3月28日の夕刻、渡嘉敷島の阿波連から船をチャーターして座間味島へ渡る。
翌29日は旧暦の3月3日、この日はハマウリ(浜下り)といって、人々は先祖のお墓や海岸で重箱を広げ、海に向かって健康と地域の安全を祈願する。
座間味でも、港の横の大きな鯨の人形に、いっぱいの花が飾られ、午後には、大漁旗を立てた漁船などの海上パレード・ナガリブニ(「流れ舟」)が行なわれた。
今はのどかな座間味の島だが、ここも、1945年3月26日、米軍が上陸、18ヶ所で住民177人が「集団自決」に追い込まれた。
大江岩波裁判の原告の一人、梅沢裕氏は、当時、この島の第一戦隊長だった。裁判は、住民の「集団自決」が、彼の命令によるものかどうかということを最大の争点として争われている。
この裁判と、その後の教科書検定問題をきっかけとして、それまで口をつぐんでいた多くの人たちが当時の経験を語り始めた。
今回は、「集団自決」の場から奇跡的に助かった住民4名の証言を聞き、宮里芳和さんに「集団自決」の現場など、島の戦跡を案内していただいた。
1945年3月25日の夜、忠魂碑前に集合という「軍命」が伝えられた。しかし、砲撃が激しいため人々は産業組合壕などに逃げ帰り、そこで「集団自決」に追い込まれた。
この忠魂碑は、紀元2600年(昭和15年)、村の聖地に墓碑をつくることは神様を冒涜するというお年寄りたちの反対を押しきり、マカーの杜の一角に建てられた。
碑の台座には、1945年3月当時の砲撃の跡が大きく残っている。
産業組合壕では、兵事主任・宮里盛秀さんをはじめ村の幹部とその家族67名が亡くなった。生存者は一人もいない。
説明していただいているのは、今日のガイド役・宮里芳和さん。宮里盛秀さんのおじさんの孫にあたる人だ。戦後生まれだが、当時の歴史を丹念に掘り起こし、平和ガイドなどをされている。
「平和の塔」には、座間味村出身兵士の死者・677名、島で死んだ他府県出身の兵士・404人、「集団自決」した島の住民・187名の名前が刻銘されている。
島の北にあるトゥルーガマには、島民150名が避難していた。全員が投降したのは、4月17日だったという。
チシ展望台から。
山の裏手にあるヌンドゥールガマには、300名以上の島民が避難していた。手前下の山では、戦後1年7ケ月もたってから、砂川勝美さんと高橋文雄さんの2人が投降した。「沖縄戦最後の投降者」と言われる。
展望台からの山手では、1945年6月11日、梅沢隊長が投降した。なんと、彼は、側近の兵士もおらず、専属の「慰安婦」と2人で投降したという。
高月山北の整備中隊の壕。ここでは、「集団自決」で、3家族16人が亡くなり、唯一、14歳の子どもだけが生き残った。
今回、お話しを聞かせていただいた方々。
(右から)
・山城功さん
宮里盛秀さんの家族で唯一生き残った二女・山城美枝子さんのお連れ合い。 整備中隊の壕で「集団自決」の現場を目撃されている。この方も、以前は戦争の話はできなかったというが、今度の教科書問題が起こって、はじめて話さ れるようになったという。
・宮平春子さん(宮里盛秀さんの妹さん)
産業組合壕に入りかけたが、盛秀さんに言われて下の壕に移り、「集団自決」を免れた。「死にたくない、死にたくないと思っていた。」と何度も繰り返された。
・吉田春子さん
日本兵に殺されかけた経験を持たれている。母親から、「あんたはけっして人の先に死ぬんじゃないよ。」と言われたことで、生き抜くことができたと話された。
・高江トシコさん
ヌングールガマに潜んでいた。
午後4時すぎから船のパレード・「流れ舟」(ナガリブニ)が始まった。旧暦3月3日の伝統行事という。
我々はちょうど船で座間味を離れるときだったが、この後、船団が港に入るときは、太鼓や三線を鳴らし、桟橋に集まった人たちとカチャーシーで盛り上がったという。
