CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

神戸阪急ビル東館の建設(建て替え)状況 on 2020-3-12

2020年03月13日 05時49分44秒 | 神戸情報

2021年に完成を目指して神戸阪急ビル東館の建て替え工事が進行しています。

2020年3月12日の建設状況の写真を撮りましたので紹介します。

建設中の神戸阪急ビル東館

上の2枚の写真は建設工事が進む神戸阪急ビル東館の近景です。 撮影:2020-3-12

神戸阪急ビル東館は以前は通称「阪急会館」と呼ばれ、昭和11年(1936)に完成

したビルで長く市民に親しまれてきたが阪神淡路大震災で倒壊し、以降は仮設ビルでの

営業が続いていました。

上の写真はJR三宮駅南側から観た神戸阪急ビル東館の建設状況

完成後の神戸阪急ビル東館

上の写真は完成後の神戸阪急ビル東館

出典は下の写真の建設現場に掲示の説明板です

(以下の写真もすべてこちらの説明板によります)

 

ビルの下層部の完成後の姿

神戸阪急ビル東館の概要

神戸市が「知の交流拠点」として15階の600㎡があてられる計画もある。

コワーキングスペースやイベント空間が設置されポートアイランドの医療関係の

研究者や大学関係者さらに起業者などが集いイノベーションが生まれる場を

提供するとされています。

運営事業者は有限責任監査法人トーマツと神戸新聞社が選定されています。

都心再整備スポット

2番が今までに紹介してきた神戸阪急ビル東館になります。

 1.三宮クロススクエア

 2.神戸阪急ビル東館

 3.新たなバスターミナル

 4.葺合南54号線

 5.東遊園地

 6.三宮プラッツ

 7.KOBEパークレット

 8.元町駅前まちなか拠点

 9.メリケンパーク

 10.新港突堤西地区再開発事業

JRの駅ビルについても今後、建設が進められ三宮駅周辺の再整備事業が加速

していくと思われます。

 

詳細情報

 都心・三宮の再整備(神戸市)

 神戸都市ビジョン

 神戸の都心・三宮 FB

 

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鋸研磨機を発明した廣田貫次の頌徳碑 in 三木市大宮八幡宮 on 2020-2-2

2020年03月12日 04時23分57秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月2日、蓮花寺の鬼踊りを観るために三木市に出かけていました。
鬼踊りについては下記ブログを作成済
 三木市 蓮花寺の鬼踊り on 2020-2-2
午前中、表題の廣田貫次氏の頌徳碑(顕彰碑)の写真を撮りましたので紹介します。

頌徳碑は大宮八幡宮の境内の弁財天の祠の近くに建っています。

上の写真は金剛石の砥石を使用した鋸刃の研磨機を発明し特許権も取得した

廣田貫次を顕彰するために昭和11年(1936)2月に建立された頌徳碑

 

廣田貫次は昭和3年(1928)に上記の研磨機を発明した人物である。

研磨機の普及や、改良にも尽力し刃物加工業界の業績向上に寄与した。

建立者は地元三木市の刃物加工業者

 

撰文と書は小野市河合の慶徳寺の住職 河合真英 師

 

上の2枚の写真は大宮八幡宮の弁財天

顕彰碑のある場所の目安として添付しました。

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館林藩主松平武元寄進の石燈籠 in 三木市大宮八幡宮 on 2020-2-2

2020年03月11日 05時23分08秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月2日、蓮花寺の鬼踊りを観るために三木市に出かけていました。
鬼踊りについては下記ブログを作成済
 三木市 蓮花寺の鬼踊り on 2020-2-2

午前中、表題の灯篭の写真を撮りましたので紹介します。

 

上の2枚の写真は館林藩主松平武元寄進の石燈籠と現地説明板

説明板に記載されているように灯篭は宝暦6年(1756)に寄進されました。

三木町は延享4年(1747)から上州舘林藩の飛び地領となり天保13年(1842)

