吹雪の朝、朝のルーチン、野鳥の餌やり、そして急拵え、脆弱な温室の屋根の除雪。
こんな朝の野鳥たちは殺気立っている。雪を漕いで2回はヒマワリの種を補給しなければならない。
扶養義務のある家長は大変である。数日雪の日が続くだろう。
日中最高気温-6°cの真冬日、厳しい寒さ。
昨日は続く雪の日を予測して無理して町に下ったが、帰宅時のR49は視界を奪うほどの吹雪、
外出を後悔、家にじっとしていればいいものを・・・
が、なんとか無事帰宅。
吹雪の朝、朝のルーチン、野鳥の餌やり、そして急拵え、脆弱な温室の屋根の除雪。
こんな朝の野鳥たちは殺気立っている。雪を漕いで2回はヒマワリの種を補給しなければならない。
扶養義務のある家長は大変である。数日雪の日が続くだろう。
日中最高気温-6°cの真冬日、厳しい寒さ。
昨日は続く雪の日を予測して無理して町に下ったが、帰宅時のR49は視界を奪うほどの吹雪、
外出を後悔、家にじっとしていればいいものを・・・
が、なんとか無事帰宅。
今年も何事もなくクリスマスイブの楽しい食事を楽しんでいる。なんと幸せなことだろうか。
薪ストーブの前、暖かい、いや暑いほど。外は雪の-何度かの極寒世界、だのに・・・
美味しいオードブル、M氏からいただいたフォアグラのテリーヌ、K氏、北海道のスモークサーモン、ああ、辛口のカバー、
そして極上の年代物のメドック、正に言うことなし。美味しい料理のせいか珍しく飲むペースが早い妻。早くもにダウン・・・
さてと、締めのハードリカーはなににしようか?シングルモルトウイスキー?マール?コニャック?グラッパ?それともメタクサ?
酒棚を眺める、ふと急に思い出すこと・・・
ああ、まさに世界の銘酒を網羅した革表紙、スピカボンドに印刷された分厚いメニュー、
並木通りとみゆき通りの交差点近くに存在した居酒屋Uncle Tavern、
時期尚早だった、昭和40年代初め、あの居酒屋のコンセプトは当時の日本、近くのかのクラブ、
擬似恋愛を求める流行作家、成金の集うクラブ姫全盛の時代には受け入れられ難かったのだろう。
未成熟だった日本、知的レベル幼稚だった日本ではさりげない豪華さ、贅沢さ、成熟した大人の空間など到底理解されなかった。
とても残念なことだ。
出店に奔走した日本を代表するグラフィックデザイナー、仲條正義氏、いまもご活躍だろうか?
居酒屋探訪で有名なすぐ近く、S化粧品宣伝部だった同じくグラフィックデザイナー太田和彦氏、
Uncle Tavernの存在をご存知だったのだろうか・・・
結局今日の締めはブラー、カルバドス。
駐車場及東側、寝室側の除雪。12月に寝室側を除雪するのは近年記憶にない。
雪が多い今年の冬、お手柔らかに、と願いたい気持ちだ。
狭い場所、積雪2m近い落雪した硬い雪、除雪は前進、後退繰り返しの困難、危険を伴う辛い作業。
窓の視界、FFストーブの排気を確保するため数回しなければならない必須作業。
気温高く、厚着しすぎたか汗を大量にかく。
昨日は秋元湖に久しぶりの散歩、新雪にトレースなく、見わたす森閑、雄大な風景に満足する。
青空のぞく上天気、だが除雪作業に心底疲れた今日は散歩する気力もない。
今日も一日雪が降ったり止んだり。一日音楽を聴いて暖かい部屋で安逸に過ごす。
昨日は孫たちのクリスマスプレゼントを買いに山形の倉庫スーパーに行った。
毎年この時期、プレゼントの品選びに苦戦している妻。
今年は前に見た倉庫スーパーのプレセピオを贈ることに決めたという。
そこで雪降る山の峠、トンネルを抜け、長距離ものともせず、スノードライブ。
イタリアのクリスマスにはツリーよりもプレセピオが一般的。
クリスマスシーズン、イタリアの各地の教会で観たプレセピオ、特にサン・ピエトロ広場で観た巨大なそれは強く印象に残るものであった。
だが、それはジジ、ババの独りよがり、果たして孫たちはひな祭りの雛のように綺麗に飾って楽しんでくれるだろうか・・・
ダイニングルームの窓が落雪で塞がれてしまった。この時期にしては雪がとても多い。
雪はいらない、雪を忌々しく思う、そんな今の自分が悲しい。
雪が降り始めるとウキウキしていた初心の自分はどこに行った・・・
半日費やして駐車場、家周りの除雪を行う。
1991年暮れ、カーティスクリークはオープンした。26年の歴史とともにこの除雪機はここにある。
なれない初めての操作、誤ってダイニングルームのガラス戸を突き破ってしまった苦い思い出も今では遠い甘美な記憶になってしまった。
この除雪機無しの裏磐梯の冬の生活は考えられない。感謝を忘れ、ディーゼルエンジンの騒音と黒煙に文句など言えないのであるが・・・
冬の生活でなくてはならないもう一つのもの、それは24時間燃え続ける薪ストーブ。
外作業で冷え切った体を温め、そして雪で湿ったスノーブーツ、オーバーズボン、手袋、マフラー・・・
それらを直ちにカラっと乾燥させてくれる。
大雪警報が出ていた会津地方、今朝カーテンを開けば全くの杞憂、ホッとするやら気が抜けるやら。
昨日は用事があり、車を村道に出すため、除雪に一時間を要した。
日中の気温も-4°cの真冬日、明日も除雪機の排気ガスを吸う覚悟をしていたが・・・
大雪の峠はすぎた。だが気温は相変わらず低い。昼の気温-3°c、今日も真冬日。
数日前、ハードディスクに録画した雲ノ平という番組を観た。
それはほとんど埋もれ、忘れてしまった遠い記憶、懐かしい青春の想い出、その時の感動を再び苦しいほど鮮明に蘇らせた。
その雲ノ平の記録は古いアルバムに残されていた。
初めて雲ノ平を訪れたのは1964年7月13日(19歳、53年前ということか)
裏銀座縦走を目指したものの、幕営した三ッ岳で激しい嵐に襲われ、テントの支柱はへし折られ、飛ばされ、テントをかぶり、
濡れネズミ、寒さに歯の根も合わず、長い夜明けを待ち、命辛がら烏帽子小屋に逃げ込んだ。
晴天の翌日、支柱の無事だった一張りを持ち、雲ノ平へ。嗚呼、その時の感動は・・・最早言葉にすることができない。
2度目は翌年1965年、立山から奥穂高縦走の時。
長期の体力消耗の激しい山旅の途中、雲ノ平の前年の感動喜びはなかった・・・
3度目は社会人になっての夏休み、記録はまるで無い。
1970年前後の7月、やはり激しい風雨の中、野口五郎の稜線をずぶ濡れになって歩いた記憶、
水晶岳の頂上を踏んだ記憶、美しい草花、池塘、雲の平小屋の記憶は蘇るも・・・
槍の頂を踏んで上高地に下ったはず、だがその記憶が不思議なほどない。
ああ、北アルプス最奥部雲ノ平、行ってみたい、思いは募るばかり。
残された時間わずか、体力を考えると実現は難しい。老人の悪あがき?だが是非トライしてみたい。
天気が良い。
無性に青い海が見たい、抑えきれずにいわきに車を走らせる。
逆光に黒く光る海、白く輝く美しき塩屋崎灯台に登り、渺茫と広がる太平洋を存分に眺める。
薄磯の白い砂浜の波打ち際を歩む。いつまでも、と思う。
久しぶりに白水阿弥陀堂に寄って帰りたいと妻が言う。6年ぶりの阿弥陀堂・・・
12月4日
五色沼の森を歩く。毘沙門沼を過ぎると森の中の小道に人影なし。
格別に美しい蒼き弁天沼、言葉を失う。
雪が深くならないうちに薪を運んでしまおう。
9時半、気温3°c、暖かい。力仕事をすると汗をかく。
40mほど離れた薪置き場から一輪車を使ってポーチに運ぶ。ソリを使った作業と比べ、ずっと楽な運搬作業。
2時間ほどでポーチに3列の薪が積まれた。これで2月いっぱい薪運びの重労働から解放される。
薪を置くスペースをポーチに大きくとってくれたこの家の設計者、建築士の木村真理子氏に感謝しなければならない。
24時間燃え続ける薪ストーブはダイニングルームを暖かく快適にするだけではない。
厳寒、休館の家を温め続け、使用しない部屋の水回りの凍結を防ぐ大切な役目を担っている。
妻が積み上げた薪は丁寧で綺麗、私の仕事と大違い。
この薪が燃やされ、なくなる頃、季節はだいぶ春めいていることだろう。
12月2日
4つの峠、トンネルを越え、抜け、一日ドライブそして買い物。
最後の土湯トンネルを抜けた頃には箕輪スキー場はたぞが時、夕日は山陰に沈み、磐梯山の上空の雲は見事な夕焼け。
車から下り、寒さに震えながら冬の暮れゆく風景をじっと眺める。