投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月 4日(火)12時08分43秒
産経新聞に載っている赤坂憲雄氏の「【新章 東北学】(7) 神仏の再建、隠れたテーマ」から、少し長めに引用してみます。
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ダム建設で移転した村などを訪ねると、村の入り口に墓地があって寺が建てられている。ずっと奥の高台に神社があって、神様を元の村から勧請してお祀(まつ)りしている。あるいは分村して入植する開拓村でも、人々が真っ先に考えるのは、以前の村から鎮守の神様を移して祀ることです。
つまり、家が建てられ、道路ができて、インフラが整うから新しい村が始まるのではない。土地を守っている神様とのつきあいとか、あるいは祖先とのつながりをどのように維持していくかということが、地域のコミュニティにとって重要なことなんです。新しい村づくりが、さまざまな場所で始まっていますけれど、精神のよりどころとしての神や仏の座をどのようにデザインするのかということが隠れたテーマになるはずです。
ところが、そう簡単な話ではない。政府の復興構想会議でも、僧侶の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんが「壊滅した寺や神社の再建を支援できないか」と提案されたんですね。でも、行政は宗教に関わってはいけないという建前があって、予算をつけるなんてとんでもない、と退けられる。おそらく国だけではなくて、地方行政のレベルでもそうでしょう。
復興のために、神と仏の再建というテーマは、重要であるにもかかわらず、長期にわたって手をさしのべられない状況が続くかもしれない。避難している地域の人々も、精神的なよりどころを失ったまま地域の再建に取り組まざるを得ない。
(後略)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110919/dst11091907250001-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110919/dst11091907250001-n4.htm
赤坂憲雄氏は私にとって謎の思想家であって、私が関心を持っている分野で多くの著作を書かれているのですが、とにかく文章にスピード感が全然ないので、私は読んでいるうちにイライラしてしまい、耕運機に前方を塞がれた暴走族のような心境になって途中で放り投げるのが常でした。
しかし、最近、先方のスピードが上がったのか、私のスピードが落ちたのか、我慢すればある程度読めるようになってきました。
さて、赤坂氏や玄侑宗久氏は法律の素養がないので、役人から「行政は宗教に関わってはいけないという建前があって、予算をつけるなんてとんでもない」と言われれば何の反論もできないようですが、憲法の政教分離原則についての現行の解釈はいろいろ問題があって、今回の大震災を契機に憲法学者が本格的に議論しなければならない点が多いですね。
今までは、とにかく神道や靖国神社が嫌いな人々が、神道憎し、靖国憎しの一念でいろんな裁判を繰り返した結果、国家と宗教の厳格な分離を基調とする判例が積み重ねられ、結果として行政は宗教に近づくことに極端に慎重・臆病になってしまった訳ですが、今回の震災で政教分離原則の解釈が本当に今まで通りでよいのかを根本的に再検討する必要が明白になったように思います。
もっとも、解釈の変更が実現するかもしれない時期は遠い未来であって、そんなものを待っていては地域のコミュニティが崩壊してしまいますから、ちゃんとした自覚を持った人が、できることから少しずつ始めなければならないですね。
私はそうした仕事に関わるつもりで東北に来まして、今は地味に準備をしている段階です。
少し検索してみたところ、震災と政教分離原則については下のリンク先が良くまとめていますね。
真如苑が資金援助をしているサイトだそうですが、執筆者はしっかりした研究者みたいですね。
「宗教界の震災復旧を阻む政教分離の壁」
http://www.circam.jp/page.jsp?id=1953
産経新聞に載っている赤坂憲雄氏の「【新章 東北学】(7) 神仏の再建、隠れたテーマ」から、少し長めに引用してみます。
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ダム建設で移転した村などを訪ねると、村の入り口に墓地があって寺が建てられている。ずっと奥の高台に神社があって、神様を元の村から勧請してお祀(まつ)りしている。あるいは分村して入植する開拓村でも、人々が真っ先に考えるのは、以前の村から鎮守の神様を移して祀ることです。
つまり、家が建てられ、道路ができて、インフラが整うから新しい村が始まるのではない。土地を守っている神様とのつきあいとか、あるいは祖先とのつながりをどのように維持していくかということが、地域のコミュニティにとって重要なことなんです。新しい村づくりが、さまざまな場所で始まっていますけれど、精神のよりどころとしての神や仏の座をどのようにデザインするのかということが隠れたテーマになるはずです。
ところが、そう簡単な話ではない。政府の復興構想会議でも、僧侶の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんが「壊滅した寺や神社の再建を支援できないか」と提案されたんですね。でも、行政は宗教に関わってはいけないという建前があって、予算をつけるなんてとんでもない、と退けられる。おそらく国だけではなくて、地方行政のレベルでもそうでしょう。
復興のために、神と仏の再建というテーマは、重要であるにもかかわらず、長期にわたって手をさしのべられない状況が続くかもしれない。避難している地域の人々も、精神的なよりどころを失ったまま地域の再建に取り組まざるを得ない。
(後略)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110919/dst11091907250001-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110919/dst11091907250001-n4.htm
赤坂憲雄氏は私にとって謎の思想家であって、私が関心を持っている分野で多くの著作を書かれているのですが、とにかく文章にスピード感が全然ないので、私は読んでいるうちにイライラしてしまい、耕運機に前方を塞がれた暴走族のような心境になって途中で放り投げるのが常でした。
しかし、最近、先方のスピードが上がったのか、私のスピードが落ちたのか、我慢すればある程度読めるようになってきました。
さて、赤坂氏や玄侑宗久氏は法律の素養がないので、役人から「行政は宗教に関わってはいけないという建前があって、予算をつけるなんてとんでもない」と言われれば何の反論もできないようですが、憲法の政教分離原則についての現行の解釈はいろいろ問題があって、今回の大震災を契機に憲法学者が本格的に議論しなければならない点が多いですね。
今までは、とにかく神道や靖国神社が嫌いな人々が、神道憎し、靖国憎しの一念でいろんな裁判を繰り返した結果、国家と宗教の厳格な分離を基調とする判例が積み重ねられ、結果として行政は宗教に近づくことに極端に慎重・臆病になってしまった訳ですが、今回の震災で政教分離原則の解釈が本当に今まで通りでよいのかを根本的に再検討する必要が明白になったように思います。
もっとも、解釈の変更が実現するかもしれない時期は遠い未来であって、そんなものを待っていては地域のコミュニティが崩壊してしまいますから、ちゃんとした自覚を持った人が、できることから少しずつ始めなければならないですね。
私はそうした仕事に関わるつもりで東北に来まして、今は地味に準備をしている段階です。
少し検索してみたところ、震災と政教分離原則については下のリンク先が良くまとめていますね。
真如苑が資金援助をしているサイトだそうですが、執筆者はしっかりした研究者みたいですね。
「宗教界の震災復旧を阻む政教分離の壁」
http://www.circam.jp/page.jsp?id=1953