までの約100年間支配が続きました。

灯篭の奉納者の松平武元は2代目の藩主でした。

旧玉置家住宅は文政9年(1826)に、上州館林藩の財政建て直し策を
図るため、切手会所(今の銀行)として建てられたことを始まりとしています。

松平武元についてWikipediaより略歴を引用紹介します。

常陸国府中藩3代藩主・松平頼明の次男として誕生。 
享保13年(1728年)、上野国館林藩2代藩主・松平武雅の養嗣子となり家督を相続、その直後に陸奥棚倉に移封された。
稲葉迂齋(稲葉正義、稲葉正誼とも)に師事する。延享3年(1746年)に西丸老中に就任し、上野館林に再封される。
延享4年(1747年)に老中、明和元年(1764年)に老中首座に就いた。 
徳川吉宗、家重、家治の3代の将軍に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。
老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた。
武元死後は、四男・武寛が家督を継いだ。 


正徳3年(1713年)、誕生。
享保13年(1728年) 7月、松平武雅の継子となる。
          9月、養父武雅死去に伴い越智松平家相続。陸奥国棚倉5万4,000石に転封。
享保14年(1729年)12月16日、従五位下右近衛将監に叙任。
元文4年(1739年)9月1日、奏者番に就任。
延享元年(1744年)5月15日、寺社奉行を兼帯。
延享2年(1745年)5月28日、主計頭に転任。
延享3年(1746年) 
5月15日、西丸老中(徳川家治付き)となり、上野国館林5万4,000石に国替。右近衛将監に遷任。
9月1日、従四位下に昇叙。右近衛将監は元の如し。
延享4年(1747年) 
7月21日、侍従を兼任。
9月3日、西丸老中から本丸老中に転じる。
宝暦11年(1761年)5月16日、老中首座となる。
明和6年(1769年)12月1日、7000石加増、都合6万1000石

安永8年(1779年)7月25日死去。享年67。法名は天韶院勇山。
   墓所は東京都荒川区東日暮里の関妙山善性寺。

当日、大宮八幡宮の本殿の写真も撮っていますので添付しておきます。

(下の2枚の写真)

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世界初、ブラックホールの撮影に成功 on 2019-4-10発表

2020年03月10日 05時09分48秒 | 有用な情報

表題のテーマは時期を逸した事項であるが記憶に留めておきたいので書きました。

2019年4月10日以降、報道各機関は約200人の世界の天文学者の共同研究により
世界で初めて「ブラックホール」の撮影に成功したと伝えた。

報道例1(ANN)

 史上初 ブラックホール撮影に成功 画像を公開(19/04/11)

報道例2(産経新聞社)

 ブラックホール撮影、初の成功 国立天文台など国際チーム

 

本ブログでは記憶に留めるために関連サイトへのリンク集を作成した。

詳細は10日発行の米専門誌アストロフィジカル・ジャーナル・レターズに掲載
(下記サイト)

 https://iopscience.iop.org/issue/2041-8205/875/1

 https://iopscience.iop.org/journal/2041-8205/page/Focus_on_EHT

撮影は、「イベント・ホライズン・テレスコープ(EHT)」と名付けられた、

2017年4月以降、6か所の8つの望遠鏡の連携によって実現した。

ブラックホールはM87またはMessier87と名付けられた。

地球から今回撮影のブラックホール(M87)までの距離は5,500万光年

撮影したブラックホールは直径約400億キロメートル。地球の直径の約300万倍という

質量は太陽の65億倍であることも判明。

巨大さで、科学者たちからは「モンスター」と呼ばれている。

 

関連サイト:

 https://phys.org/news/2019-04-virtual-telescope-observatories-world-images.html

 https://eventhorizontelescope.org/

 重力波2度目の観測 米国LIGO研究チームが発表 on 2016-6-15

 重力波(Gravitational waves )に関するお勉強

 

捉えられたM87のブラックホールの画像と説明パネルを添付して筆を置きます。

説明パネルは2020-1-25明石市立文化博物館の特別展「138億光年 宇宙の旅」

 
 

