学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

彌永貞三氏との関係

2010-04-12 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月12日(月)21時55分25秒

史料編纂所元所長の彌永貞三氏(1915~1983)は昌吉氏の9歳下の弟ですね。
昌吉氏と貞三氏の父親は福岡県八女郡八幡村出身で、東京帝国大学を卒業した後、日銀に入り、日銀松本支店長時代に彌永貞三氏が生まれたのだそうです。
(『若き日の思い出 数学者への道』p3、p30)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%8C%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E4%B8%89
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「あとがきのあとがき」

2010-04-12 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月12日(月)21時15分52秒

>筆綾丸さん
彌永信美氏(1948生)は彌永昌吉氏(1906~2006)の三男ですね。
彌永昌吉氏の『若き日の思い出 数学者への道』(岩波書店、2005)の「あとがきのあとがき」を信美氏が書かれています。
また、同書には次のような記述があります。(p188以下)

--------------
 私が日仏会館と深くかかわるようになったのは一九五〇年代に入ってからだが、そのきっかけを与えてくださった一人が前田陽一氏だった。当時会館の「館長」は著名なサンスクリット学者のルイ・ルヌウ(Louis Renou)氏だった。(そういえば初代の「館長」もサンスクリット学者として広く知られたシルヴァン・レヴィ Sylvain Leviである。)前からヴェイユを日本へ招べればよいと考えていた私は、彼がサンスクリットを勉強し、インドにも滞在したことがあることを思い出して、ルヌウ氏に相談したのだったが、そのルヌウ氏を紹介してくれたのが前田陽一氏だったのである。ヴェイユ招待計画に関するルヌウ氏の返事は必ずしも積極的なものではなかったが、数年後には実際にヴェイユの来日が実現したし、ルヌウ氏の知遇を得たことと、そのころ会館の研究員であったベルナール・フランク氏と友人になれたことが、その後、私を会館と結び付ける太い絆の始まりだった。当時はまだ若い日本研究者だったフランク氏は、滞日中に知り合った画家の淳子さんと結婚された。フランク氏の日本に関する知識の広さには驚嘆すべきものがあり、後にはコレージュ・ド・フランスで日本学の講座を担当された。また、一九七二~七四年には日仏会館「館長」を務められ、会館設立五十周年に際しては、会館の歴史を詳細に調べて『日仏文化』に執筆された。(フランク氏が前半を書かれ、私が後半を担当して、連名で発表した。)

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/7/0062240.html
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