学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『中世王権の音楽と儀礼』へのプチ疑問(その4)

2019-03-02 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月 2日(土)22時14分53秒

「さかゆく花」は『国史大辞典』では「はなのごしょぎょうこうき 花御所行幸記」として立項されていて、次のような説明があります。

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室町時代の行幸に関する記録。もと上下二巻であったと思われるが、現在は『さかゆく花』上と内題のあるもの一巻だけが残る。『永徳行幸記』『後円融天皇花御所行幸記』『室町殿行幸記』ともいう。作者については、『図書寮典籍解題』文学篇では二条良基の仮名文作品に入れているが、確かなことはわからない。しかし、本書の序説における室町幕府三代将軍足利義満の権勢や善美を尽くした室町第の描写などの記述から推察すれば、義満の右筆、またはそれに類する者の作かとも考えられる。また成立時期についても行幸後あまり時期を隔てないころの作かとも思われるが、確かなことは不明である。内容的には、永徳元年(一三八一)三月十一日に御方違の例に准じて後円融天皇が足利義満の室町第、いわゆる花の御所へ行幸された際の行路、供奉の公卿達、昼の御座の宴や、翌十二日の舞楽御覧の記事などが記されている。そして、おそらく十七日の還幸までの下巻に相当する部分もあったものと思われるが、今は散佚している。刊本は『群書類従』帝王部所収。【参考文献】『群書解題』二下「さかゆく花上」
(鈴木成正)
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また、少し検索してみたところ、「国士舘大学学術情報リポジトリ」で桑山浩然氏の「室町時代における将軍第行幸の研究─永徳元年の足利義満第行幸」(『国士舘大学文学部人文学会紀要』36号、2003年12月) という論文を読むことができますね。

https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6697&item_no=1&page_id=13&block_id=21

この論文の構成は、

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はじめに
一 足利義満の公家社会参入と行幸
二 永徳行幸の史料
三 渡御の儀
四 歓迎の芸能プログラム
五 蹴鞠と舟遊び
六 還御の儀─行幸の意味するところ─
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となっていて、桑山氏は「二 永徳行幸の史料」の「さかゆくはな」についての書誌的説明の後で、

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著者は明示されていないが、部外者では目にすることのできない禁裏の奥における状況をはじめ、行幸の一部始終について詳細な情報を持っていることを考えると、後述するように、私が行幸の演出者に比定する二条良基を宛てることが出来るかもしれない。
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と言われています。(p18)
また、「四 歓迎の芸能プログラム」の次の記述は興味深いですね。(p21以下)

