投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月29日(月)22時15分29秒
前投稿で引用した部分で、三好氏は、
-------
だが、後深草・亀山の次世代において成人した西園寺氏の外孫は、実に姈子内親王ただ一人であった(8)。その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり、「東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなり(皇子に恵まれなかった東二条院の心情を思い、また煕仁はやんごとなき方ではないので、皆、さほど大切に気を遣わなかった)」(9)という。皇子ではなかったものの、後深草の血統を最も正しく受け継ぐ、しかも唯一の存在である姈子は、西園寺氏にとってかけがえのない掌中の珠であった。
-------
と言われていますが、『増鏡』の引用の仕方にはかなり問題がありますね。
「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」との評価の根拠として『増鏡』が引用されているので、公家社会における一般的評価として煕仁より姈子の方が注目されていたと誤解する読者が多いのではないかと思いますが、巻七「北野の雪」を見ると、当該記事では別に煕仁と姈子が比較されている訳ではありません。
この文章は姈子が生れる三年前の文永四年(1267)、洞院佶子が世仁親王(後宇多)を生んだ記事の中にありますが、
-------
上も限りなき御心ざしにそへて、いよいよ思すさまに嬉しと聞しめす。大臣も今ぞ御胸あきて心おちゐ給ひける。新院の若宮もこの殿の御孫ながら、それは東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなりつれど、この今宮をば、本院も大宮院も、きはことにもてはやし、かしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ため、いとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらんと、西園寺ざまにぞ一方ならず思しむすぼほれ、すさまじう聞き給ひける。
【私訳】
亀山天皇も皇后宮を限りなく寵愛されていたが、皇子が生まれていよいよ嬉しいと思われた。実雄公も今こそ胸中晴れ晴れとして心が落ち着かれた。後深草院の若宮(後の伏見天皇)も実雄公の御孫ではあるが、そちらは(皇子のいない)東二条院の御心中も推察され、だいたい、若宮はだれ憚ることのない尊い方という訳でもない方だから、後嵯峨院も大宮院も万事につけて軽く聞き流されておられるが、この新たに生まれた皇子は、後嵯峨院も大宮院も格別に大切になさる。これも中宮(嬉子)のためにはお気の毒でない訳でもないが、どうしてそんなに遠慮ばかりしていられようかと(実雄方は振舞い)、西園寺家の方では非常に不愉快で、興ざめなことだとお聞きになる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7dda16ba09f5989fc63ee20f418bcb06
ということで、ここで比較されているのは、洞院実雄の孫という点では共通の煕仁親王(伏見)と世仁親王(後宇多)ですね。
洞院実雄から見れば、洞院愔子が生んだ煕仁の場合、正妃の子ではないので東二条院への遠慮があるものの、洞院佶子が生んだ世仁は皇后の子という申し分のない立場です。
正妻として並び立つ中宮・西園寺嬉子はいるけれども、嬉子があくまで形式的な存在であることは世間周知であり、遠慮する必要は全くない、ということになります。
そもそも皇位継承の可能性のある男子と、それが全くない女子を比較すること自体あまり意味があるとも思えませんが、少なくとも「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」という評価の根拠として『増鏡』を引用するのは誤りですね。
なお、煕仁親王を生んだ愔子(1246-1329)には伏見即位の翌正応元年(1288)十二月十六日、准三宮宣下があり、同日、院号定があって玄輝門院となります。
愔子は『とはずがたり』には「東の御方」として登場し、「粥杖事件」では後深草院を羽交い絞めして二条に杖で打たせる手伝いなどをしています。
ま、「粥杖事件」に描かれた「東の御方」が愔子の実像といえるかについては、私は極めて懐疑的ですが。
http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月29日(月)14時49分21秒
本文に入ります。
-------
第一章 姈子内親王の立后
第一節 出自と立后の背景
姈子内親王は、後深草院を父、東二条院西園寺公子を母として文永七年(一二七〇)に誕生した。翌文永八年には内親王宣下を受けている。父・後深草の生母は後嵯峨中宮・大宮院西園寺姞子(公子の姉)であり、父母両方から西園寺氏の血を享けたことが、皇女としての順調な幕開けと、その後の経歴に大きく影響している。
西園寺氏の外戚策は、本郷和人氏の指摘のとおり持明院統に集中している(1)。亀山中宮・西園寺嬉子が、亀山の在位中でありながら今出河院宣下を受けて中宮位を降ろされて以来、西園寺氏の外戚策は持明院統に集中せざるを得なかったと推測できるが(2)、その執拗ともいえる外戚へのこだわりの結果、伏見(3)、後伏見(4)、花園(5)、光厳、光明(6)と歴代持明院統国母の座、家長の正妻の座を見事に独占し続けている。公家社会における天皇家の外戚の地位は、当然のことながら摂関期とは様相を異にするものの、鎌倉期の西園寺氏を考察する上で、関東申次職と並ぶ重要な要素である(7)。
だが、後深草・亀山の次世代において成人した西園寺氏の外孫は、実に姈子内親王ただ一人であった(8)。その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり、「東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなり(皇子に恵まれなかった東二条院の心情を思い、また煕仁はやんごとなき方ではないので、皆、さほど大切に気を遣わなかった)」(9)という。皇子ではなかったものの、後深草の血統を最も正しく受け継ぐ、しかも唯一の存在である姈子は、西園寺氏にとってかけがえのない掌中の珠であった。そしてそのことが、彼女の生涯を決定付ける重要な要素であった。
-------
いったんここで切り、注記も引用しておきます。
-------
(1)「西園寺氏再考」(『日本歴史』六三四号、二〇〇一年)、「外戚としての西園寺氏」(『季刊ぐんしょ』五一号、二〇〇一年)。
(2)夫帝在位中の女院号宣下(后位からの引退)は、配偶関係の否定であり(近藤成一「モンゴルの襲来」(『日本の時代史9』、吉川弘文館、二〇〇三年)参照。ただし、中宮から皇后への移行も配偶関係の否定とする近藤氏の見解には賛成できない)、西園寺氏の挫折感は相当に大きかったと思われる。
(3)伏見国母には継母・東二条院西園寺公子が当初擬されていたことが『勘仲記』弘安十一年正月一日条で確認できる。
(4)後伏見国母としては、継母・永福門院西園寺鏱子が既に立太子時に養子に迎えており(『公衡公記』正応二年四月二十五日条)、生母・五辻経子はついに女院には遇されなかった。
(5)花園は異父兄・後伏見の養子として即位したことから、その国母も後伏見の正妃・広義門院西園寺寧子であった(『院号定部類記』「実躬卿記」延慶二年正月十三日条)。花園に正后は不在。
(6)光厳・光明の生母は広義門院西園寺寧子。
(7)鎌倉期西園寺氏の特徴として、関東申次職の世襲と外戚の二要素を重要視する研究は、龍粛『鎌倉時代』(春秋社、一九五七年)、森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版、一九九一年)等がある。
(8)『御産御祈目録』によると、東二条院は弘長二年六月二日、文永二年十一月十四日、文永七年九月(姈子)の三回出産しているが、姈子以外はいずれも文永年間に死亡したようである。西園寺相子所生の異母妹・陽徳門院媖子内親王が誕生するのは正応元年(一二八八)のことであり、姈子立后後のことである。
(9)『増鏡』北野の雪
-------
さて、三好氏は「亀山中宮・西園寺嬉子が、亀山の在位中でありながら今出河院宣下を受けて中宮位を降ろされて」と言われますが、このあたりは西園寺家の分家である洞院家との関係を見ないと事情が分かりにくいですね。
洞院家の祖である実雄(1219-73)は西園寺実氏(1194-1269)の25歳下の弟ですが、その実雄の娘の佶子(1245-72)は亀山天皇(1249-1305)より四歳上で、文応元年(1260)、女御として入内し、翌年一月、中宮に冊立されます。
改元後の弘長元年(1261)六月、佶子に対抗する形で西園寺実兼の同母妹・嬉子(1252-1318)が僅か十歳で女御として入内し、ついで同年八月に中宮となりますが、この時、佶子は皇后に転じます。
ただ、皇后となっても佶子はそのまま内裏に留まり、亀山天皇との関係は良好で世仁親王(後宇多)などを産みますが、他方、嬉子は天皇とは疎遠だったようで、結局、文永四年(1267)、父の西園寺公相が没したのをきっかけに宮中を出てしまいます。
今出河院の女院号宣下はその二年後で、「中宮位を降ろされた」というよりは、実質的に婚姻関係が破綻していたので、嬉子の体面を維持するため、女院号宣下をして別居を正当化した、といったあたりが実際ではないかと思います。
『増鏡』巻七「北野の雪」にはこうした事情がかなり詳しく描かれていますが、佶子の兄・公宗が妹に恋心を抱く、といった奇妙な記事が挟まれるなど、全体として洞院家に非常に冷たい書き方になっていますね。
「巻七 北野の雪」(その1)─亀山天皇即位
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3df252a4860cd095f3b31eca7106579d
「巻七 北野の雪」(その2)─洞院佶子と洞院公宗
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c1c2c8eec29b852e974736def4499e8
「巻七 北野の雪」(その3)─御雑仕・貫川
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/099e8eceb2f5caac3fdf3388b3f7ebc3
「巻七 北野の雪」(その4)─洞院佶子、立后
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c70935efc0465b67406a1d5f67f0afb9
「巻七 北野の雪」(その5)─西園寺嬉子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/853053e3a64d9fb7a4655e1b35872dc0
更に巻十「老の波」にも嬉子に関連した記述があります。
ちなみに後深草院二条の父・中院雅忠(1228-72)は嬉子が中宮となった弘長元年(1261)八月以降、その女院号宣下のときまで一貫して中宮大夫であり、また叔父の四条隆顕(1243-?)は同じく一貫して中宮権大夫でした。
仮に嬉子への亀山天皇の寵愛が篤く、その間に皇子が生まれていたならば中院雅忠・四条隆顕の人生も良い方向に相当変わっていたのではないかと想像されます。
「巻十 老の波」(その7)─後宇多天皇の内裏
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/041ef86f1bb074813a9ca6fb8d3c2c1f