学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『カルメン』作者とナポレオン三世

2016-01-04 | 映画・演劇・美術・音楽

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月 4日(月)09時55分37秒

年の初めはフランス関係の気楽な読み物を、と思って鹿島茂氏の『怪帝ナポレオンⅢ世』(講談社、2004)を読み始めたのですが、けっこう面白いですね。
皇妃選びのところには意外な人物も登場してきて、驚きました。

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 十年任期の共和国大統領から、世襲制のフランス帝国皇帝となったナポレオン三世にとって、なにはともあれ、早急に解決しなければならない問題があった。結婚である。一八五二年の一二月には、ナポレオン三世はすでに四四歳になっていたが、これは伯父のナポレオン一世が退位した歳に当たる。子作りに関しては、ナポレオン三世の能力はいたって活発だったが、皇妃が見つからず、世継ぎができないではおさまりがつかない。
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ということで(講談社学術文庫版、p203)、取り巻き連中はクー・デタ資金の提供者で、「ブライトンの皮革職人の娘で、ロンドンで高級娼婦をしていたときに、ナポレオン三世と知り合ったという経歴の持ち主」のミス・ハワードが皇妃になりたいと言い出すのではないかと恐れていたものの、これは杞憂に終わり、ナポレオン三世はヨーロッパの王侯や皇帝の一族で適齢期の娘がいないかを探すも失敗。
そこでフランス国内で探すしかないと物色していたところ、「突如、たいへんなダークホースが浮上してくる。スペインはグラナダの名門貴族の娘で、テーバ伯爵令嬢、二六歳になるエウヘニエ・デ・モンティホー(フランス語読みなら、ウージェニー・ド・モンティジョ)嬢である」という展開になります。
フランス娘でなければならぬ、という反対派との間でひと悶着あったものの、結局、ナポレオン三世はモンティホー嬢の美貌に靡く訳ですが、もしも戦略を誤れば単なる愛人で終わった可能性も大きいモンティホー嬢側には有能な助言者がいたのだそうです。

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 こうして、フランス帝国の皇妃選びは、ナポレオン三世の一方的な「恋」によって決まったが、彼をして「結婚」の二文字を手紙にしたためさせたものは、モンティホー嬢の肩の白さだけではなかった。モンティホー嬢には、二人の高名な家庭教師がいて、彼らから、フラートの技術、すなわち、誘惑と拒絶をないまぜて男に結婚の決断を迫る恋のテクニックを伝授してもらったのである。
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ということで(p210)、その一人は「スペイン人でありながらナポレオン軍に参加して戦った父親モンティホー伯爵のフランス人の戦友」であり、「いささかロリコン趣味のあった」元軍人・外交官の本名アンリ・ベイル、即ち『赤と黒』『パルムの僧院』『恋愛論』の作者、スタンダール。
そして、

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 もう一人の家庭教師は、スタンダールの親友で、スペイン駐在の外交官だった作家のプロスペル・メリメ。メリメは、一八三〇年にスペインに旅したとき、エウヘニエの母親のマヌエラと知り合い、その愛人となった。愛情の火が消えても、友情はその後も続き、マヌエラがパリに来るたびに、メリメは母娘のアパルトマンを訪れ、いろいろと社交上のアドバイスを授けた。とりわけ、一八四九年に母娘がパリに滞在してからは、メリメは、エウヘニエがナポレオン三世に対して行う「フラート」の技術指導員になったばかりか、彼女の手紙の代筆までしてやった。ナポレオン三世は、エウヘニエの手紙のうまさに感心して、いっそう恋心を募らせたのである。
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とのことです。
引用箇所以外で鹿島氏も指摘されているように、スタンダール(1783-1842)は皇妃選びが現実の問題となる1852年の十年前に死んでいますから、あくまで理論上の指導者に止まり、現実的なアドバイザーはメリメ(1803-70)一人ですね。
去年の春、群馬県を中心に活動するミュージカル劇団Alumnae(アラムニー)の公演をきっかけに突如としてミュージカルに目覚めた私は、同劇団の今年の演目が「カルメン」なので、そろそろメリメの原作でも読もうかなと思っていたのですが、メリメは作家としての活動以外にもいろいろやっていて面白そうなので、少し調べてみたいですね。

ミュージカル劇団Alumnae
http://alumnae.ciao.jp/

コメント
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