「さかゆく花」は『国史大辞典』では「はなのごしょぎょうこうき 花御所行幸記」として立項されていて、次のような説明があります。
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室町時代の行幸に関する記録。もと上下二巻であったと思われるが、現在は『さかゆく花』上と内題のあるもの一巻だけが残る。『永徳行幸記』『後円融天皇花御所行幸記』『室町殿行幸記』ともいう。作者については、『図書寮典籍解題』文学篇では二条良基の仮名文作品に入れているが、確かなことはわからない。しかし、本書の序説における室町幕府三代将軍足利義満の権勢や善美を尽くした室町第の描写などの記述から推察すれば、義満の右筆、またはそれに類する者の作かとも考えられる。また成立時期についても行幸後あまり時期を隔てないころの作かとも思われるが、確かなことは不明である。内容的には、永徳元年(一三八一)三月十一日に御方違の例に准じて後円融天皇が足利義満の室町第、いわゆる花の御所へ行幸された際の行路、供奉の公卿達、昼の御座の宴や、翌十二日の舞楽御覧の記事などが記されている。そして、おそらく十七日の還幸までの下巻に相当する部分もあったものと思われるが、今は散佚している。刊本は『群書類従』帝王部所収。【参考文献】『群書解題』二下「さかゆく花上」
(鈴木成正)
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また、少し検索してみたところ、「国士舘大学学術情報リポジトリ」で桑山浩然氏の「室町時代における将軍第行幸の研究─永徳元年の足利義満第行幸」(『国士舘大学文学部人文学会紀要』36号、2003年12月) という論文を読むことができますね。
https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6697&item_no=1&page_id=13&block_id=21
この論文の構成は、
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はじめに
一 足利義満の公家社会参入と行幸
二 永徳行幸の史料
三 渡御の儀
四 歓迎の芸能プログラム
五 蹴鞠と舟遊び
六 還御の儀─行幸の意味するところ─
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となっていて、桑山氏は「二 永徳行幸の史料」の「さかゆくはな」についての書誌的説明の後で、
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著者は明示されていないが、部外者では目にすることのできない禁裏の奥における状況をはじめ、行幸の一部始終について詳細な情報を持っていることを考えると、後述するように、私が行幸の演出者に比定する二条良基を宛てることが出来るかもしれない。
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と言われています。(p18)
また、「四 歓迎の芸能プログラム」の次の記述は興味深いですね。(p21以下)
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ところで、永徳行幸のプログラムには一つの先例らしきものがある。「鎌倉中期にあって、王朝世界を正当に継承していた集団─宮中・院および西園寺家─の最大規模の雅会」(井上宗雄)とも評される弘安八年(一二八五)に行われた北山院の九十賀宴である。
北山院というのは、鎌倉時代後期の公家社会における一代権力者、後嵯峨院の義母に当たる人物、中宮大宮院の母(西園寺実氏の室)のことである。後深草・亀山両天皇には祖母に当たり、鎌倉公家社会のゴッドマザーとも称しうる人物である。その北山院のしかも当時ではきわめて稀な九〇歳の長寿を祝う賀宴であった。自伝的な文学作品『とはすかたり』を書き残した女性、後深草院二条(久我雅忠女)は、実際にこの宴に列なっており、盛儀の様を克明に書き残した。『増鏡』の中にも相当の紙幅を割いて記事があり、文章の類似から、この部分は『とはすかたり』を下敷きにして作られたものとされている。現在残る『北山准后九十賀記』(滋野井実冬記、未刊)をはじめ、『増鏡』の記述などから考えると、この他にも今は伝わらない多くの記録が作られたものと考えられ、鎌倉時代の公家社会では有数の行事であった。
その北山院九十賀宴のスケジュールは、
二月二九日 西園寺行幸
二月三〇日 舞楽
三月一日 御遊(管弦) 和歌御会 蹴鞠
というものであった。
西園寺というのは、鎌倉公家社会の第一人者西園寺氏の邸宅があった場所で、後年、足利義満は荒れていたその跡地を譲り受け、時代の呼称ともなる北山山荘を造営することになる。
二日目以降のスケジュールでは、古くからある舞楽、管弦や和歌のほかに、鎌倉時代に入ってから公家社会に定着、普及することになる蹴鞠が行われていることは注意しておいてよいだろう。
永徳元年行幸の際にも、
三月十一日 行幸の儀、晴御膳、賜盃、
十二日 舞御覧、
十四日 御鞠、和歌御会、
十五日 和歌御会、後宴御鞠、御船遊(和歌、詩歌、管弦、)
となっていて、和歌と舞楽や管弦、それに蹴鞠という構成は変わらない。
蹴鞠は院政期ころから公家社会に普及し、鎌倉時代初期になると、源頼家や実朝らもこれを習い、京都の公家だけでなく鎌倉の武家社会にもある程度は普及していたと考えらえる。とはいえ、戦乱が続く南北朝の時期には武家が蹴鞠をしたという記録は見あたらない。永徳行幸の時に蹴鞠を行ったのは、足利義満を除けばいずれも公家である。武家社会ではほとんど普及していないにも関わらず、二条良基は、北山院九十賀宴で晴れの行事とされた蹴鞠を充分意識しながらプログラムを作ったのであろうと想像される。良基は、『増鏡』で大きく描くあこがれの王朝絵巻を、天皇の行幸という機会をとらえて足利義満によって再現しようと図っていたのではないか、と言うことが出来ようし、義満もまたよくそれに答えていたのであった。
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桑山氏は一貫して「北山院」と書いていますが、これはもちろん「北山准后」の誤りです。
女院と准后では女院の方が格上で、しかも「北山院」といえば足利義満の正室、日野康子に与えられた称号ですから、桑山氏が何故にこのような勘違いをしたのか、ちょっと不思議です。
しかも途中で「現在残る『北山准后九十賀記』(滋野井実冬記、未刊)」に言及しているにも拘らず、その後、再び「北山院」に戻ってしまっているのはどうしたことなのか。
日野康子(1369-1419)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%BA%B7%E5%AD%90
桑山氏、割と最近亡くなったような感じがしていたのですが、2006年にご逝去なんですね。
桑山浩然(1937-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%B1%B1%E6%B5%A9%E7%84%B6