モーツァルトを愛する各界の著名人、宇野功芳、高木東六、饗庭孝男、辻井喬、
宮沢明子らのエッセー46編を収録した書籍『私のモーツァルト』(1989年に共同通信社から出版)
を例のごとく薪ストーブ前にどっかと座り『ピアノ協奏曲23番』を聴きながら読んでいる。
特別オーディオ評論家、菅野沖彦氏のモーツァルト論が非常に気に入った。
私が若い頃、オーディオにハマったのは彼の影響が非常に大きい(初めて買ったアンプTW61)
改めて彼のモーツァルト像が、想いが、私の思いとほぼ同じであるのに驚く。
『私はモーツ アルトの音楽がたしかに大好きだが、一方において、
たまらなく嫌な時、嫌いな曲 や部分があっり、気まぐれな転調についていけなかったり、
マイナーの押しつけがまし さと気取りに辟易させられることも決して少くない。
流れが不自然で、人為的 で、意識的な、無理な表現を感じる時なのである。
私の好きなモーツァルトの作品か らは、とても人間モーツァルトを想像することが困難なものばかり
ピアノ協 奏曲イ長調K488(特にその第二楽章)、変ロ長調K595クラリネット五重奏曲、
ディ ヴェルティメントニ長調K334、交響曲第41番「ジュピター」 K551、
「フィガロ の結婚」(第二幕のアリア "恋とはどんなものかしら")、
「魔笛」(第一幕のパパゲーノ のアリア "私は鳥刺し")など......。
これらの曲から、もし現世的な人間像を想像出来る人が いるとしたら、
本当に人間モーツァルトの素顔と合っていたとしたら私は脱 帽する。
モーツァルトも人間であるということを知らしめてくれる作品も私はいくつか知っている。
ピアノ協奏曲20番 ニ短調K466、同24番ハ短調K491 交響曲第40番ト短調K550
セレナード ト長調 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
これらは神の 賜物、つまり大天才の作品とは思い切れないのだ。
前には掲げなかったけれど、私の大好きな ピアノ・ソナタイ長調K331も、
その第一、第三楽章の無類の美しさと純粋さに比して、第 二楽章は大分落ちる。
もし、モーツァルトが、神に選ばれた真の天才で なかったとすれば、
その音楽の大きさと緻密さと周到さの上で、強力な表現力の上で、
明らか にベートーヴェンに一歩を譲っていたであろうことを、
これら人間臭の感じられるモーツァル トの諸作品が物語っているのではないか。
私が死んだ時にはなにもいらないから、イ長調協奏曲の第二楽章をかけて ほしいといっていた。
葬儀の時に、私は、リリー・クラウスのレコードをテープにダビングし て何度も何度も、
この楽章だけを流した。
レコードは妻と共に柩に入れて焼いた。また、偶然 にも、妻の死は、私が、
宮沢明子さんの演奏で、モーツァルトのピアノ・ソナタ全曲録音の最 中であった。
私のレコード制作の仕事の中で最も大きな仕事であっただけに、
この出来事はモ ーツァルトの音楽と共に、
生涯忘れることの出来ない思い出として焼きついてしまったのである。
私事を書いて申し訳けないが、「私のモーツァルト」として書く時、
どうしても書かざるを 得ない私の思い出である』
菅野沖彦氏著『私のモーツァルト、形式美の完成者』より抜粋
私は「人間モーツァルトを想像することが困難ほど美しい」
ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595も愛す。