今日は大きな列車事故があった。今後事故原因の究明と責任の追及がなされる事だろう。
今日のニュースで、もう一つを挙げたい。標題の、
『訃報 小林ハルさん105歳=瞽女唄の最後の伝承者』 である。
以下引用
『瞽女唄(ごぜうた)の最後の伝承者、小林ハル(こばやし・はる)さんが25日、老衰のため亡くなった。105歳だった。葬儀は28日午前10時、新潟県荒川町坂町1750の1のベルホール会津屋荒川。葬儀委員長は高澤正樹愛光会理事長。自宅は同県黒川村熱田坂881の86の特別養護老人ホーム「愛光会第二胎内やすらぎの家」。
1900(明治33)年、新潟県井栗村(現三条市)の農家に生まれた。白内障のため生後約100日で両目を失明し、5歳で瞽女の師匠に入門。自立のため三味線と瞽女唄の厳しい訓練を受けた。9歳から師匠らと旅に出るようになり、新潟県下越地方をはじめ、福島、山形両県などを巡り、芸で糧を得た。
26歳で弟子を取ることが認められて独立。73歳で老人ホームに入所するまで、各地で瞽女唄を歌い続けた。目が不自由なために迫害を受けたり、養女を亡くしたりするなど苦難を味わった。77歳で「やすらぎの家」に入所した時、「今が一番幸せ」と周囲に語ったという。
78年、瞽女唄の伝承者として、国から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に認定され、翌年には黄綬褒章を受章した。新潟県新発田市教委の面接調査によれば、96歳の時点で500曲近い瞽女唄を覚えていた。02年ごろから、胸の痛みを訴えて入退院を繰り返していた。【柴田真理子】
(毎日新聞) - 4月25日17時59分更新』 引用終わり
また、越後瞽女に関する書籍目録は、
《越後瞽女関係資料のご案内》 に詳しい。
何故にとりあげたかというと、各地に伝承風俗がある。イタコの口寄せや遠野物語の民話語り、
三味線語り等、人々の口伝てで語り継がれたものがあるとするなら、出身の新潟では「越後瞽女」による
瞽女唄がそれに当たるのではないだろうか。
その最後の伝承者が亡くなったということに、一つの連綿と語り継がれた伝承文学の終焉を見る思いだ。
斎藤真一 『越後瞽女日記』
河出書房新社 1975 384.3N/Sa25 500348
著者は画家 ジプシーの放浪や津軽三味線に魅かれるうちに高田瞽女を知る。越後一帯の多くの瞽女の遍歴した足跡を記録し、それにもとづいて瞽女の心象の世界を描きつづけ、独自の画境を生む。
大山真人 『高田瞽女最後』
音楽之友社 1983 384.38/O95 216888
本書で高田瞽女三部作が完成 高田瞽女杉本キクエの死まで17年余り続く、取材を超えた交流による評伝
上記の2冊を所有している。
ただ、私は目の前で瞽女唄を聞いた事はない。兄は記憶にあるようなないような。(定かでない)
父母の時代は、ごく普通に来訪があって、近所の家に宿泊し瞽女唄を披露したらしい。
楽しみの少ない僻村であれば、そのような瞽女唄も心待ちにしていたのだろう。
斎藤真一の画集は、瞽女さんの様子を描くだけでなく、当時の雪深い、北国の寂しげな雰囲気を
表現してあまりある。私自身の幼少時の生活環境、風物、景色もあそこに描かれているような
ものであった、と思う。無性に懐かしく感じられるのだ。
谷内六郎の絵にも似た雰囲気があるが、北国ゆえのもっともっと重い感じに仕上がっている。
今、何故、どういういきさつで斎藤真一の画集を購入したのか思い出せない。
ただ、時期を同じくして父も同じ本を買ったような。きっと、瞽女が話題になったことが
あったのではなかろうかと推測する。昔は私の田舎にも来たものだ、ということも、そんな
折に聞いたのかも知れない。
今日のニュースで、もう一つを挙げたい。標題の、