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 ところで、永徳行幸のプログラムには一つの先例らしきものがある。「鎌倉中期にあって、王朝世界を正当に継承していた集団─宮中・院および西園寺家─の最大規模の雅会」(井上宗雄)とも評される弘安八年(一二八五)に行われた北山院の九十賀宴である。
 北山院というのは、鎌倉時代後期の公家社会における一代権力者、後嵯峨院の義母に当たる人物、中宮大宮院の母(西園寺実氏の室)のことである。後深草・亀山両天皇には祖母に当たり、鎌倉公家社会のゴッドマザーとも称しうる人物である。その北山院のしかも当時ではきわめて稀な九〇歳の長寿を祝う賀宴であった。自伝的な文学作品『とはすかたり』を書き残した女性、後深草院二条(久我雅忠女)は、実際にこの宴に列なっており、盛儀の様を克明に書き残した。『増鏡』の中にも相当の紙幅を割いて記事があり、文章の類似から、この部分は『とはすかたり』を下敷きにして作られたものとされている。現在残る『北山准后九十賀記』(滋野井実冬記、未刊)をはじめ、『増鏡』の記述などから考えると、この他にも今は伝わらない多くの記録が作られたものと考えられ、鎌倉時代の公家社会では有数の行事であった。
 その北山院九十賀宴のスケジュールは、
  二月二九日 西園寺行幸
  二月三〇日 舞楽
  三月一日  御遊(管弦) 和歌御会 蹴鞠
というものであった。
 西園寺というのは、鎌倉公家社会の第一人者西園寺氏の邸宅があった場所で、後年、足利義満は荒れていたその跡地を譲り受け、時代の呼称ともなる北山山荘を造営することになる。
 二日目以降のスケジュールでは、古くからある舞楽、管弦や和歌のほかに、鎌倉時代に入ってから公家社会に定着、普及することになる蹴鞠が行われていることは注意しておいてよいだろう。
 永徳元年行幸の際にも、
  三月十一日 行幸の儀、晴御膳、賜盃、
    十二日 舞御覧、
    十四日 御鞠、和歌御会、
    十五日 和歌御会、後宴御鞠、御船遊(和歌、詩歌、管弦、)
となっていて、和歌と舞楽や管弦、それに蹴鞠という構成は変わらない。
 蹴鞠は院政期ころから公家社会に普及し、鎌倉時代初期になると、源頼家や実朝らもこれを習い、京都の公家だけでなく鎌倉の武家社会にもある程度は普及していたと考えらえる。とはいえ、戦乱が続く南北朝の時期には武家が蹴鞠をしたという記録は見あたらない。永徳行幸の時に蹴鞠を行ったのは、足利義満を除けばいずれも公家である。武家社会ではほとんど普及していないにも関わらず、二条良基は、北山院九十賀宴で晴れの行事とされた蹴鞠を充分意識しながらプログラムを作ったのであろうと想像される。良基は、『増鏡』で大きく描くあこがれの王朝絵巻を、天皇の行幸という機会をとらえて足利義満によって再現しようと図っていたのではないか、と言うことが出来ようし、義満もまたよくそれに答えていたのであった。
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桑山氏は一貫して「北山院」と書いていますが、これはもちろん「北山准后」の誤りです。
女院と准后では女院の方が格上で、しかも「北山院」といえば足利義満の正室、日野康子に与えられた称号ですから、桑山氏が何故にこのような勘違いをしたのか、ちょっと不思議です。
しかも途中で「現在残る『北山准后九十賀記』(滋野井実冬記、未刊)」に言及しているにも拘らず、その後、再び「北山院」に戻ってしまっているのはどうしたことなのか。

日野康子(1369-1419)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%BA%B7%E5%AD%90

桑山氏、割と最近亡くなったような感じがしていたのですが、2006年にご逝去なんですね。

桑山浩然(1937-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%B1%B1%E6%B5%A9%E7%84%B6
コメント
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『中世王権の音楽と儀礼』へのプチ疑問(その3)

2019-03-02 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月 2日(土)12時47分52秒

猪瀬氏作成の「[表] 舞御覧における仮名記、御所作、舞、一覧」(p113)には謎が多いのですが、一番の疑問は「貞治三年舞御覧記」に記された貞治三年(北朝年号、1364)三月二十六日の舞御覧が入っていないことです。
猪瀬氏は(その1)で引用した、

-------
 すでに小川剛生によって「宮廷誌」は一代一度の儀礼が多い点が指摘されている(前節参照)。特に顕著なのが、御賀に代表される、天皇の行幸をともない、複数日に渡って舞、船楽、蹴鞠、三席(歌会、作文、御遊)などが行われる儀である。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/de215cb75f02ab2bb5f6f7dff18fdf4f

に付された注17において、

-------
(17) 例えば文永の後嵯峨院五十御賀試楽を記録した仮名記は『文永五年院舞御覧記』、元弘の後醍醐天皇西園寺北山第行幸を記録した仮名記は『舞御覧記』、永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記は『貞治三年舞御覧記(さかゆく花)』と称される。
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と言われているのですが(p123)、「永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記」の名称が「貞治三年舞御覧記」のはずがありません。
少なくとも私の知っている「貞治三年舞御覧記」は『続群書類従』第五百二十八、管弦部二で「文永五年院舞御覧記」の直後に載っている漢文の記録であり、「さかゆく花」とは別物です。
「さかゆく花」は『群書類従』巻三十九に載っていて、こちらは確かに仮名記ですね。
国会図書館デジタルコレクションでも確認できます。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879433/257?tocOpened=1