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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その2 明智光秀像と坂本城跡公園

2020年03月09日 04時38分48秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第2回で明智光秀像と坂本城跡公園を紹介します。

シリーズ過去の記事:

第1回 坂本城本丸跡

 

明智光秀像

上の写真は坂本城跡公園に建つ明智光秀像

手前には明智光秀の業績を示した石碑もあります(下の写真)

 

坂本城跡公園の石碑と説明板

上の写真は坂本城跡公園入口に建つ坂本城址と書かれた石碑

 

上の写真は坂本城跡公園に設置の明智光秀顕彰の石碑です。

平成7年(1995)下阪本学区まちづくり推進協議会により建立されました。

上の写真は同じく坂本城跡公園に設置の石碑です。

明智光秀をテーマにした演歌で鳥羽一郎が歌唱。スイッチを押すと歌声が流れます

上の写真は坂本城跡公園の遠景で。たくさんの幟旗がありますが当日は観光客は

少なく公園の駐車場は近隣の釣り客で占有されているようでした。

上の写真は坂本城跡公園付近の琵琶湖に建つ鳥居です。

その形状(山王鳥居)から日吉大社の鳥居であると思います。

上の写真は各所の掲示板に張られていた坂本城を紹介するものです。

坂本城は姫路城と同じように大天守の他に小天守を持つ構造であったようです。

前回に紹介した坂本城の縄張り図と推定図の写真を再掲します(下の3枚の写真)

明智光秀の略年譜

明智光秀の略歴を年譜形式で記載しておきます。
 年齢は1528年生まれ説で記載していますが1516年説では12歳プラス
 1540年説ではマイナス12歳

・1528年(享禄元年):0歳
  美濃国に、明智城城主・明智光綱(土岐氏の一族)の長男として生まれる
   生まれた場所及び年代及び父親には諸説があり不確定

・1535年(天文4年):8歳
  父親の明智光綱がなくなり、明智家の家督をつぐ。
  まだ幼かったので、おじの明智光安が後見人となる。

・1549年(天文18年):21歳 妻木煕子(ひろこ)と出会う(結婚?)

・1556年(弘治2年):28歳
    長良川の戦いが起こり、斎藤義龍が明智城を攻める。
   おじの光安は戦死。
   一族は離れ離れとなり、光秀は浪人となり各地を転々とする。

・1557年(弘治3年):29歳 越前 称念寺門前へ
  最近の研究で医者としての知識を持ちここで約10年過ごす
  その後、越前の大名、朝倉義景に仕える

・1565年(永禄8年):37歳 三好三人衆と松永久秀が13代将軍の足利義輝を襲い
             足利義輝は自害
  足利義輝の弟の覚慶(のちの足利義昭)が5月に奈良を脱出
  10月に近江の矢島御所へ移る

・1566年(永禄9年):38歳 近江の田中城に籠る
  針薬方を伝える(足利義昭の家臣に口伝したもの)
  これが縁でのちに足利義昭の家臣(足軽)となる

・1567年(永禄10年):39歳
  朝倉義景の家臣として足利義昭、細川幽斎(藤孝)と出会う
  足利義昭の家臣として幽斎とともに信長と折衝

・1568年(永禄11年):40歳
  足利義昭と織田信長の両方に仕える(二重雇用状態)
  信長と義昭の間を仲介、信長が義昭を奉じて京都へ上る(光秀も同行)

・1569年(永禄12年):41歳 
  足利義昭が三好三人衆から襲撃されるが
  光秀、幽斎が防戦し義昭を無事脱出させる(本圀寺の変=六条合戦)

・1570年(元亀元年):42歳 
  金ケ崎の退け口で藤吉郎と共に殿(しんがり)を務める
  姉川合戦に参戦 志賀の陣に参陣

・1571年(元亀2年):43歳 足利義昭への仕官を中止、信長のみに仕える 
  森可成の死後、宇佐山城を任される
  織田信長が比叡山延暦寺焼き討ちを行う
  光秀は実行部隊として武功を挙げる
                  

