学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「ひとまず「鎌倉幕府の滅亡は必然だった」という暗黙の前提を取り払ってみてはどうだろうか」(by 呉座勇一氏)

2020-09-06 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月 6日(日)21時13分23秒

『戦争の日本中世史』の「参考文献」を見たら、第二章関係に松本新八郎『中世社会の研究』(東京大学出版会、1956)が出ているので、「御家人の家における惣領と庶子の対立に注目する意見」は松本説ですかね。
さすがに松本新八郎あたりは古臭い感じがしてあまり読んでいないのですが、後で確認してみたいと思います。
さて、続きです。(p100)

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 後世の歴史家は「専制支配によって表面的には人々の反発を抑え込むことができたが、社会の深奥では矛盾が拡大していった」などともっともらしく解説するが、それは結果を知っているから言えることであって、当時の人間は鎌倉幕府の滅亡など想像もしていなかった。後醍醐天皇の倒幕計画は、北条氏の専横を苦々しく思っていた側近の貴族、吉田定房からも「東国武士は一騎当千の強者ぞろい、幕府の権力は絶大で衰退の兆しも見えません。倒幕は時期尚早で、現時点では敗北の公算が大です。天皇家がここで滅んでしまっても良いのですか」(吉田定房奏状)と諫められるほど無謀なものだった。
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「専制支配によって表面的には人々の反発を抑え込むことができたが、社会の深奥では矛盾が拡大していった」は「深奥」云々が網野チックな感じがしますが、これは「参考文献」の『蒙古襲来』からの引用でしょうか。
また、吉田定房奏状の「幕府の権力は絶大で衰退の兆しも見えません」云々は、これがいつの時点での定房の認識かが重要です。
吉田定房奏状の作成時期については元徳二年(一三三〇)説が通説だったところ、佐藤進一氏が正中元年(一三二四)説、村井章介氏が元亨元年(一三二一)説を唱え、なかなか微妙な問題となっていました。
しかし、両説、特に村井説はあまりに早すぎて不自然であり、結局は元徳二年(一三三〇)説が一番妥当な感じですね。
呉座氏も元徳二年(一三三〇)説です。

呉座勇一氏『陰謀の日本中世史』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c38d905a374d9dc5a351afb8161781

さて、この後は世相漫談的な記述も出てきますが、正確を期して、省略せずに引用しておきます。(p100以下)

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 そもそも前近代の権力はおしなべて専制的であるので、「専制支配への不満が高まり、体制打倒の気運が生じた」といった説明は無内容なのだ。日本の保守派の評論家は一〇年以上前から「民衆の生活を省みず先軍政治を続ける北朝鮮の命脈は長くない」「貧富の差が拡大し続ける中国はいずれ崩壊する」と説いてきたが、御覧の通りである。
 現代日本も同じだ。「今の政治に不満を持っていますか?」と質問したら、ほとんどの人が「はい」と答えるだろうが、だからといって現在の政治体制が革命によって崩壊することはあり得ない。結局、人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論は、革命の実現を熱望したマルクス主義歴史学の残滓でしかない。
 研究が今後さらに進めば、もしかしたら鎌倉幕府滅亡の根本的原因がわかるようになるかもしれない。だが現時点では「分からない」が良心的回答である。分からないのにムリヤリ答えをひねり出しても仕方ない。
 そこで、ひとまず「鎌倉幕府の滅亡は必然だった」という暗黙の前提を取り払ってみてはどうだろうか。「階級闘争史観」の影響が残っているからか、日本の歴史学界では体制崩壊の直接的契機より体制の構造的矛盾を指摘した方がエラいという風潮があるが、体制への不満分子を「発見」して「これが体制崩壊の根本的要因だ。〇〇は滅ぶべくして滅んだ!」と決めつけることが生産的とも思えない。鎌倉幕府が滅亡するに至ったきっかけを真剣に考えてみることも必要だろう。
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「前近代の権力はおしなべて専制的」だから「得宗専制」なんていう表現はそもそもおかしいのだ、といった主張を私は秋山哲雄氏から聞いた覚えがありますが、「参考文献」には特に秋山氏の著書・論文は出ていませんね。
ま、当たり前と言えば当たり前の話です。
呉座氏の見解の引用はもう少し続きます。
コメント
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「そう、これらの学説は「階級闘争史観」のバリエーションでしかない」(by 呉座勇一氏)

