学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「炎上商法であろうと本さえ売れれば万々歳と思っているのだ」(by 呉座勇一氏)

2019-03-08 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月 8日(金)10時52分39秒

ツイッターでは「陰謀論」と戦う呉座勇一氏の「八幡氏への反論:歴史学者のトンデモ本への向き合い方」がちょっと話題になっていますね。

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ではなぜ、「歴史学者はバカばかり」と罵倒し、歴史学者から有益な情報を引き出すチャンスを自ら捨てるのか。「権威」である歴史学者を徹底的にこき下ろした方が、読者が痛快に思い、本が売れるからである。要するに過剰に歴史学者を攻撃している人は、本心では歴史の真実の探求などどうでも良く、炎上商法であろうと本さえ売れれば万々歳と思っているのだ。歴史研究より商売の方が大事という姿勢の人間が書いた本に価値があるはずがないではないか。

http://agora-web.jp/archives/2037618.html

私は「歴史学者はバカばかり」などと言ったことは多分ないはずですが、「国文学者はバカばかり」みたいなことを言った覚えがなきにしもあらず、というか、つい最近も、

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気色の悪い文体で描かれた「阿部ワールド」は一般人には近寄りがたい奇妙な世界ですが、「阿部ワールド」を絶賛する三田村雅子氏にもなかなかの水準の「論文」が多いですね。
今から十年ほど前、私は高岸輝氏の『室町絵巻の魔力』(吉川弘文館、2008)をきっかけに今西祐一郎・松岡心平・三田村雅子・小川剛生等の国文学界の著名学者の論文をまとめて読んだことがあります。
その結果、国文学の世界は本当に莫迦ばっかりだなと思ったのですが、その中でも三田村雅子氏の存在感は大きく、私の狭い知見の範囲では、「阿部ワールド」と「三田村ワールド」は国文学界の莫迦の双璧ではないかと思います。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/05f7513f3ca03a26c6f47105723c698d

などと言っているので、国文学者から「有益な情報を引き出すチャンスを自ら捨て」ているのかもしれず、少し耳が痛いですね。
ま、少なくとも私は金儲けのために掲示板やブログを運営している訳ではないので、「炎上商法」とは関係はないのですが。

>筆綾丸さん
轟教授が自らの授業方針を述べているページがありました。

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 以上をまとめると、哲学とは結局、おのれの生き方を、自分の属する共同体のあり方を含めて考えていくことだと規定できます。そしてこのことは「他者」の生き方を参照し、そこから学ぶということと切り離せませんから、この意味で哲学は自己理解の営みであるのと同じくらい、他者理解の営みであることにもなります。このことからして、哲学を学ぶということは、国防の任務を帯びて他国と対峙し、また国際貢献という形で海外に展開することもある自衛隊を担っていく防大生にとっても、そうした国際的な活動の場において必要とされる他者理解(ならびにそれと表裏一体の自己理解)の能力を養う上で、きわめて有意義であるといえます。このような意味で、教師の側からして防大ほど、学生にとって将来「役に立つはずだ」という確信をもって哲学を教えられるところはありません(学生がこの確信を共有してくれるかどうかはこれとは別の話ですが)。
 具体的に防大では、教養科目として哲学・倫理学関係の科目がいくつか開講されていますが、以上の点を考慮して、わたしはそこで現代の国家や共同体のアイデンティティを形作り、またそれらを動かす原動力ともなっているさまざまな思想(宗教)の紹介に重点を置いて授業を行っています。

http://www.mod.go.jp/nda/obaradai/boudaitimes/btms200606/todoroki/todoroki200606.htm

内容とは関係ありませんが、このページの色彩感覚はちょっと勘弁してほしいですね。
轟教授自身が選んだ訳ではないでしょうが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

轟教授と某学生との対話 2019/03/07(木) 15:04:13
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たき木,はひとなる,さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを,灰はのち,薪はさきと見取すべからず。しるべし,薪は薪の法位に住して,さきありのちあり。前後ありといへども,前後際断せり。灰は灰の法位にありて,のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち,さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち,さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば,冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。(『正法眼蔵』現成公案)
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 ここで注意すべき点は、「将来」、「既在性」、「現在」は相互に切り離されて別々にあるのではなく、それぞれの契機が他の契機と連関し、独自の統一を形作っていることである。この時間性の統一の形成をハイデガーは「時間性が熟する」と表現する。この時間性の統一にはいくつかの熟し方があり、それらの熟し方が現存在の多様な存在形態を可能にしている。現存在の本来性と非本来性も、時間性の「熟し方」の二つの根本可能性として捉えられる(SZ,328)。
 ここで「熟し方」と訳したのは、“zeitigen” という動詞の再帰形“sich zetigen”である。“zeitigen”は通常他動詞として用いられ、「(結果、効果などを)もたらす」、また「熟させる」を意味し、辞書には再帰動詞としての用法は掲載されていない。“zeitigen”はその形からもわかるように、“Zeit”=「時間」からの派生語であり、それ自身、時間と関係をもつ語である。時間性の統一は外部の主体によって引き起こされるものではなく「おのずからなる」ものである。この事態をハイデガーは“sich zetigen”=「熟する」という再帰動詞の形で表現しようとしたのだろう(なおこの語はハイデガーの述語としては、時間性との関係を明示するために「時熟する」と訳されることが多いが、日本語としてはあまりこなれていないので、ここでは採用しなかった)。(轟孝夫〔ハイデガー『存在と時間』入門〕338頁~)
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時間に関して、道元はひどく奇抜に論じ(前後際断)、ハイデガーはごく凡庸に論じて(時熟)いるのですが、歳のせいか、こういう議論が馬鹿々々しくて思われてなりません。道元は13世紀の偉大な仏教者、ハイデガーは20世紀の巨大な哲学者、と人は誉めそやすけれども、ただの変人にすぎないのではあるまいか。

某学生「僕は日本国のためなら、不惜身命、いますぐ命を捨てる覚悟はあり、また、ホーキング博士の虚時間概念を面白く思う者でありますが、轟先生、益体もないハイデガーなんか、死ぬまでチマチマ研究して、どんな意味があるんですか」
轟教授「うるさいな。君になんか、単位はやらないからね」

コメント
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