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(外地(ふかじ)島の展望台から望む慶良間の海。この季節、鯨がよく現れるという。
65年前の3月、この真っ青な海を米軍の艦船が埋め尽くしたのだ。)
今日は、風も収まり、穏やかな日和になった。1フィート運動の会のメンバーらは、午前の高速船で那覇に戻ったので、私は、一人、昨日行くことができなかった慶留間島を訪ねた。
1945年3月26日、米軍は、慶留間島にも、戦車20台余と兵士200人で上陸した。米軍の上陸後ほどなく、島民たちは、山中の壕などで「集団自決」に追い込まれた。紐でお互いの首を絞めたり、木の枝で首をつるなどして、100人ほどの島民のうち、53人が亡くなったという。
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(第1中隊特攻艇壕)
阿嘉島から長い橋を渡って慶良間島に入ると、すぐに陸軍特攻艇「マルレ」の秘匿壕がある。阿嘉、慶留間に配備されたマルレのうち、唯一出撃できたと言われるのが、この第1中隊だったというが、真偽のほどは分からない。
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慶留間の集落に入ると、すぐ左手に「伊江村民 収容跡地記念碑」がある。
伊江島を占領した米軍は、村民を慶良間諸島に強制移住させた。1945年5月から約1年間、渡嘉敷島に約1700名、座間味村にも約400名が収容されたという。
(渡嘉敷島では、米軍の命令で投降勧告に行った伊江島の若い男女ら6人が、日本軍によって「米軍のスパイ」として虐殺されている。)
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集落から少し丘を登っていくと、「小鳩の塔」がある。島で集団死に追い込まれた53人のうち13名が児童だった。この塔は、その13名と、南洋で亡くなった児童22名の慰霊碑だ。
海に向かって建てられた小さな塔の上部には、鳩を抱いた子どもの姿が描かれている。
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慶留間の集落跡の塀には、今も、砲弾の破裂弾や銃弾の痕が、今も生々しく残っている。この周辺から上陸した米兵の銃撃によるものと思われる。
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慶良間島には、国の重要文化財・高良家住宅がある。琉球王朝時代に公用船の船頭職を務めた仲村梁親雲(なかんだかりペーチン)が、19世紀後半に建てたものという。
沖縄戦で米軍上陸の地となり、艦砲射撃や銃弾なども浴びたが、火災を免れ、奇跡的にその姿を残した貴重な建物だ。
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(柱には、銃撃の跡がそのまま残っている。)
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(豚舎と便所を兼ねたウヮーフル)
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(中村武次郎さんと、奥さんの静子さん。)
この日、高良家を尋ねたのは、管理人の中村武次郎さんにお会いするためだった。
武次郎さんは、慶留間の「集団自決」の唯一の生き残りの方だ。
武次郎さんは当時14歳。米軍上陸後、母親、姉らと山の壕で、「自決」を試みた。
3人が1本のひもを首に巻きつけて繋がり、両端の2人がひもを引いた。真ん中にいた姉の清子さんが死んでしまったが、お母さんと武次郎さんは、どうしても死ねなかったという。
その直後、米兵らが島の青年と壕に現れ、武次郎さんらは救出された。そして、米兵らと一緒に近くの壕に入り、そこで20人ほどの島民が死んでいたのを目撃されている。
武次郎さんは、今も、高良家を訪れる観光客らに、三線を弾き、民謡を唄った後、自らが体験した沖縄戦のこと、集団死の話をされている。
この日、あいにく武次郎さんは外出中だったが、奥さんの静子さん(82歳)がおられた。静子さんは阿嘉島の出身。山中での飢餓の生活を体験されている。
もう耳が遠く、十分にお話を聞くことはできなかったが、当時の話をポツリ、ポツリとされた。
「朝鮮の人に穴を掘らせて埋めたのを覚えている。忘れられない。」、「今でも死んだ人の顔を思い出す。本当にかわいそうだ。」
しばらくして武次郎さんが戻ってこられた。あれだけの悲惨な体験をされのだが、実に優しく温厚な方だ。今日は、また、用があると言ってでかけられたが、もう一度、出直してゆっくりと当時の話しをお聞きしたいと思っている。
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慶留間島から橋を渡って下地島にも行った。橋のたもとに、「米軍第77師団が、日本国土で初めて、琉球諸島下地島にアメリカ国旗を掲揚」と書かれた碑がある。