・1572年(元亀3年):44歳 木戸城、田中城攻めを行う
  柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益とともに河内国交野郡の片岡氏の調略を策す
  働きが認められ、近江国滋賀郡に5万石を与えられる。
  琵琶湖の近くの坂本城が完成こちらに移る

・1573年(天正元年):45歳
  今堅田の本願寺勢を攻撃
  光秀、戦死者を弔う供養米を西教寺に寄進

・1575年(天正3年):47歳
  信長に命じられ、丹波攻略を開始
  惟仁姓を与えられ日向守に任官 以後、惟仁日向守光秀と名乗る
  越前一向一揆攻めに参加

・1576年(天正4年):48歳
  石山本願寺を攻めるが、光秀は病で倒れ坂本城に戻る
  妻の煕子が死去(11月)

・1577年(天正5年):49歳
  紀州雑賀攻めに参加
  細川幽斎、筒井順慶らとともに松永久秀の拠点の大和片岡城を攻略
  丹波攻めの拠点として亀山城の築城を開始

・1578年(天正6年):50歳
  丹波に再出陣 細工所城(荒木城)の荒木氏綱を降伏させる
  播磨に向かい秀吉の上月城攻めに参加
  娘の玉(のちの細川ガラシャ)を細川忠興に嫁がせる
  荒木村重討伐のため摂津茨木城攻めに参加

・1579年(天正7年):51歳
  坂本城より亀山城へ移動する
  八上城(城主は波多野秀治)を包囲、場内に多数の餓死者、降伏させる
  丹波宇津城を攻め落とす
  丹波黒井城を攻め陥落させる
  横山城を陥落させ福知山城として改築
  丹波国29万石を与えられる
  荒木村重の有岡城の包囲戦に加わる

・1580年(天正8年):52歳
  滝川一益とともに大和国の支配に携わる

・1581年(天正9年):53歳
  信長の馬揃えに、大和・山城衆を率いて三番衆として参加

  明智光秀家中軍法及び定家中法度、軍条々を制定

・1582年(天正10年):54歳
  信長の武田攻めに従軍するため、坂本城を出陣
  安土城に逗留する徳川家康の饗応役を命じられる
  羽柴秀吉とともに中国地方を攻めるように命令される
  進軍の途中に引き返し、織田信長が宿にしていた本能寺を襲う(本能寺の変)
  信長死亡の知らせで中国地方から引き返してきた秀吉軍と戦い、敗北(山崎の戦い)
  逃げる途中に襲われて死亡(11日間の天下であるが三日天下と呼ばれる)

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増田屋平磯店でのランチ on 2020-3-4

2020年03月08日 06時26分19秒 | 神戸情報

2020年3月4日、増田屋平磯店でランチをいただきましたので
写真紹介します。

最近は増田屋本店に行くことが多く平磯店へは久しぶりの訪問です。

増田屋 平磯店の基本情報
住所:神戸市垂水区平磯1-1-23 国道2号線沿いにあります。  
TEL:078-752-1111  料理ジャンル:寿司
営業時間:11:00~20:00 土、日、祝日は20:30まで
定休日:月曜日
お店のHP:http://www.sushi-masudaya.jp/

増田屋平磯店のGoo地図は下記のブログで掲載しています。

 増田屋平磯店でのランチ on 2015-5-26

上の写真は奥様が注文した平磯御膳 1,500円(税別)

私も分けていただきました。

久しぶりの平磯御膳です。美味しく頂きました。

上の写真は私が注文した ランチにぎりA 800円(税別)

上の写真はお昼のお得な定食メニューです。

 

参考のため2月17日に増田屋本店でいただいた天ぷら定食1,200円(税別)と

ランチにぎりAの写真を添付しておきます。

 

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和食 「さと 須磨店」でのランチ on 2020-2-26