2020-09-06 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月 6日(日)11時17分41秒

それでは呉座勇一氏の『戦争の日本中世史』に戻ります。
昨日、呉座氏が強く批判してやまない「階級闘争史観」華やかなりしころの学説の状況を確認しようと思って、歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史3 封建社会の展開』(東京大学出版会、1970)所収の佐藤和彦「南北朝の内乱」を眺めてみたら、「御家人の家における惣領と庶子の対立に注目する意見」は既に出ていましたね。
半世紀、あるいはそれ以上遡る学説のようです。

佐藤和彦(1937-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%92%8C%E5%BD%A6

昭和初期に「階級闘争史観」による歴史学研究が始まり、治安維持法下の弾圧で沈黙を余儀なくされた後、敗戦後に「階級闘争史観」の爆発的なブームが到来し、例えば東大文学部では「国史学科の四九年入学組十六人のうち実に九人までが共産党に入党する」ような状況になります。

「運動も結構だが勉強もして下さい」(by 坂本太郎)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06ac5441a8971a3ada912df93428d77f

既に百年近い歴史を有する以上、鎌倉時代末期に限っても「階級闘争史観」の内容は複雑で、研究史を丁寧に追って行けばそれなりに面白いのでしょうが、大変な手間と時間がかかりそうなので今は遠慮し、学説整理の手際よさには定評のある呉座氏の説明をもう少し聞くことにします。(p99以下)

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 本来は自分たちと同じ一御家人にすぎない北条氏の専制支配に、御家人たちの怒りがついに爆発した、という説もある。これに、流通や貿易への関与によって富を蓄えていく北条得宗家・御内人〔みうちびと〕に対し、貨幣経済の進展に取り残され相対的に貧しくなった御家人たちの反感が高まっていく、というストーリーが付け加わることもある。
 けれども、この見方では、北条氏と姻戚関係を結び幕府内でも有力御家人として尊重されていた足利高氏(のちの尊氏)が鎌倉幕府に反旗を翻した理由を説明できない。
 御家人不満説とは逆に、御家人ではない武士たちの反抗によって滅びたという議論もある。第一章で説明した「御家人身分の限定性」という問題、つまり御家人になりたくてもなれない武士たちが当時の社会に多く存在していたことを思い出してもらいたい。すなわち、蒙古襲来対策として幕府のために軍役を負担しているにもかかわらず、幕府から御家人として認めてもらえず保護も受けられないという差別的待遇に対する非御家人の不満と反発が、幕府滅亡につながったというわけだ。これは<悪党=御家人ではない新興の武士>という古典的な理解に基づくもので、倒幕に大功のあった楠木正成や赤松円心がその典型例とされる。
 しかし、近年の研究では、楠木氏は御内人、赤松氏も六波羅探題配下の御家人であったことが指摘されている。反体制派どころか、完全に体制側の人間だったのである。
 右に掲げた諸説に共通して言えることは、体制から疎外された勢力が蜂起し、体制を打破するという筋立てである。読者諸賢は既にお気づきであろう。そう、これらの学説は「階級闘争史観」のバリエーションでしかない。
 御家人・非御家人を問わず、鎌倉幕府、特に北条氏の専制に不満を持っていた人は確かに大勢いただろう。鎌倉幕府の中枢にあって甘い汁を吸っていた特権的支配層を除く九九パーセントの人間が反感を抱いていたと言っても過言ではない。だが、そのことと、彼らが幕府打倒、北条氏打倒を現状打開の手段として現実に検討するかどうかは、全く別の問題である。
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いったん、ここで切ります。
「特権的支配層」という表現は細川重男氏が用い始めたものですかね。
昔は御内人(身内人)は御家人より格下みたいに思われていたのですが、そんなことはなくて、そもそも御内人と御家人は排他的ではなく、実際には御家人が御内人になっていること、そして御家人と身内人の最上層で構成される「鎌倉幕府の中枢にあって甘い汁を吸っていた特権的支配層」の実態を解明したのは細川氏の業績ですね。(『鎌倉政権得宗専制論』、吉川弘文館、2000)

細川重男(1962生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%87%8D%E7%94%B7
コメント
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