投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月27日(水)11時46分40秒
ここで視野を少し広げて、当時の新政府反対一揆の概要を眺めておきます。
井上勝生氏の『幕末・維新 シリーズ日本近現代史①』(岩波新書、2006)はコンパクトにまとまった良書だと思うので、少し引用させてもらいます。
同書によれば、「江戸時代の一揆勢の規律は厳重で、家屋をこなみじんに打ちこわしても、『放火』は厳しく禁じられていた」そうですが、1866年に各地で起きた「世直し一揆」の段階で放火も登場し、「一線がのりこえられはじめた」(p165)そうです。
そして、新政府の東征軍が江戸城に到着する直前の1968年2月下旬に発生した「上州世直し一揆」は「『世直し大明神』の旗を掲げて、上州ほぼ全域をおおい」、四月まで続き、「関東に入った新政府軍は、一揆指導者を多数、斬首刑に処したが、今のところ、その処刑数は明らかでない」(p166)ほどで、更に同時期に「武州世直し一揆」も発生し、東征軍の東北諸藩攻撃を遅らせるほどの影響をもたらします。
ついで1869年になると、大凶作にもかかわらず、急進的な開化政策を急ぐ新政府は「地方官の判断による貢租減額を一切厳禁し」、「六九年の農民暴動の件数は、新政府の苛政のために、六八年をしのぎ、江戸時代最多の一揆件数を示した六六年に次ぐものと」なります。(p183)
1871年7月の廃藩置県後には広島県の「武一騒動」以下、16件の「廃藩反対一揆」が起きますが、「放火を自制した江戸時代の一揆とは激しさの質がまったく異なって」(p194)おり、それに対応して政府側も一揆に厳罰で臨み、「死刑たりとも即決」となり、「播但一揆(兵庫県)で一九名が即決裁判で死罪に処せられた」そうです。(p195)
そして、
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一八七三年は、明治初年一揆の一つのピークとなった。主なものをあげれば、五月から六月にかけて北条県(岡山県北部)血税一揆がおき、その後、最大の筑前(福岡県北西部)竹槍一揆、そして鳥取県会見郡(同県西部)徴兵令反対一揆、広島県徴兵令・解放令反対一揆、讃州竹槍騒動、天草血税騒動、島根県徴兵令反対一揆とつづいてゆく。
戸長からの徴兵名簿提出起源の六月から反対一揆がそれ以前にもましてつぎつぎにおこる。徴兵告諭に「血税」の文字があり、徴兵を「血取り」、「子取り」とし、政府要人を「異人」とか「耶蘇衆」と呼ぶ流言が流れた。江戸時代、百姓は、年貢はおさめていたが、兵事にはかかわらなかった。明治政府は、貢租を減らさないし、しかも庶民を兵にとる。人民の負担は明治政府によって格段に加重されたのである。徴兵を「血取り」、「子取り」と言う流言は、的を射ていた。
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とのことですが(p200)、この<政府要人を「異人」とか「耶蘇衆」と呼ぶ流言>は興味深いですね。
井上氏の書き方だと「耶蘇衆」云々は1873年に初登場のようにも読めますが、「護法一揆」関係では既に1870年の三河大浜騒動に登場しています。
そして徴兵令反対一揆が活発化する少し前の1873年3月に発生した「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」でも、参加者を煽動するために「耶蘇」という表現が頻繁に用いられたことは既に見たとおりです。
ここで視野を少し広げて、当時の新政府反対一揆の概要を眺めておきます。
井上勝生氏の『幕末・維新 シリーズ日本近現代史①』(岩波新書、2006)はコンパクトにまとまった良書だと思うので、少し引用させてもらいます。
同書によれば、「江戸時代の一揆勢の規律は厳重で、家屋をこなみじんに打ちこわしても、『放火』は厳しく禁じられていた」そうですが、1866年に各地で起きた「世直し一揆」の段階で放火も登場し、「一線がのりこえられはじめた」(p165)そうです。
そして、新政府の東征軍が江戸城に到着する直前の1968年2月下旬に発生した「上州世直し一揆」は「『世直し大明神』の旗を掲げて、上州ほぼ全域をおおい」、四月まで続き、「関東に入った新政府軍は、一揆指導者を多数、斬首刑に処したが、今のところ、その処刑数は明らかでない」(p166)ほどで、更に同時期に「武州世直し一揆」も発生し、東征軍の東北諸藩攻撃を遅らせるほどの影響をもたらします。
ついで1869年になると、大凶作にもかかわらず、急進的な開化政策を急ぐ新政府は「地方官の判断による貢租減額を一切厳禁し」、「六九年の農民暴動の件数は、新政府の苛政のために、六八年をしのぎ、江戸時代最多の一揆件数を示した六六年に次ぐものと」なります。(p183)
1871年7月の廃藩置県後には広島県の「武一騒動」以下、16件の「廃藩反対一揆」が起きますが、「放火を自制した江戸時代の一揆とは激しさの質がまったく異なって」(p194)おり、それに対応して政府側も一揆に厳罰で臨み、「死刑たりとも即決」となり、「播但一揆(兵庫県)で一九名が即決裁判で死罪に処せられた」そうです。(p195)
そして、
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一八七三年は、明治初年一揆の一つのピークとなった。主なものをあげれば、五月から六月にかけて北条県(岡山県北部)血税一揆がおき、その後、最大の筑前(福岡県北西部)竹槍一揆、そして鳥取県会見郡(同県西部)徴兵令反対一揆、広島県徴兵令・解放令反対一揆、讃州竹槍騒動、天草血税騒動、島根県徴兵令反対一揆とつづいてゆく。
戸長からの徴兵名簿提出起源の六月から反対一揆がそれ以前にもましてつぎつぎにおこる。徴兵告諭に「血税」の文字があり、徴兵を「血取り」、「子取り」とし、政府要人を「異人」とか「耶蘇衆」と呼ぶ流言が流れた。江戸時代、百姓は、年貢はおさめていたが、兵事にはかかわらなかった。明治政府は、貢租を減らさないし、しかも庶民を兵にとる。人民の負担は明治政府によって格段に加重されたのである。徴兵を「血取り」、「子取り」と言う流言は、的を射ていた。
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とのことですが(p200)、この<政府要人を「異人」とか「耶蘇衆」と呼ぶ流言>は興味深いですね。
井上氏の書き方だと「耶蘇衆」云々は1873年に初登場のようにも読めますが、「護法一揆」関係では既に1870年の三河大浜騒動に登場しています。
そして徴兵令反対一揆が活発化する少し前の1873年3月に発生した「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」でも、参加者を煽動するために「耶蘇」という表現が頻繁に用いられたことは既に見たとおりです。