『訃報 小林ハルさん105歳=瞽女唄の最後の伝承者』 である。
以下引用
『瞽女唄(ごぜうた)の最後の伝承者、小林ハル(こばやし・はる)さんが25日、老衰のため亡くなった。105歳だった。葬儀は28日午前10時、新潟県荒川町坂町1750の1のベルホール会津屋荒川。葬儀委員長は高澤正樹愛光会理事長。自宅は同県黒川村熱田坂881の86の特別養護老人ホーム「愛光会第二胎内やすらぎの家」。
1900(明治33)年、新潟県井栗村(現三条市)の農家に生まれた。白内障のため生後約100日で両目を失明し、5歳で瞽女の師匠に入門。自立のため三味線と瞽女唄の厳しい訓練を受けた。9歳から師匠らと旅に出るようになり、新潟県下越地方をはじめ、福島、山形両県などを巡り、芸で糧を得た。
26歳で弟子を取ることが認められて独立。73歳で老人ホームに入所するまで、各地で瞽女唄を歌い続けた。目が不自由なために迫害を受けたり、養女を亡くしたりするなど苦難を味わった。77歳で「やすらぎの家」に入所した時、「今が一番幸せ」と周囲に語ったという。
78年、瞽女唄の伝承者として、国から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に認定され、翌年には黄綬褒章を受章した。新潟県新発田市教委の面接調査によれば、96歳の時点で500曲近い瞽女唄を覚えていた。02年ごろから、胸の痛みを訴えて入退院を繰り返していた。【柴田真理子】
(毎日新聞) - 4月25日17時59分更新』 引用終わり
また、越後瞽女に関する書籍目録は、
《越後瞽女関係資料のご案内》 に詳しい。
何故にとりあげたかというと、各地に伝承風俗がある。イタコの口寄せや遠野物語の民話語り、
三味線語り等、人々の口伝てで語り継がれたものがあるとするなら、出身の新潟では「越後瞽女」による
瞽女唄がそれに当たるのではないだろうか。
その最後の伝承者が亡くなったということに、一つの連綿と語り継がれた伝承文学の終焉を見る思いだ。
斎藤真一 『越後瞽女日記』
河出書房新社 1975 384.3N/Sa25 500348
著者は画家 ジプシーの放浪や津軽三味線に魅かれるうちに高田瞽女を知る。越後一帯の多くの瞽女の遍歴した足跡を記録し、それにもとづいて瞽女の心象の世界を描きつづけ、独自の画境を生む。
大山真人 『高田瞽女最後』
音楽之友社 1983 384.38/O95 216888
本書で高田瞽女三部作が完成 高田瞽女杉本キクエの死まで17年余り続く、取材を超えた交流による評伝
上記の2冊を所有している。
ただ、私は目の前で瞽女唄を聞いた事はない。兄は記憶にあるようなないような。(定かでない)
父母の時代は、ごく普通に来訪があって、近所の家に宿泊し瞽女唄を披露したらしい。
楽しみの少ない僻村であれば、そのような瞽女唄も心待ちにしていたのだろう。
斎藤真一の画集は、瞽女さんの様子を描くだけでなく、当時の雪深い、北国の寂しげな雰囲気を
表現してあまりある。私自身の幼少時の生活環境、風物、景色もあそこに描かれているような
ものであった、と思う。無性に懐かしく感じられるのだ。
谷内六郎の絵にも似た雰囲気があるが、北国ゆえのもっともっと重い感じに仕上がっている。
今、何故、どういういきさつで斎藤真一の画集を購入したのか思い出せない。
ただ、時期を同じくして父も同じ本を買ったような。きっと、瞽女が話題になったことが
あったのではなかろうかと推測する。昔は私の田舎にも来たものだ、ということも、そんな
折に聞いたのかも知れない。
古い文化(芸能)が、こうして消えてゆくのは悲しいことですね。
情報通信技術の進展した現在では電子的な記録を
残し大量に頒布できる時代だけに、
実際その場で聞けるというのは貴重ですね。
美術館は機会があれば行ってみたいですね。