翌29日は旧暦の3月3日、この日はハマウリ(浜下り)といって、人々は先祖のお墓や海岸で重箱を広げ、海に向かって健康と地域の安全を祈願する。
座間味でも、港の横の大きな鯨の人形に、いっぱいの花が飾られ、午後には、大漁旗を立てた漁船などの海上パレード・ナガリブニ(「流れ舟」)が行なわれた。
今はのどかな座間味の島だが、ここも、1945年3月26日、米軍が上陸、18ヶ所で住民177人が「集団自決」に追い込まれた。
大江岩波裁判の原告の一人、梅沢裕氏は、当時、この島の第一戦隊長だった。裁判は、住民の「集団自決」が、彼の命令によるものかどうかということを最大の争点として争われている。
この裁判と、その後の教科書検定問題をきっかけとして、それまで口をつぐんでいた多くの人たちが当時の経験を語り始めた。
今回は、「集団自決」の場から奇跡的に助かった住民4名の証言を聞き、宮里芳和さんに「集団自決」の現場など、島の戦跡を案内していただいた。
1945年3月25日の夜、忠魂碑前に集合という「軍命」が伝えられた。しかし、砲撃が激しいため人々は産業組合壕などに逃げ帰り、そこで「集団自決」に追い込まれた。
この忠魂碑は、紀元2600年(昭和15年)、村の聖地に墓碑をつくることは神様を冒涜するというお年寄りたちの反対を押しきり、マカーの杜の一角に建てられた。
碑の台座には、1945年3月当時の砲撃の跡が大きく残っている。
産業組合壕では、兵事主任・宮里盛秀さんをはじめ村の幹部とその家族67名が亡くなった。生存者は一人もいない。
説明していただいているのは、今日のガイド役・宮里芳和さん。宮里盛秀さんのおじさんの孫にあたる人だ。戦後生まれだが、当時の歴史を丹念に掘り起こし、平和ガイドなどをされている。
「平和の塔」には、座間味村出身兵士の死者・677名、島で死んだ他府県出身の兵士・404人、「集団自決」した島の住民・187名の名前が刻銘されている。
島の北にあるトゥルーガマには、島民150名が避難していた。全員が投降したのは、4月17日だったという。
チシ展望台から。
山の裏手にあるヌンドゥールガマには、300名以上の島民が避難していた。手前下の山では、戦後1年7ケ月もたってから、砂川勝美さんと高橋文雄さんの2人が投降した。「沖縄戦最後の投降者」と言われる。
展望台からの山手では、1945年6月11日、梅沢隊長が投降した。なんと、彼は、側近の兵士もおらず、専属の「慰安婦」と2人で投降したという。
高月山北の整備中隊の壕。ここでは、「集団自決」で、3家族16人が亡くなり、唯一、14歳の子どもだけが生き残った。
今回、お話しを聞かせていただいた方々。
(右から)
・山城功さん
宮里盛秀さんの家族で唯一生き残った二女・山城美枝子さんのお連れ合い。 整備中隊の壕で「集団自決」の現場を目撃されている。この方も、以前は戦争の話はできなかったというが、今度の教科書問題が起こって、はじめて話さ れるようになったという。
・宮平春子さん(宮里盛秀さんの妹さん)
産業組合壕に入りかけたが、盛秀さんに言われて下の壕に移り、「集団自決」を免れた。「死にたくない、死にたくないと思っていた。」と何度も繰り返された。
・吉田春子さん
日本兵に殺されかけた経験を持たれている。母親から、「あんたはけっして人の先に死ぬんじゃないよ。」と言われたことで、生き抜くことができたと話された。
・高江トシコさん
ヌングールガマに潜んでいた。
午後4時すぎから船のパレード・「流れ舟」(ナガリブニ)が始まった。旧暦3月3日の伝統行事という。
我々はちょうど船で座間味を離れるときだったが、この後、船団が港に入るときは、太鼓や三線を鳴らし、桟橋に集まった人たちとカチャーシーで盛り上がったという。