学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『とはずがたり』における遊義門院の登場場面、全九回

2019-04-27 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月27日(土)22時34分14秒

遊義門院が『とはずがたり』に何回登場するかを数えてみたら全部で九回でした。
巻一に一回、巻二無し、巻三に三回、巻四無し、巻五に五回ですから、巻五の比重が大きく、最後の方で遊義門院は特別な存在感を示しています。
もう少し具体的に見て行くと、巻一は誕生の場面で、「このたびは姫宮にてはわたらせ給へども」と出てきます。

http://web.archive.org/web/20061006210037/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-8-higashinijoinno-gosan.htm
http://web.archive.org/web/20101124103051/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-9-hitodama.htm
『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f3a0b0afa709498aaafb673a329dc02

巻三は冒頭、病気になった姫宮の祈禱のために御所に来た「有明の月」が二条を綿々と口説き、それを後深草院がこっそり聞いていて、怒るどころか二条に「有明の月」と関係を持つように積極的に勧める、という変態的なストーリー展開になる場面ですが、そこに「そのころ今御所と申すは、遊義門院いまだ姫宮におはしまししころの御事なり」とあって、姫宮は「今御所」という名前で登場します。

http://web.archive.org/web/20110116073115/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-1-ariake.htm

ついで、「有明の月」との密通を推奨したはずの後深草院がいろいろと嫌味を言う場面の中で、「宮の御方にて初夜勤めて」(姫宮の御方で初夜の勤行をして)とありますが、この「宮」が遊義門院のことです。
ま、ここは本当に名前だけですね。

http://web.archive.org/web/20061006210334/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-9-chakutai.htm

そして巻三の三番目が「北山准后九十賀」の場面で、ここも「両院・東二条院、遊義門院いまだ姫宮にておはしませしも、かねて入らせ給ひけるなるべし」と名前が出てくるだけです。

http://web.archive.org/web/20061006205733/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-26-mikado.htm

巻五に入って最初は東二条院崩御の場面で、「遊義門院御幸」の様子がかなり詳しく描かれています。

http://web.archive.org/web/20090629213131/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-7-kiraku.htm

巻五の二番目は後深草院崩御の場面の後、「伏見殿の御所さまをみ参らすれば、この春、女院の御方御かくれの折は、二御方こそ御わたりありしに、このたびは、女院の御方ばかりわたらせおはしますらん御心の中、いかばかりかとおしはかり参らするにも」云々とあります。

http://web.archive.org/web/20110129160222/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-10-hadashideou.htm

三番目は後深草院の一周忌の場面で、「遊義門院の御布施とて、憲基法印の弟、御導師にて、それも御手の裏にと聞えし御経こそ、あまたの御ことの中に耳に立ち侍りしか」とあります。(次田(下)、p416)

四番目は熊野・那智での夢の場面で、いささか不気味な夢の中に遊義門院が後深草院と共に登場します。

http://web.archive.org/web/20100911053936/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-16-kumano.htm

そして最後が石清水八幡宮での邂逅の場面ですね。

http://web.archive.org/web/20061006205632/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-17-yawata.htm
遊義門院 or 兵衛佐との贈答歌について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7809aefa13fee87761863e350aa362a7

以上、リンク先の旧サイトでは、今から見ると我ながらちょっと妄想が入っているかな、と思われる記述がありますが、それは今後、改めて検討することにします。

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遊義門院 or 兵衛佐との贈答歌について

2019-04-27 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月27日(土)19時13分48秒

昨日の投稿で伴瀬明美氏が「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」と言われていることについて若干の感想を述べましたが、あまりに細かい話になってしまったので、原文を見ないと何のことやら全然分からないと思われた方もいるかもしれません。
昨日はうっかりしていたのですが、自分の旧サイトを確認したら、石清水での遊義門院との邂逅の場面、次田香澄氏による翻訳と現代語訳を引用していたのでリンクしておきます。

http://web.archive.org/web/20061006205632/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-17-yawata.htm

次田氏の翻刻と久保田淳氏の翻刻を比べてみたら、「今日は八日とて、狩尾へ如法御参りといふ」以外にもけっこう細かな違いがありますね。
参考までに久保田氏の翻刻も引用しておきます。(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』p525以下)

-------
〔三一〕石清水で遊義門院の御幸に参り合せる

 弥生初めつ方、いつも年の初めには参りならひたるも忘られねば、八幡に参りぬ。睦月のころより奈良にはべり、鹿のほか便りなかりしかば、御幸とも誰かは知らむ。例の猪鼻より参れば、馬場殿開きたるにも、過ぎにしこと思ひ出でられて、宝前を見まゐらすれば、御幸の御しつらひあり。「いづれの御幸にか」と尋ね聞きまゐらすれば、「遊義門院の御幸」と言ふ。いとあはれに、参り会ひまゐらせぬる御契りも、去年見し夢の御面影さへ思ひ出でまゐらせて、今宵は通夜して、明日もいまだ夜に、官めきたる女房のおとなしきが所作するあり。「誰ならむ」とあひしらふ。得選おとらぬといふ者なり。いとあはれにて、何となく御所ざまのこと尋ね聞けば、「みな昔の人は亡くなり果てて、若き人々のみ」と言へば、いかにしてか誰とも知られたてまつらむとて、御宮巡りばかりをなりとも、よそながらも見まゐらせむとて、したためにだにも宿へも行かぬに、「事なりぬ」と言へば、片方に忍びつつ、よに御輿のさま気高くて、宝前へ入らせおはします。

