学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

松川浦の「古湊」と「飛鳥湊」

2012-08-21 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 8月21日(火)15時06分57秒

下の投稿でリンク先とした相馬市サイト内の「松川浦県立自然公園」に分かりやすい地図が出ていますね。
「大洲海岸(その1)」の写真は地図の「古湊」近辺、「大洲海岸(その2)」の写真は「飛鳥湊」近辺ですね。
参考までに「松川浦のうつりかわり」の説明も転記しておきます。

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現在、松川浦での船の出入りは、松川浦大橋のある、岩盤が掘られている地点で自由に行き来できるようになっていますが、それにいたるまで浦口は大きく変化してきました。
年代は不詳ですが大昔、浦の出口は、現在大洲公園となっている古湊あたりだったといわれています。
中世社会時代(西暦1000年)のころには、浦の出口は中州の真ん中ころにありましたが、次第に北上して、しまいには鵜の尾岬の南下まで来ました。この川口は飛鳥湊と呼ばれ、川口が時々変わることからこの名が付けられたといわれています。
この飛鳥湊の川口も潮流の変化や暴風などにより、砂が流れ込み、塞がれることがあったため、浦の北の方、原釜港に近い方を開削して新たな川口をつくることになりました。
松ケ江村、飯豊村、磯部村の三ヶ村組合が事業主体となったこの工事は、明治41年(1908)1月に始められ、明治43年に現在の川口が完成し、飛鳥湊の旧川口は閉じられました。
この新しい川口には、板橋が架設されましたが、大正2年8月に暴風雨により流され、その後は渡船での利用となりました。
平成2年度より松川浦漁港関連道工事の橋梁として、松川浦大橋の建設が始まり、平成7年3月16日に橋長520.3メートル、全幅9.75メートルのPC斜橋が完成。相馬を代表する観光名所となっています。

http://www.city.soma.fukushima.jp/kanko/matukawaura_hensen.html

この記事の執筆者は西暦1000年ごろを「中世」としている点、少し気になりましたが、特別な意図はなさそうですね。
明治43年に現在の河口が開削されるまで開口部であった「飛鳥湊」で防波堤が崩壊したことは、やはりここが一番弱い部分だった、ということなんでしょうね。
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大洲海岸(その2)

2012-08-21 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 8月21日(火)09時47分26秒

大洲公園付近までの防波堤は至るところで崩壊していますが、防波堤に並行して道路(大洲松川浦ライン)を設けている部分は鵜の尾岬のすぐ手前までしっかりしていますね。
写真は車を降りて2㎞ほど進んだ地点、鵜の尾岬との間の防波堤崩壊部分です。

参考:「松川浦の空撮写真」(震災前の大洲海岸の様子)
http://shi.na.coocan.jp/mathukawaura.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6522
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大洲海岸(その1)

2012-08-21 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 8月21日(火)09時39分12秒

昨日、福島県相馬市の大洲海岸に行ってきました。
南側の磯部漁港から「大洲生活環境保全林(大洲公園)」の少し先まで車で行けますが、「古湊船溜」付近で道路が崩壊しています。
その先は歩きました。

参考:「松川浦県立自然公園」(相馬市公式ホームページ内)
http://www.city.soma.fukushima.jp/kanko/matukawaura_index.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6521
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