2020年03月07日 04時08分33秒 | 神戸情報

和食 さと須磨店は普段よりよく行く店の一つです。
2020年2月26日に頂いたランチを写真紹介します。
今回は今までに注文したことのないメニュー(牛カレーうどん)を選択しました
のでブログ記事を書きました。


和食 さと 須磨店の基本情報
住所:神戸市須磨区多井畑字池ノ奥上12-8  TEL:078-743-3221
営業時間:11:00~24:30  定休日:なし(年中無休)
公式サイト:http://sato-res.com/sato/

上の2枚の写真は私が初めて注文した牛カレーうどん 877円(税込)の中・近景

上の写真は牛カレーうどんが掲載のメニュー表

上の写真は奥様がいつもよく注文するなごみ弁当(華ちらし)877円(税込)

上の写真はなごみ弁当が掲載のメニュー表

 

 

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別所長治公・照子夫人供養塔 in 三木市箕谷墓地 on 2020-2-2

2020年03月06日 05時38分25秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月2日、三木市の箕谷墓地(本町3丁目14-4)で別所長治公・照子夫人

供養塔の写真を撮りましたので紹介します。

2020年2月2日は蓮花寺の鬼踊りを観るために三木市に出かけていました。

鬼踊りについては下記ブログを作成済

 三木市 蓮花寺の鬼踊り on 2020-2-2

上の2枚の写真は別所長治公・照子夫人供養塔 正面と裏側より撮影

昭和16年(1941)に建立されたことが背面の刻字で判りますが建立者は不明

正面の基礎に刻字された銘文(上の写真)には次のように書かれています。

為別所小 三郎長治 公竝室照 子共供養

上の写真は供養塔のある場所から撮った箕谷墓地の遠景

 

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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その1 坂本城本丸跡

2020年03月05日 04時35分05秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。

これからシリーズで書いていこうと思っています。

本日はその初回で坂本城本丸跡を紹介します。坂本へは今回で3回目の訪問です。

坂本城の歴史

坂本城は元亀2年(1571)比叡山の焼き討ちのあと、織田信長に命じられて明智光秀

が建てた城です。光秀は比叡山焼き討ちの功労として近江国滋賀郡が与えられた。

坂本城は天正8年(1580)に改築されたが天正10年(1582)の本能寺の変の後、

炎上したが、同年に丹羽長秀が羽柴秀吉の命により坂本城は再建された。

天正11年(1583)杉原家次が城主となり、同年浅野長政(長吉)が城主となった。

天正14年(1586)浅野長政が棄城し、大津城に移転するまで存在した。

 参考ブログ:大津城跡訪問記(2017-10-10&10-11)

 

坂本城本丸跡の碑

現在、国道161号(高島-大津線)の沿道、キーエンスの研修所の門の脇には大津市

教育委員会により建てられた坂本城本丸跡の碑文が建っています。(上の写真)

キーエンス研修所の住所は大津市下阪本3丁目2-20

Goo地図を添付しておきます。

 

坂本城本丸跡の碑文

上の写真が坂本城本丸跡の碑です。

読み難いので碑文を書いておきます。

坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、

明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。

天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査で

はじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。

                     大津市教育委員会

 

坂本城の縄張り

上の写真は坂本城跡公園に掲示の坂本城跡

 

坂本城跡公園の掲示資料

 

Wikipediaより坂本城の本丸天守に関する解説を引用添付しておきます。

元亀3年(1572年)12月22日の吉田兼見の記述によると、「明智見廻の為、坂本に下向、
杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了」(『兼見卿記』)
とされていることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌12月頃には天守がかなり
進捗していたと思われている。短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が伺い知れる。
また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』にも、 
 フロイスの日本史(坂本城の記述部分ではない)
「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの
大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって
豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは
天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想では
あるが、名城安土城と並び称される建物として意識されていた。 

 