〔三二〕遊義門院に名乗る

 御幣の役を西園寺の春宮権大夫勤めらるるにも、太上入道殿の左衛門督など申ししころの面影も通ひたまふ心地して、それさへあはれなるに、今日は八日とて、狩尾へ如法御参りといふ。網代輿二つばかりにて、ことさらやつれたる御さまなれども、もし忍びたる御参りにてあらば、誰とかは知られたてまつらむ、よそながらも、ちと御姿をもや見まゐらする、と思ひて参るに、また徒歩より参る若き人二、三人行き連れたる。
 御社に参りたれば、さにやとおぼえさせおはします御後ろを見まゐらするより、袖の涙は包まれず、立ち退くべき心地もせではべるに、御所作果てぬるにや、立たせおはしまして、「いづくより参りたる者ぞ」と仰せあれば、過ぎにし昔より語り申さまほしけれども、「奈良の方よりにてさぶらふ」と申す。「法華寺よりか」など仰せあれども、涙のみこぼるるも、あやしとやおぼしめされむと思ひて、言葉ずくなにて立ち帰り侍らむとするも、なほ悲しくおぼえてさぶらふに、すでに還御なる。
 御名残もせん方なきに、下りさせおはしますところの高きとて、え下りさせおはしまさざりしついでにて、「肩を踏ませおはしまして、下りさせおはしませ」とて、御そば近く参りたるを、あやしげに御覧ぜられしかば、「いまだ御幼くはべりし昔は、馴れつかうまつりしに、御覧じ忘れにけるにや」と申し出でしかば、いとど涙も所せく侍りしかば、御所ざまにもねんごろに御尋ねありて、「今は常に申せ」など仰せありしかば、見し夢も思ひ合せられ、過ぎにし御所に参り会ひまししもこの御社ぞかしと思ひ出づれば、隠れたる信のむなしからぬを喜びても、ただ心を知るものは涙ばかりなり。

〔三三〕遊義門院との贈答歌

 徒歩なる女房の中に、ことに初めより物など申すあり。問へば、兵衛佐といふ人なり。次の日還御とて、その夜は御神楽、御手遊び、さまざまありしに、暮るるほどに桜の枝を折りて、兵衛佐のもとへ、「この花散らさむ先に、都の御所へ尋ね申すべし」と申して、つとめては還御より先に出で侍るべき心地せしを、かかる御幸に参り会ふも大菩薩の御心ざしなりと思ひしかば、喜びも申さむなど思ひて、三日留まりて、御社にさぶらひて後、京へ上りて、御文を参らすとて、「さても、花はいかがなりぬらむ」とて、
   花はさてもあだにや風のさそひけむ契りしほどの日数ならねば
御返し、
   その花は風にもいかがさそはせむ契りしほどは隔てゆくとも
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最後の贈答歌について次田香澄氏は後深草院二条と遊義門院の女房・兵衛佐との間に交わされたものと解していますが、久保田淳氏は遊義門院とのやりとりとしています。
他の注釈書を見ると、冨倉徳次郎は「門院からの御返歌」(『とはずがたり』、筑摩書房、p198)、三角洋一氏は「門院の意を体して、兵衛佐が代作したものか」(『新日本古典文学大系50 とはずがたり・たまきはる』、p245)としていますが、「御返し」ですから冨倉・久保田説で良さそうな感じがします。
ま、私はこの場面全体が後深草院二条の創作で、贈答歌もその一部ではなかろうかと思っている訳ですが、仮にそうだとしても、なかなかしみじみとした良い場面ですね。
ところで伴瀬氏は『とはずがたり』について、注57で、

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▼57『とはずがたり』
著者の二条は、後深草院御所を出された後、諸国を遍歴し各地の寺社に詣でる日々を送っていた。なかでも石清水八幡宮は、二条が毎年恒例のように参り、出家後初めて院と再会した思い出の地でもあった。この八幡宮で院の娘の遊義門院と参り合わせたことを、二条は深い感慨をもってつづっている。
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と書かれていて(p147)、まあ、この場面だけ見れば、こういうしみじみした感想ももっともなのですが、一~三巻の宮廷篇はもちろん、四・五巻の遍歴篇にも権力者と楽しく遊んでいる場面が多々あり、私は伴瀬氏の要約に若干の違和感を覚えます。
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