。




上の写真は明蓮寺と明蓮寺の境内にある英賀本徳寺跡(英賀御堂跡)の石碑です。


天正4年(1567)7月摂津・木津川の河口で石山本願寺へ兵糧を運びこもうとする毛利軍と
それを阻止しようとする織田軍が激突、織田の水軍は大敗し官兵衛にも新たな危機を
もたらすことになる。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする