学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

太田亮

2006-06-08 | その他
 『日本姓氏家系大辞典』の太田亮氏(1884~1956)については、来年1月1日から著作権が切れるので、これもテキストデータとして公開することを考えています。
 こういう本は電子化して自由に検索できるようにすると、書籍より遥かに便利ですね。
 ただ、内容的には古くなってしまっている部分もあるので、最新の情報を盛り込むことができないかと思っています。
 これも自分たちだけでやるのではなく、参加型の仕組みを作ってみたいですね。
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>「陸軍」の「某医学博士」

2006-06-08 | その他
>「陸軍」の「某医学博士」 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2006年 6月 8日(木)19時33分29秒

>kariさん
私も特別な知識は持ち合わせていませんが、たぶんそうなんでしょうね。
海軍では明治10年代に実際上解決されていた脚気の問題が、陸軍では軍医指導部の無能さのために二十年後の日露戦争の時期にも解決されないどころか、より深刻化して実に2万7800人の死者を出したというのですから、本当にひどい話ですね。
なお、鈴木梅太郎氏の文章も、自分がドイツから帰朝した明治39年以降に医学界で脚気の問題が起こったというような書き方をしていて若干変な感じがします。

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参考
「近代文学研究会のホームページ」
医学史の研究者によると日露戦争当時の陸軍軍医部の内情は次のようであった。医務局長であった小池正直は麦飯の脚気予防効果を認めていた。第1軍軍医部長であった谷口謙は開戦早々に麦飯を支給するよう意見書を提出していた。第2軍軍医部長であった鴎外のもとには部下の各師団の軍医部長から麦飯支給が進言されていた。実地の経験から軍医たちの間には麦飯の脚気予防効果が広く浸透していた。反麦飯論を採るのは軍医部の長老ですでに退役していた石黒忠悳と鴎外であった。当時はこの二人に東大医科大学長の青山胤通を加えた三人が強硬な反麦飯論者であった。日露戦争の犠牲者に関しては三人のうちの唯一人現役軍医だった鴎外の責任が重視されている。
http://www.mars.dti.ne.jp/~akaki/igaku02.html

医学書院「週間医学界新聞」
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2001dir/n2438dir/n2438_05.htm

「自衛隊ニュース」脚気と征露丸
http://www.mil-box.com/news/2002/20021215_10.html
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