学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

火山

2010-08-24 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
火山 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月24日(火)23時24分38秒

>筆綾丸さん
『かぐや姫と王権神話』、通読してみました。
ご指摘のように確かに最初の方には無理な記述があって若干不安を感じましたが、「第三章 天武天皇と『脱神話化』する国家」以降は、『竹取物語』の内容が政治史の流れと綺麗に対応するような感じがして、面白く読めました。
もっとも私は古代の政治史にうといので、批判的に検討する能力もあまりないのですが。
「終章 物語の成立・神道の成立」も、歴史学研究会の指導的立場にあった保立氏(過去形はまずい?)の認識としては、なかなか興味深いものがあります。

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 しかし、私が網野と違うのは、日本社会には神道という宗教があり、大きな影響をもったし、もっていることを、正面から考えるべきだという点である。神道が、その発生において宗教らしさが希薄になった理由、その独自性と宗教史の展開、また天皇制に自己同一化した国家神道によって大きく傷つけられた近年の過程などを、ナショナルなレベルの常識とすることが望まれると思う。
(中略)
 私は、これらについての認識は、日本社会が前に進んでいく上で、民族的な自己認識の一つの思想的基礎となり、また進歩と保守の間のバランスと相互理解をもたらし、社会的な問題の見通しをよくすると思う。そして、神道を支えた信条それ自身、「人のはたらきのすべてを究極において聖化し、みずからの生活と心のよすがとして絶対視しようとする心性」(高取)の宗教性は尊重されるべきものである。教典もなく開祖もなく、現世を「言上げ」せず、絶対視しつつ聖化しようとする宗教。別の言葉でいえば絶対的な忌みの思想と感性そのものは、けっして宗教としてレヴェルが低いとか、未発達であるとかいうべきものではない。私は折口・土橋・益田の仕事が明らかにしているような、神道の自然に対する絶対的な忌みの心的態度それ自身は、日本の風土にそくした独特な思想信条たる価値を失わないと思うのである。(p207以下)
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保立氏は高取正男(『神道の成立』)・折口信夫・土橋寛(『古代歌謡と儀礼の研究』)・益田勝実(『火山列島の思想』他)氏らの認識を基礎に、更に神道の理解を深めて行くことを目指しているのですね。
この内、私は益田勝実氏とは全く発想のタイプが違うようで、『火山列島の思想』は途中で読むのを止めました。
『かぐや姫と王権神話』も、火山関係はどうにもついて行けないですね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

現代の錬金術? 2010/08/22(日) 19:27:16
竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけて後に竹取るに、節を隔てゝ節間毎に、黄金ある竹を見つくる事重りぬ。かくて翁、やうやう、豊かになり行く。
 (中略)
問題は、この竹の節のなかの黄金がどういう形をしていたかにある。絵本には竹の中から「小判」がザクザクというものもあるが、しかし、『竹取』の時代には、「大判・小判」はない。この時代、黄金は重さで流通しており、砂金のまま小さな袋に入れられるか、溶かされて金槐にされるのかのどちらかだった。この場合は、後者で、金槐が竹の中に嵌りこんでいたのであろう。「節をへだてゝ、節間ごとに、金ある竹」という「節間」とは竹の節と節の間のことをいうから、すべての節間に金の延棒が詰まっていたことになる。延棒の実際の形は、戦国時代に流通した「竹流し金」のことを考えてみればよい。竹流し金は、円筒形を中央からまっぷたつに縦割りにした形のもので、割竹に金地金を流し込んで作ったものである。
『今昔物語集』などでは、金槐を打ち欠いて使ったことは分かるが、金槐の形までは分からないから、『竹取物語』の記述は、この時代の金槐の形を示す貴重な史料である。竹流し金の形に作られ、計量されるという規準があったに違いない。教科書にもでる皇朝十二銭(銅銭)は、国家が粗製濫造による利益を目ざしたために、インフレーションが進み、その流通はたいへんに不安定であった」」(保立道久氏『かぐや姫と王権神話』32頁~)

『竹取物語』のわずかな記述から、この黄金は延棒で、戦国時代の竹流し金とよく似ていて、この形が当時の国家の計量単位であった、などと何故に断定的なことが言えるのか、まことに不思議な錬金術としか思われない。これだけ論理(?)が飛躍してしまえば、研究などしなくとも、どんなことでも言えますね。

対馬へ行く道 2010/08/24(火) 19:41:44
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480065582/
森浩一氏『倭人伝を読みなおす』の、次のような記述に、軽い衝撃を受けました。

「畏友の永留久恵氏は対馬在住の歴史学者であり、長年の研究をまとめて先日『対馬国試』の大冊を刊行された。古代から太平洋戦争後の新しい時代までを一人の目でまとめた労作であり、地域史の労作といってよかろう。
永留さんからずっと前にうかがい面白く思ったことがある。戦前に長崎の師範学校で学んでいた永留氏が、休暇で故郷の上県へ戻るのに汽車で長崎から下関へ、あとは船で下関から釜山へ、それから釜山から北岸の佐須奈へと汽船で航海してから、歩いて故郷まで帰ったということである」(同書70頁~)

朝鮮半島が日本の統治下にあったとは言え、「魏志倭人伝」の三世紀とはまた違う意味で、大変な detour だったのですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC
律令制による対馬国の上県と下県の両郡は、上下が反転しているような気がしますが、島全体が経線に対して東に数度位ぶれているので、こうなったのだろうか、というような疑問があります。福岡や唐津から壱岐経由で対馬へ行けば、南の方が上県郡、北の方が下県郡、となるような気がするのですがね。
コメント
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