投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月12日(金)12時25分50秒
前回投稿で引用した部分、四条〔鷲尾〕隆良が後深草院の使者として登場する点も気になります。
少し前の場面で、隆良は「春宮の役送隆良、桜の直衣、薄色の衣、同じ指貫、紅の単、壺・老懸までも今日をはれとみゆ」と、他の廷臣より随分丁寧に紹介されています。
『とはずがたり』に描かれた北山准后(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d72d63a852f8919b6442885021f9716d
二条は叔父の隆良を呼び捨てにしていますが、この人は四条隆親(1203-79)の末子で、鷲尾家の家祖です。
生年は不明ですが、二条が生れる前年の正嘉元年(1257)叙爵なので、二条より年上であることは明らかです。
『とはずがたり』では、隆良は善勝寺大納言・隆顕(1243-?)が父と不和になって廃嫡された際に隆顕に代って嫡子に選ばれた人として描かれています。
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その7)─「さしも思ふことなく太りたる人」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94ad4b4ff6bb7ee3aa12fd9c11b0297d
ただ、それから間もなく隆親が死んだ影響もあるのか、以後の経歴は特に目覚ましいものではありません。
というか、亀山院政下では建治二年(1276)に左近衛中将となって以降、昇進が全く停滞してしまっており、弘安十年(1288)の伏見天皇即位後、翌正応元年(1288)に従三位、同五年(1292)に参議、永仁三年(1295)に極官の権中納言と順調に昇進しているので、後深草院派の廷臣だったようですね。
鷲尾隆良(?-1296)
https://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e9%b7%b2%e5%b0%be%e5%ae%b6%ef%bc%88%e7%be%bd%e6%9e%97%e5%ae%b6%ef%bc%89#takanaga296
従って隆良が後深草院の使者として『とはずがたり』に登場するのは良いのですが、『とはずがたり』と『増鏡』を読み比べると、隆良は後嵯峨法皇崩御の場面に極めて奇妙な形で『増鏡』に登場しています。
即ち、死期が迫った後嵯峨法皇が亀山殿へ向う際、『とはずがたり』と『五代帝王物語』では途中で薬を差し上げる役目は中御門経任が担当しているのですが、『増鏡』では隆良となっています。
「巻八 あすか川」(その12)─後嵯峨法皇崩御(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5b59c05f74d7e9e2a48cd4a1cac23b0
『とはずがたり』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c92d56320b834026aea6cfd673d3fcc
『五代帝王物語』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bdb608a536152037a6a5cfe2af6fb68
また、『とはずがたり』と『増鏡』を読み比べると、四条隆顕も些か奇妙な役回りを演じています。
『とはずがたり』における長講堂移徙と前栽合わせ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e565e295a0913dc5885042a8374963b
橋盗人が四条隆顕から平経親に入れ替わった理由(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c1b33cd2f59e19003b02cd8b946e678
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/220809ca7bf8a84734c29b4665db96a0
詳しくは既にリンク先の投稿で論じたので再論はしませんが、『とはずがたり』と『増鏡』の作者を同一人物と考える私の立場からは、隆良・隆顕は作者が「交換」というメッセージを発する際の記号ではなかろうかと思われます。
>筆綾丸さん
>『バイス』
ちょっと気にはなっていたのですが、映画評価サイトをいくつか見たところ、社会派としてもコメディとしても中途半端なのでは、みたいな評価が多かったので躊躇っていたところです。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
https://longride.jp/vice/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88
また無関係な話で恐縮ですが、昨日、『バイス』を観ました。
チェイニー副大統領が大統領の権限を強化しようとして持ち出した Unitary executive theory(映画では、たしか、一元的行政権、と訳されていました)なるものは、カール・シュミットまで遡及できる概念なんですね。簡単に言ってしまえば、立法・司法の権限を弱体化して三権分立制を骨抜きにする、ということのようですが、あらためて、アメリカという国は訳のわからない国だ、と思いました。