うーむ。
貞治三年舞御覧記=さかゆく花、というのはどこのパラレルワールドの話なのでしょうか。

>筆綾丸さん
>『源氏物語』では「舞御覧」はすべて冬なんですね。

「[表] 舞御覧における仮名記、御所作、舞、一覧」(p113)を見ると、全部で十四の舞御覧のうち、最初の康保三年(966)大内裏での「侍臣舞」は十月七日、二番目の長保三年(1001)土御門殿での「東三条院四十御賀」は十月九日ですね。
そして三番目の康和四年(1102)高陽院殿での「白河院五十御賀」以降は概ね三月になっています。
例外は八番目、文永五年(1268)の「後嵯峨院五十御賀」ですが、これは本来の儀式は三月を予定していたところ、二月に元の使者が来て京・鎌倉ともその対応で大騒ぎになって中止となり、行なえたのは「試楽」だけだったという事情があります。
結局、『源氏物語』の「舞御覧」は当時の実例を反映しているものの、白河院政期以降に実施時期が冬から春に変化したということのようですね。

>「紅葉賀巻」
「紅葉賀」については以前、少しやりとりしましたね。
猪瀬氏も四条隆房『安元御賀記』の「類従本系」に関連して「紅葉賀」に若干言及しています。(p116)

「巻五 内野の雪」(その6)─後嵯峨院、石清水御幸
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23d3aeb7e26b0d3db74489ee53d35a66
紅葉賀(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9244
「巻五 内野の雪」(その9)─弁内侍(藤原信実女)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccb2bd809899fcfd234c134aab2e658d
『源氏物語』「紅葉賀」との関係
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b67866382d08491170a8d1ae0a312d67
作者(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9257

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

冬の舞御覧 2019/03/01(金) 16:20:07
小太郎さん
『中世王権の音楽と儀礼』の引用文中に、
「一点目に、まず舞御覧(特に御賀)が行なわれる季節は、ほとんどが春、旧暦の三月の初旬、つまり花の盛りの時期であるということである。」
とありますが、『源氏物語』では「舞御覧「」はすべて冬なんですね。
「紅葉賀巻」では神無月十日あまり、「藤裏葉巻」の光源氏四十賀では神無月廿日あまり、「若菜下巻」の朱雀院五十賀では十二月廿五で、ただの物語とはいえ、御堂関白(道長)を読者の一人に想定していたのが事実であれば、紫式部がひねくれていただけなのかもしれませんが、花の盛りの春の舞御覧がひとつもない、というのは少し気になりました。

追記1
https://tokyosymphony.jp/pc/concerts/detail?p_id=MNdho%2BdSPvE%3D
過日、『金閣寺』をみましたが、クラウス・H・ヘンネベルクの台本が悪く、まことにつまらぬオペラでした。黛敏郎の音楽にもがっかりしました。これを見ずに死んだ三島は幸せですね。
台本がドイツ語なので、日本語と英語の字幕があり、たとえば、
「金閣寺は燃えなければならぬ。The golden temple must burn.」
という台詞があるのですが、これは、
「金閣寺を焼かねばならぬ。The golden temple must be burned.」
とすべきで、must burn では、金閣寺が自分の意思で発火するというようなニュアンスになるんじゃないの、と思いました。ドイツ語の台本を見てみたいところです。ほかにも妙な英訳があり、なんだかなあ、という感じでした。

追記2
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2019/01/102524.html
http://www.chuko.co.jp/contact.html
私は昔から歌仙に興味があり、『歌仙はすごい 言葉がひらく「座」の世界』を楽しく読んだのですが、十ヶ所ほど疑問を覚え、「中公新書:cshinsho@chuko.co.jp」に照会してみました。しかし、「※ご質問によってはお答えできない場合もございます。ご了承下さい。」ということらしく、返信はありませんでした。嫌味な質問をしたわけではないのですが(笑)、読者と座は共有しない、ということのようですね。
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