NHK BS3番組より

 2019年12月28日 NHK BS3 21:00~22:00で放送の下記番組で坂本城が紹介

 されていました。判り易い解説でしたので一部を写真紹介します。

 絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「明智光秀の城」

 【解説】千田嘉博,小和田哲男

 

上の写真は坂本城の推定復元図

上の2枚の写真は渇水時の石垣と石垣の場所を示したもの

上の3枚の写真は平成6年(1994)の発掘調査で34mに亘り石垣を確認できたこと

石垣の下に胴木が敷かれていたことを示したもの。

解説で坂本の門前町で培った石垣を積む技術が穴太衆と呼ばれる技術集団の間

で集積されており、それが城の石垣建設に活かされた。

上の写真は発掘調査で出土した鬼瓦と軒瓦 本丸で使用されていた。

番組では千田教授と元大津市歴史博物館副館長の吉水眞彦さんが解説されました。

上の3枚の写真は舟入の痕跡と位置を示したもの

番組からではありませんが坂本城周辺の城の築城時期を示した図を添付します。

下の写真 出典:外川淳 著「明智光秀の生涯」Page97(2019) 

安土城に先立ち坂本城が建設されており、安土城は坂本城を参考にしたと考えられます

権威の象徴として見せる城という意味で安土城と坂本城は共通点があります。

 

関連ブログ:安土城訪問記(2019-3-20)

https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/e3f8da95104db545e4495e705caf8c0b

 

2020年3月8日以降こちらの本丸跡が来年の2月7日までキーエンスの協力で

一般公開されるそうです。(下記サイトに関連情報を入手できます)

 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200308-00010000-bbcbiwakov-l25

 

 

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三木市 黒田金物店(黒田清右衛門商店)住宅 on 2020-2-2 

2020年03月04日 09時19分47秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月2日、三木市の蓮花寺で鬼踊りを観るために当地に来ていました。

鬼踊りについては下記ブログを作成済

 三木市 蓮花寺の鬼踊り on 2020-2-2

 

その際、表題の黒田清右衛門商店の住宅の写真を撮りましたので紹介します。

黒田清右衛門商店は三木市で最古の金物問屋でその建物群(11件)は昨年(2019年)

12月5日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。

尚、三木市の国の登録有形文化財になっているのは下記の4か所、21件です。

小河家住宅(11件) 紹介ブログ:https://seiyo39.exblog.jp/20029371/

玉置家住宅(6件) 紹介ブログ:https://seiyo39.exblog.jp/20039378/

三寿ゞ刃物製作所(2件) HP:https://www.3suzu.com/

旅亭文市楼(2件)三木市立みき歴史資料館のサイト:

       https://www.city.miki.lg.jp/site/mikirekishishiryokan/4107.html

 

前置きが長くなりましたが黒田金物店の写真を添付します。

上の写真は黒田金物店(黒田清右衛門商店)の遠景です。

江戸時代の末期の建設で店舗兼母屋や蔵が続く。建築面積は182㎡。

黒田清右衛門商店は明和2年(1765)に創業し250年以上の歴史を誇っています。

上の写真は主屋兼店舗の中景と近景

黒田清右衛門商店は江戸時代より大坂や江戸との取引があり当時主力の前挽鋸

=大鋸(おが)はそれまで特産地であった京都のものを凌ぐほどになり

三木が全国的に金物の名産地になったことに貢献した。

7代目の黒田清右衛門は明治21年(1888)3歳で当主となり三木町の町長として

大正14年(1925)6月 - 昭和6年(1931)9月の約6年間、務めた。

昭和6年以降は県政に関わり県議会副議長も歴任した。

昭和34年(1959)には黄綬褒章を受章した。

以上は黒田清右衛門:県商23回生(明治38年卒)のサイトを参照

 

少し話題が変わりますが上の2枚の写真は沢田伸さんが描いた黒田金物店の

スケッチです。(2008年の作)

2020年1月29日に兵庫県立歴史博物館の特別企画展で展示されていたものです。

上述の企画展のリーフレットと沢田伸さんの略歴を添付して筆をおきます。

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