シバグリが実り、地面につややかな実を落とし始めた。子供のころの郷愁か、大切な食料としての木の実を拾い集めていた古代収集民族に刻み込まれたDNAか、つややかな木の実が落ちていると、食べもしないのについつい拾ってしまうのは不思議だ。(庭にて)
エゾリンドウが秋の透明な風に吹かれ、ゆれている。山を訪れた人達にこれほど秋を強く感じさせる花も少ない。オヤマリンドウに似ているがエゾリンドウは頂部のみならず下の葉脇にも花をつけるので区別できる。(一切経、鎌沼にて)
早春のころの若芽は食べられる。名前のゴマナからして美味しそうである。今、人間の背丈あまりに成長した姿からは到底、想像できないけれど。頂部に小さな頭花を散房状に多数つけ、華やかで人目を引くが、その名前を知る人は以外に少ない。(秋元湖湖畔の小道にて)
今年初めての小川の掃除。小枝や落ち葉を除いていると石の影からザリガニが。ニホンザリガニか?と撮影。ニホンザリガニはいまや北海道及び東北北部のみ生息。モニターでよく見れば悲しいかな、アメリカザリガニ。甲府沼にブラックバスと一緒に違法放流されたものであろう。泉の甲府沼に存在するはずがない生物なのだ。(庭の小川にて)
すばらしい秋晴れ。明るい草原を何頭ものモンキチョウが蜜を求めて元気よく飛び回っている。アカツメクサの蜜を吸うモンキチョウ、風の強い小雨の昨日はいったいどこに隠れていたのだろうか。(秋元湖堰堤の草原にて)
暗い林のふちに突き出た枝先にぶら下がる赤い実。思わず眼が吸い寄せられる。野鳥たちのも同じであろうか。ツリバナの巧みなプレゼンテーション。結果、ツリバナの思惑通り種は野鳥たちに食べられ、遠くに運ばれるのであろう。(秋元湖湖畔の小道にて)
人間の背丈をも越える雪国に生育する大アザミ。カーティスクリークの庭にもススキに混じってたくさん生えている。が、無骨でかわいげなく、常に無視されつずけていた存在であった。今回こうして近付いて観察すると、いままでなぜこの無骨の中に存在する美しさに気が付かなかったのだろうかと不思議である。(庭にて)
雨の予報の午後、幸運にも青空が広がる。草原には少ない秋の花の蜜を求めてベニシジミが元気よく飛び回っている。今にも雨が降りそうだった空が急に回復し、人間のみならず昆虫たちも大喜び。見慣れたベニシジミもいつもより美しく輝いて見える。(秋元村道付近の草原にて)
今にも雨の降りそうな暗い小川沿いの湿った草地では今、ミゾソバの花盛り。別名、牛の額。それは葉の形からきたものだ。ピンクの花は金平糖を連想させ、とてもかわいらしい。野の片隅でひっそり咲く、人々に話題にもされないこうした野草も近寄ってみると、なんといとおしいものであろうか。(庭にて)
ススキの原を力なく飛ぶ一頭の蝶。やがてススキの穂にとまる。見ればメスグロヒョウモンのメスである。その羽はぼろぼろ。まもなく彼女に訪れる死。ススキの原、死に行く蝶。なんとも物悲しく痛々しい秋の風景。(秋元湖付近のススキの原にて)
磐梯山噴火の泥流跡地は栄養分の少ない植物にとって厳しいところ。そんな荒地に多いのは根に共生菌を持つ赤松、ヤマハンノキ、ヤシャブシなどの植物である。アキグミもそのひとつ。共生菌から窒素の供給を受け、厳しい環境の中で実を実らせている。(庭にて)
モンシロチョウと並んで普通に見られる蝶。南米とオーストラリアを除き生息し、最も広く世界的に分布いている蝶といわれている。珍しくはないが、よく見るとオレンジ色と黒のコントラストがとても美しい蝶である。(庭にて)
庭のあちこちにニシキギがあるが草刈機でいつも刈り取られてしまうかわいそうな存在。それでも消え去ることもなく、どこからかまた生えてくる強い生命力の持ち主。美しい紅葉で知られているニシキギ、私にはマゼンタ色の紅葉がなぜか落ち着かず、好きになれない。(庭先にて)
北アメリカ原産の植物をもとにヨーロッパで作り出された園芸種。明治(1870年)に渡来し、野生化したものが急激に分布を広げた。気温の下がるこの時期、日中でも花がしぼむことはない。(14時撮影)明日は十五夜、ススキや月見草を飾り、中秋の名月を楽しんだらいかがだろうか。
カンボク、肝木という不思議な字を当てるがどういう意味があるのかまったく不明。初夏、アジサイに似た白い大きな飾り花の美しい花を咲かせる。実は野鳥にとってもまずいらしく最後まで残る。3月の雪深い庭の細いカンボクの枝に大きな山鳥が登って実を必死でむさぼっているのを目撃し、驚いたことがある。よほど空腹だったのであろう。(庭先にて)